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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


新庄監督「自己責任論」はどこまで正しいか⁉


日ハムの新庄監督が若手選手たちに対して「結果が出せないのは自己責任だから…」と見放したような発言をしたことに対し“賛否”が分かれている。つまり「その通りだ」という支持派と「無責任すぎる」という否定派と、完全に真っ二つに分かれているのだ。こういう場合、たいていはどちらかに傾くものだが、今回に関しては“五分五分”のような分かれ方をしている。監督の“言い分”を解かりやすくまとめるとこうなる。自分は最初から選手たち全員に「チャンスを与える」と断言して、それを実行した。だから実力のある者も、ない者も、平等に1軍でプレー出来た。そのチャンスを“生かせるかどうか”は本人に掛かっている。その結果として“打率220”に達しない者は、1軍のプロ選手としては活躍できない。だから、そういう選手には来季の保証はない。これは別に“奇をてらった発言”ではなく、どの世界であれ“プロの世界”としての能力評価の方法として当然であるような気もする。彼の発言に該当するのは清宮選手や万波選手だが、確かに好不調の波が大きく、評価的に大きく分かれそうなタイプの選手達だ。どちらかと言えば日本は、欧米からすると“実力や才能を数字だけで評価すること”に対して抵抗感を持つ人が多い。一般的なサラリーマン社会でも、実績だけでなく“人柄”であるとか“努力”であるとかを、その評価に加える傾向がみられる。そういう点からすると、新庄氏の発言は“冷たく”感じられないこともない。ただ監督はコーチではない。技術的なことをあれこれ言う監督もいるが、本来は個々の素質や技術や能力にアドバイスを与えて“才能開花”を可能にするのはコーチの役目だ。監督は、そのコーチ陣も含めての総指揮官である。もっとも、その総指揮官が「今年は優勝を目指さない」と言ったら、選手たちの士気が上がるわけがない。本音はそうでも「俺が監督になったのだから優勝のチャンスはある」と言ってあげた方が士気は上がるに違いない。そういう意味では選手にも問題はあるが、監督にも、多少の責任はある。一般企業でも、優秀な指揮官は部下後輩たちを上手く扱い、適材適所で企業を発展させていく。元々が“天才肌”である新庄氏には、みずからの“ふがいなさ”にもがいている選手たちに対して、優しい言葉の一つでも掛け“気分良く”打席に立たせる“魔法の言葉”が少しばかり欠けているかもしれない。
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