一時期、新聞の一面広告等で派手に宣伝されていたのが「開運印鑑」である。ところが、近年、あの手の広告をめっきり見かけなくなった。そう思っていたら、印鑑販売大手の「旭フォトマイクロウェア」が東京地裁へ民事再生法の適用申請をしていたことが判った。つまり、大手の印鑑屋さんが潰れたのだ。近年、行政手続きの簡素化が進み、役所や企業内において、印鑑を使用するケースが減った。またネット販売と機械彫りの普及で、安い印鑑が大量に出回ることになった。昔は街に存在していた「印章店」そのものが消えてしまった。もう印鑑を精魂込めて“手彫りする”時代ではなくなったのだ。そう言えば宅配の時に、印鑑を使わなくなって久しい。宅配の方も、すぐサイン出来るペンを渡してくれる。そうなると、もう誰も「開運印鑑」などと言わなくなる。手掘りの何万もする“開運印鑑”が売れなくなるはずだ。大昔、私がまだセミプロだったころ、唯一親しかったスナックのママが、私に「いろいろと持っているのよ」と楽し気に開運印鑑のコレクションを見せてくれたことがある。無造作に化粧箱に入れられた印鑑が十数本はあった。「こんなに、どうするの?」「だって、いろいろな人が、こういうのが良いと売りに来るのよ、みんな言うことが違うの、だから増えちゃった」彼女は楽しそうに笑った。「名前だけのと、苗字も彫るのと、どっちが良いの?」「仕事に使うなら、名前だけのは良くない」「そうなの? 印鑑と通帳と新しく作ったばかりだけど…」困ったような顔をした。彼女は豪華なマンションに暮らしていた。「ねえ、シャワーを浴びない?」「いや自宅に戻ってから浴びるから…」一瞬、彼女の顔が曇ったのに気付かなかった。自宅で占ってほしい…と言われたやって来ていたので、その時、私には彼女の一言の意味が分からなかったのだ。それに、彼女はよく“付き合っている男性”のことを私に相談した。だから、彼女が“そういう気持ち”だったとしても、私はそういう気にはなれなかった。一瞬だけ、奇妙な沈黙があったが、それだけだった。あれから何十年も経った。開運印鑑をポンポン並べて楽しそうに笑った彼女はどうしているのだろう。
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