~ 次々と5人が怪死した家 ~
今から89年ほど前、東京渋谷の高台に洋風建築で二階建ての立派な家が建てられました。ところが完成した住居を何となく気にいらないといって建てた本人は一度もそこに住むことなく売り出してしまいました。
それを購入したのは都内で大学講師をしていた西洋人でしたが入居して間もなく亡くなってしまったので少しの間は空家となっていました。やがて軍人で歩兵大佐であった中川幸助氏がその家を買い取り、多少改造して自分の住居としました。そしてこの家で少将に昇進することとなったのですが、その拝命式の日、1917年5月15日に急死されました。その後、陸軍少将の小川健之助氏がこの家に入りました。ところがこの小川氏も翌年の5月15日に内臓疾患により急死されました。
ここに至って地元の人々はこの家を「化け物屋敷」と呼ぶようになりました。その噂を聞いて「文明の世の中にそんなことなぞ続くものか」と巨漢で体力には自信のあった会社員武藤武全氏が買い取り家族と共に移り住みました。武藤氏は広尾橋から京橋へと電車通勤していたのですが、ある日下車するときに電車からすべり落ち、頭部を強く打って排血症となり急死されてしまいました。時に1921年6月15日でした。武藤氏の夫人は最初からこの家に住むことを反対していただけにショックが大きく、精神に異常をきたして昼も夜も押入れに隠れて「汚い、汚い」と叫び続けるようになってしまいました。そこで見かねた親戚が夫人を病院に入れ、その子供たちも引き取られて家は売りに出されました。
そんな因縁を持つ家なのに買い手がつきました。欧州大戦のときに鉄の相場を張って巨富を得た吉和田秀雄氏でした。彼はその一年ほど前から顔全体が黒紫色に変色していく原因不明の奇病で苦しんでいました。あらゆる病院や加治祈祷を回っても回復の見込みがないので社会の第一線から退く決意をかためて、よりによってその化け物屋敷を選んだのです。ところが、奇病により化け物のような顔になった吉和田氏が住みついたにもかかわらず、その家の祟りは作用して1922年4月15日に41歳の若さで脳膜炎により急死されてしまったのです。
これほどまでに因縁めいた家が他にあるでしょうか。中川氏が亡くなったのが5月15日、小川氏も5月15日、武藤氏は6月15日、吉和田氏は4月15日で一番先の西洋人だけが亡くなった日付がハッキリしていません。
その家の家相(上図)を見ると南西に玄関があり、北西に裏口があり、家のほぼ中央に階段があり、北東にトイレが位置しています。これから考えると、この家からは病人が出やすく、夫が家を出て婦人が家を守るような結果となりやすく、頭部に支障が起こりやすく、東側が大きく欠けているので生命力が失われやすいのです。
全員が4月から6月にかけて亡くなっているのは、東から南にかけての方位が、月日としては、3月下旬から、6月中旬にかけてを表しているからです。