今やオリンピックの出場選手は、ほとんどの場合にはスポンサーがついていて“実質プロ”の扱いを受けている。もちろん、日本で人気がないスポーツや認知度の低いスポーツは、いくら実力があってもスポンサーはつかない。そういう点で言うと「走るスポーツ」は、日本では人気があってスポンサーが付きやすい。女子の長距離選手に新谷仁美氏がいる。女子1万メートルで、これまでの日本記録を大きく塗り替える30分20秒44の「日本新記録」を打ち立てた。現在、積水化学に所属している。実はこの選手、2014年から2018年まで“引退”生活をしていた。ロンドン五輪にも出場し、その後も期待されていたのだが、右かかと痛の持病を持っていて、これ以上はムリだと自己判断し、2014年になってすぐ“電撃引退”をしてしまっていたのだ。そして、普通のOLになった。痛む足を引き摺りながら練習するより、ごく平凡でも“苦労の無い生活”が好いと思ったのだ。確かに、OL生活は“身体”に優しかった。アスリートのような食事制限もなく、健康的に太った。それは本人が望んでいた“体に優しい”生活だったが、何かが物足りない。一番は「お金」だった。当たり前の話であるが、一般のOLの給与など知れている。特別な学歴があるわけでもなく、走る以外に、特別なスキルがあるわけでもない。それは想像以上に“欲しいもの”を我慢しなければならない窮屈な生活だった。ふと「走ればもっと稼げるのに…」という想いが脳裏をよぎる。それに、練習をしていないと、余計なことばかり考える。将来の惨めな生活が頭に浮かぶ。「やっぱり、戻ろう」彼女は決断した。そう思ったら早い。すぐにトレーニングを開始し、積水化学と話をつけた。実際に復帰してみると、以前のようなストレスがない。どんなに過酷な練習も「プロだよ」と、自分に言い聞かせられる。こうして、あっという間に元の記録まで到達でき、次々と大会を制していくことが出来た。彼女のように、いったんは故障で“その世界”から遠のき、一般女性の暮らしに戻って、その後年数を置いてから再び“還って来る”アスリートは多い。いや、アスリートだけでなく、特殊な分野には“そういう人達”が多い。人間は本能的に自分が「魂を燃やせる世界」を知っている。どんなに過酷でも、その世界なら「生きている」と実感できて、全身全霊を捧げられる世界を知っている。だから、いったん“その世界”を失っても、普通の暮らしの中で、本能的に“そこに戻ろう”とする状況を作り出しやすい。「昔取った杵柄」は、どんなに錆び付いても、磨けば輝き出すのだ。
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