2月, 2016年

「幸せ」は日常の小さな出来事の中にある

2016-02-08

「幸せ」というものを“勘違い”している人が多いようです。自分の「理想的な生活」とか「夢の実現」とかを“幸せになること”だと勘違いしてしまうと、現在の生活が色褪せて見えるので、どんなに努力しても「幸せ」には手が届かない、という“焦り”や“虚しさ”ばかりが強まることになります。そうすると増々「幸せ」は遠ざかってしまうことになるのです。まず「幸せ」は、現在の日常の中に見出すものです。「理想的生活」と「幸せ」とを“ごっちゃ”にしてはいけません。日常の中の“小さな幸せ”の積み重ねが“大きな幸せ”になるのです。日常の“小さな出来事”の中に、“小さな幸せ”を見つけ出す努力こそ、“大きな幸せ”を得られる最大の秘訣なのです。人生は結局“小さな出来事”が複雑に積み重なって織りなされていくからです。

「時代」と「地域」が織りなす先天的背景

2016-02-07

われわれは誰でも、産まれて来る「時代」を選ぶことが出来ません。また産まれて来る「地域」を選ぶことも出来ません。この二つが、その後の人生に大きく影響を与えることが少なくありません。平和な時代に産まれて来ること、及び、恵まれた地域に産まれて来ること、この二つをクリアしていれば「先天運」としての第一関門を突破してきた新生児ということになります。さらに好ましい家庭環境、好ましい外貌と才能が与えられていれば「鬼に金棒」です。これらを与えられながら「幸運」を掴めない、或いは「幸せ」を得られないとすれば、自分自身の「生き方・考え方」に何らかの問題がある、と見なければなりません。潜在意識の活用法が間違っているのかもしれません。自分自身を「罪深い存在」と思ってはなりません。周囲の人達を「否定」しすぎてはいけません。未来を「不安視」しすぎてはいけません。これらが「不運・災難」を呼び寄せる元凶だからです。

「古書」からの伝言

2016-02-06

最近、“大昔に流行した占い”や、現在は“消滅してしまった占い”や、世界の“珍しい占い”を研究する目的で古書を購入するケースが多い。そういう中で気付かされたことがいくつもある。まず世の中には、翻訳書も含めて、出版はされたが一般には知られることなく、埋もれていった占術書が山のように存在する、ということである。既存の占いだけでなく、“珍しい占い”や“オリジナルの占い”や“一子相伝的な占い”など、占いには精通しているはずの私にとっても、思わず唸ってしまうような“貴重な占い”の書物を発見することが少なくない。大体が“変わった占い”とか“複雑すぎる占い”とか“独創的な占い”は、形になりにくい。つまり出版されにくい。一般向けでないものは当然のことながら商業ベースに乗りにくく、出版社も手掛けにくいのだ。けれども、そういう占いの中にも、後世にまで伝えていくべき“価値を持つ占い”は存在する。おそらく著者たちも、そういう意識を持って著述され、自費出版的な形にしてでも出版された“占い本”が、実は意外なほど多いのだった。その中には、本業が“占い師ではない”人たちの本も多い。また独自の占いを継承していく人物がいないので、仕方なく著書として遺された本も多い。ただ当然のことながら発行部数が少ないので、現在では古書として貴重で高額になってしまっている書籍も多い。よく芸術や芸能などでは「保存会」というものがあるが、占いの世界にはそういうものがない。いや正確に言えば、有るのかも知れないが私は知らない。秘伝継承者とか家系的何代目といった“それらしき人”はいても、今一つ、本当の秘伝なのか、本当の家系なのか、継承者なのか、茫洋としている。

