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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「才能」には、大きく三種類の「開花」がある


昨日、第165回の芥川賞&直木賞の受賞者たちが決まった。芥川賞は『貝に続く場所にて』の石沢麻衣氏。『彼岸花が咲く島』の李琴峰氏。直木賞は『テスカトリポカ』の佐藤究氏。『星落ちて、なお』の澤田瞳子氏の4氏だ。久しぶりの“二人ずつの受賞”であり、豊作の時期であったといえる。私が以前、ここで注目した佐藤究氏も受賞されて良かった。ところで、私が今回書きたいのは「才能」というものの“質”についてである。例えば、今回、佐藤究氏は初のノミネートにして受賞している。それに対して澤田瞳子氏は、私の記憶が正しければ何回もノミネートしながら、その都度、受賞を逃していた。また芥川賞の石沢麻衣氏は“デビュー作”ではないだろうか。これは小説を書くことに限らないが、人間の持っている「才能」の質はさまざまで決して一律では語れない。先ほど、澤田氏は何度も“受賞を逃した”と書いたが、それはこの人の“才能の質”に関係がある。つまり、この人は“徐々に才能が引き出されていく人”で、最初から備わっているタイプとか、一気に引き出されていくタイプではない、ということだ。こういう人は最初はコツコツ型である場合が多く、具体的に“間違い”とか“問題点”とかを指摘してあげると、それを修正していくので、徐々に実力を高めていくことが出来る。したがって本当の意味での“才能発揮”までには多少時間を要するが、その代わり、いったん習得してしまえば、それ以降は“平均して高い水準”を保つことが出来るのが特徴である。次に佐藤氏や李琴峰氏のような、どちらかと言えば“元々の素質が高い者”の場合には、そのチャンスさえ与えられれば一気に“才能が花開く形”で、仮にそのチャンスがなかなか回って来なかったとしても、いったん“日の目”を見るとぐんぐんその頂きを駆け上っていく。しかも、こういう人の多くは“根拠のない自信”を持っている。途中で“自棄になって放り出す”ことさえしなければ、必ずや、その才能は発揮されるようになる。現在ドイツ在住だという石沢氏の場合は、典型的な“発揚型の才能”で、つまり“何かと出逢う”ことによって、突然、“それ”に目覚めるとか、小説に場合には“書き始める”というのが特徴で、“そのこと”がなければ、けっして“その方面”に向かうことなく、日常的な中でしか才能は発揮されず、凡庸な日々を過ごしているに違いない方々である。よく、特異な才能は“先天的なもの”で、とても自分には“そのような能力はない”と思っているような場合に多い。そういう人たちでも、何かしら“特殊な出逢い”や“特殊な体験”を持つことで、能力が“目覚める”ことは十分あって、その、もっとも顕著な例が“重い事故”や“特殊な病気”に遭って、その体験の後に“霊能力”や“予知能力”が目覚めていくような人たちである。石沢氏の場合は別に“霊世界”などではないのだが、“不可思議な世界”という点では同様で、それも特殊な環境下にあって“生み出された才能”であることは、否定できない事実なのだ。

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