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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「多様性」を認めるなら「老害」の指摘は変⁉


最近、いろいろなところで「老害」というものが話題として取り上げられる。TVのバラエティー番組で50代のタレントが「先輩としてのちょっとした指摘も、それは老害と言われては何も言えなくなってしまう」と問題提起した。そして、その一例を話したのだが、視聴者たちから「まさに老害の典型」という形で指摘され、年配者たちからさえも擁護されず、総攻撃を受けている状態であるという。確かに、その一例は良いとは言えなかったが、ただ、わたしは思うのだ。最近は、あまりにも“ハラスメント”とか“老害”とかいう表現で、さまざまな年代の“生き方”そのものを否定するような傾向が強まっているのではないかと…。考え方にしろ、生き方にしろ、行動の在り方にしろ、時代によって変化していくのは当然のことだが、その時代に正しいから、いつの時代にも正しいとは限らない。われわれが歴史を学ぶというのは、そういう「時代的な変遷」を学ぶということでもある。現代の“ハラスメント”や“老害”というものに対しての捉え方は、この根本的な事実を“置き去りにしている部分”が多いように思われる。別に、わたしは「昭和が正しい」などというつもりはないが、少なくとも、そういう時代を経てきたから“生まれ育った文化や芸術や事業”が多数あることは認めた方が良い。そして、そうであるなら、同じように“そういう時代”を生き延びてきたことで“形成された”考え方とか、生き方とか、行動の仕方とかに対しても、受け入れる必要はないが“傍観する大らかさ”はあっても良いのではないだろうか。現代は70年代とか80年代とかの日本のポップスが世界的に静かなブームとなっている。その当時のドラマや映画にも魅力的なものは多い。そこに描かれているのは、現代なら各種のハラスメントや老害行為として排除されるような内容のものが大変に多い。それなのに、視ていて決して違和感はなく、規制され過ぎた現代のものよりも、はるかに面白い。これもいけない、あれもいけないで果たして“人間性豊かな心”は育まれるのであろうか。それが本当に“多様性ある生き方”を生み出すというのだろうか。一方で“多様性”を認めろと言いながら、その一方では「この範囲内でなければいけない」と規制する世の中は、少しも“多様性ではない”よう感じられるのは、わたしだけなのだろうか。
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