日本だけで考えても、古来、有名な占い師の書籍はそれなりに活字化され、現在でも復刻されたりして入手可能となっている。ただ「占い書籍」として重要なのは、或いは貴重なのは、そういう“有名な方々”だけに限らない。例えば、江戸時代で有名な占術家として、現代にまで名を知られているのは5~6名にすぎない。なぜなら、それ以外の占術家は著書を残していないのだ。いや、正確に言うと遺したのかもしれないのだが、現代にまで伝わっていないのだ。つまり、実際にはもっとすぐれた占術家がいたかもしれないのだが、もっとすぐれた著述があったかもしれないのだが、記録が残されていないため調べようがない。実際、明治に入って以降の場合で言えば、手書き本や写本という形で、ほとんど無名と言っていいような人物の占い書籍が何冊も存在する。中には著者名が記されていない手書きの本さえある。そういう中に、実は“きらりと光る”新鮮な驚きをもたらす占い書籍が存在する。稀には江戸時代の本も存在するが、漢文か草書体で記されているので判読が難しい。手書きの本の場合は、著者の息遣いが感じられるもので、その時代に特有の出来事が記されているような場合もある。例えば、自分の子息を「勘当しなければならない人の相」とか「女中が金品を持ち出す相」とか「戦地に赴く時の相」とかの記述がある。

秘伝書と呼ばれているものの中には、何が何だかわからない「禅問答のような教え」が記述されていることもある。例えば新井白蛾著『天眼通』には「初前前後後後如四法」という“謎の言葉”が掲げられ、それこそが天眼通の秘訣だと記されている。これは易の理論に精通していないと説明しても理解しがたいので解説しないが、要するに“判断技法の一解釈”をもったいぶって“謎解き”にしているだけにすぎない。このような類の著名占術家の秘伝書が、江戸時代を席巻していた。

それらとは別に、ほとんど知られていない研究者による実用本位の占術書も、明治~大正~昭和前半にかけての時代には遺されている。そして、そういう中に本来であれば“もっと注目されてよい”貴重な研究とか、実占記録とか、独創的な技法や観方などを記した書籍が何冊も発行されているのだ。特に、現代では“使い手が見当たらない”占いの記録には、著者からの“熱い想い”や“甦りたがっている生命力”が感じられ、どうにかして現代に蘇らせられないものか、後世にまで伝えられないものか、考えてしまうことが多い。実際、古代から現代へ引き継がれている占いはほんの僅かにすぎない。多くの占いは消滅したか、首の皮一枚で継承されているのが現状なのだ。同じような占いだけが悪戯に拡大されていく今日、人間の“歩み”を伝える意味でも、無名占師ともいうべき人々が遺した貴重な遺産が、私に何かを強く訴えかけている。

「光」を求めて

2016-02-06

人は誰でも、逆境に陥った時には本能的に「光」を求めて行動する。自分にとって少しでも未来を照らし出してくれるよう思える方向へ手を伸ばすのだ。ところが、その時には「光」に見えたものが、後から気付くと“「闇」への入り口”だった、ということも多い。日頃、思慮深い人であっても、勘の良い人であっても、人生には「魔」というものが忍び込むことがある。運気の悪さが「魔」を呼び寄せてしまうこともある。或る種の思い込みとか、タイミングとか、反抗心とか、投げやりな気持から、一瞬「光」の奥に潜む「闇」に気付かないことがあるのだ。突き進んでいくにしたがって、未来を予知する潜在意識は何らかの「警告」現象を発するが、そこで“踏みとどまれる”人は少ない。「運命の分かれ目」という言葉には、誰もが体験する人生の真実が含まれている。

「安心してください」風邪をひきます?

2016-02-05

「安心してください はいてますよ」という“裸っぽいポーズ”で売れ始めた「とにかく明るい安村くん」ですが、今日から始まる「さっぽろ雪まつり」にも“目玉”として呼ばれているらしい。いや、実は「雪まつり」だけでなく、北海道のさまざまな雪や氷の祭典に呼ばれていて各地を回るらしい。氷点下のこの時期に、各地で「安心してください」のポーズを決めるためには、小さなブリーフ一枚で居なければいけない。大丈夫だろうか…と誰もが思う。ただ彼は元々が北海道・旭川の出身で、しかも甲子園球児でもあったらしいのだ。旭川は元々北海道でも寒い地域で冬場の球児たちは厳寒の早朝から練習をする。今の身体から“球児”は想像できないが、育ってきた環境は氷点下に慣れている。一瞬、風邪をひかないか心配したが、多分「明るく」決めて、乗り切るのだろう。

