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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「普通のことが倖せ」と感じる…素晴らしさ⁉


普通の日常を送る……ということが、重い病気になってしまうとなかなかできない。それが“出来なくなった”ことによって、今までの“出来ていた普通の日常”が、いかに「幸せなことだったか」ということに初めて気が付く。タレントのだいたひかる氏が、5月25日で47歳となり、がんを告知されてから7年が経過したことを振り返り、これまで生きられるとは思わなかった……と感謝の気持ちを綴っている。しかも、出産まで経験し「天気の良い日に洗濯をしたり、そういう普通のことが倖せだったりします」と記している。そうなのだ。倖せというのは、実は“普通の日常”の中にある。われわれはどうしても、普通の日常が出来ることが“当然”だと思ってしまうので、それを「倖せ」として噛みしめることが出来ない。けれども、大病をして入院していた人とか、罪を犯して入獄していた人とか、何かの事情から幽閉されていた人とか、普通に自分の部屋で暮らしている、或いは普通に自分の足で歩いて外出している、普通に見知らぬ人とも話が出来る、普通に食べたいものを購入できる……そういう“普通の暮らし”そのものが、胸が熱くなるほどに倖せだったりする。特に「がん宣告」の場合、だれもが“死”と向き合いながらの生活となる。数年後に“生きていること”自体が奇跡のようなこともある。そうすると、普通に食事をして、普通に働いて、普通に眠ること自体が、大切な一日、一日、となっていく。もっとも、それもだんだん慣れてしまって「もう大丈夫」となってしまうと、人間というのは「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、再び“日常の不満”が出てきたり、現状に対しての感謝などなくなってしまうのだが、それも含めて、人の幸不幸は最終的に外から与えられるものではなく、自らが、自らの意識の“置きどころ”が作り出すものであることに改めて気が付く。と、もちろん、このように偉そうなことを私は書いているのだが……実は、これは私自身に向けての警告でもある。特に、私のような元来が“贅沢に出来ている人間”は、普通の日常などでは到底満足など出来なくて、あれも欲しい、これも欲しいと思ってしまうのだ。う~ん、これこそが“重い病気”なのかもしれない。
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