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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


日本人は「多様性の尊重」が出来ない国民性⁉


杉田水脈氏が「総務大臣政務官」に就任したことで、改めて“多様性”の問題がぶり返している。彼女は就任会見で“それ”を問われて「多様性を否定したことはない」と発言。それに対してネット上では「嘘つき」という言葉が飛び交っている。確かに岸田内閣は「多様性が尊重される社会」を掲げていて、それに対して水田議員の過去の“発言”や“文章”は一見矛盾しているようにも思える。けれども、元々「多様性の尊重」という言葉は“性的な違い”だけを表す言葉ではない。彼女に批判的な意見の人たちの多くは、その部分のみに集中していて、その点がまず、私は怖い。さまざまな見掛け上の違い、考え方の違い、生き方の違い、それらを“受け入れる社会”を作り上げていこうということのはずだ。これを“性的な部分”だけに限定してしまうと、本来の趣旨からは外れてしまう。もし「多様性」というものに、その“考え方”“生き方”を加えて良いのであれば、過去における“水田氏の主張”もまた“一つの考え”“一つの生き方”として、それはそれで尊重されなければならない。そのうえで、それが時代に適ったものであるか、それが“我が国”に適ったものであるか、議論されなければならない。頭から「それはあり得ない」と否定することは、それはそれで“多様性”を認めていないことにつながる危険な考えだ。実は、この部分は「日本国」を考える時に、とても重要な部分で「日本」という国家は単一民族に近く、言語も統一されていて、あらゆる面で地域差も少ない。つまり“外国人の同化”という点から考えると、他の国に比べて“難しい国”のような印象を持つ。外見的なものでも、単一民族に近い日本人の外貌は比較的似ているので、それ以外の人種や民族の“外貌”に対して“違和感”を生じやすい。したがって「男」とか「女」とか言う以前の問題として「日本人」と「外国人」との間に“線を引きがち”である。先天的な障がい者に対してもそうである。もちろん、それは“差別”というよりも“区別”に近い考え方からである。同じような意味合いで「男」と「女」の間に“線を引こうとする”ことが、果たして“差別”にあたるのだろうか。「日本語」と「外国語」との間にも、日本人の多くは“同じようなもの”としての扱いが出来ない。だから、見掛け的に日本人でも、日本語が話せなければ“本能的な差別”をしてしまうケースが出て来る。宗教的なものでもそうで、日本では“一般的な神道”、或いは“一般的な仏教”以外の宗教の場合、その考え方や生き方を公的な場面で“すんなりと受け入れて”もらえないケースが多い。これらすべてを徐々に正していくことこそ岸田政権の掲げる「多様性の尊重」だと思うのだが、もう少し日本人全体が多様性を“違和感なく受け入れる教育”をしていかないと、国際社会から“取り残される”可能性もあることを考える時、ただ単に目立つ議員を責めれば良いような話では荷ような気が、私にはするのだ。
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