「著名」と「悪名」の間

2016-02-04

世の中には「印象に残りやすい名前」というものがあります。特に、何かの分野で著しい活躍を見せるとか、マスコミなどで名前と顔が出た時、何となくすぐ憶えてしまう「名前+顔」というものがあります。つまり“著名になりやすい名前”というものがあります。そして、いったん世間に記憶された「名前+顔」のイメージは容易に消えません。したがって後になって、その名前が“別な形で世間に知られる”ようになった場合でも、奇妙なことに、その名前は“一人歩き”をして人々の記憶に残りやすくなるものです。つまり、良い意味でも悪い意味でも「名前+顔」が一体化した場合、それは“強い生命力”をもち、本人の意志とは無関係に多くの人達に知られ、運命的な人生を歩みやすくなる、ということです。そういう意味では「印象に残りやすい名前」は、著名にもなりやすいのですが、その反面「悪名」を轟かすような存在にもなりやすい、ということです。

「節分」は四回ある?

2016-02-03

古来からの行事として普及している「節分」ですが、厳密にいうと一年に四回あります。季節を分けるのが「節分」だからです。二月の節分は暦の上では「冬の区切り」で“一年の終わり”を意味しています。俗にいう「旧暦(節気暦)」上の年末と言えます。節気暦というのは「太陽暦」の一種で、日照時間の多少で季節を区切った暦のことです。気温を基にしていないので「冬の終わり」が体感的には早いのです。けれども日照時間は毎年一定しているので、合理性がある季節区分法です。節分が四回というのは、当然“春・夏・秋・冬の区切り”があるからで、そのうちの「冬の区切り」だけを重視するのは、季節の「春」を年間のトップにおいているからです。大昔の中国では「冬」から一年をスタートしたこともあるのですが、しっくりこなかったと見えて長続きはしませんでした。

1000万の予備軍がのたうつ

2016-02-02

現在、日本に100万人以上の患者がいて、その予備軍とされる人たちが1000万人以上いると推測されるのが「うつ病」です。実際の治療患者だけでもすごい数ですが、その予備軍の数というのが、あまりに多すぎます。なぜ「うつ病」が発症するのか、未だ完全には解明されず、その治療法にしても手探り状態のようです。つまり日本における1000万人以上の人々が、実生活の日々の中で“予備軍的症状”を抱えながら、不安におののき、精神的に「のたうちまわっている」というのが現状のようです。アラビアの格言に「人は生まれ、人は悩み、人は死んでいった」というのがありますが、悩むことがなければ「うつ」にもならないはずで、そういう意味では、すべての人が“予備軍の予備軍”として、幸せそうな横顔を見せながら“綱渡り的な人生”を歩んでいる、と言えるのかもしれません。

ラッキー星占い 2月の運勢

2016-02-01

「理不尽」という名の舞台

2016-02-01

世の中には「理不尽」なことがたくさんあります。極端な言い方をすれば「理不尽だらけ」です。世の中というものはそういうものなのです。ところが、日本の社会は極力「理不尽な状態」を作るまいと努力しています。日々、それなりに努力しているのです。したがって一見、平等で秩序正しく、道理にかなった社会であるかのように見えるのです。ただ、それは“表面上見える”というだけです。この事実を理解していないと「理不尽なことは許せない」と衝突する人が出てきます。もちろん、その気持ち自体は“悪いこと”ではありませんが、それにこだわりすぎることは、本当に“賢い人”の行うことではありません。時に、世の中には「そういう部分もある」と黙って引き下がることも、残念ながら“賢い大人”の取るべき路なのです。けれども、ここで重要なのは、いったん折れて、気持ちを切り替え、やり方を変更し、新たなる方向から、再び挑むと、好結果につながる場合もある、ということです。つまり「理不尽」ではあっても、別な形で“神様が手助け”してくれることも、世の中にはあるのです。

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