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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「疑惑判定・誤審」も「運」なのが勝負の世界


今回のパリ五輪では“疑惑判定”や“誤審”がいくつかの場面で指摘されている。世の中の多くの人は、スポーツの世界では「審判の判定に不正があってはならない」と考えているようで、そのため本人も含めて抗議するケースが多い。柔道60㌔男子でもあったし、テニス女子シングルスでもあったし、男子バスケットボールでもあった。今回に限らず、スポーツの大会では、こういうことがしばしば起こる。いや、スポーツの大会に限らない。何かの賞コンテストとか、競技大会とか、選抜とかだって、ときどき誰が視ても「おかしい」と感じられるような評価が下されたり、勝敗が生まれたりする。圧倒的な“差”のある競技ではそういうことはまず起こらないのだが、微妙な力関係の場合は、プラスアルファとしての見た目とか、心理面とか、今後の思惑とか、さまざまな要素が加わって最終的に“判定”は下される。したがって、客観的に視て「おかしい」と思える評価が下されることは、しばしば起こり得ることで、意識的な不正も含めて“疑惑の判定”は或る意味で仕方がないと割り切った方が良い。将来的には、全ての判定をAIロボットが下すようになる時代が来るかもしれないが、少なくとも“ふつうの人間たち”が判定を下す場面が続く限りは、そんなに完璧な公平さを求めるのは無意味なことだと考えた方が良い。もともと人間には「運」があり、それに恵まれている人と、それに恵まれていない人とが世の中には居る。間違いなく居る。そして、運の良い人は本来なら与えられるはずのないものが与えられたり、窮地に陥っても何故か最終的には守られたりする。運の良くない人は、本来なら当然与えられるべきものが与えられなかったり、評価されるべきものが評価を得られなかったりする。つまり、実力が正当に評価されないことが、一度だけではなくしばしば起こる。それらに耐えて、それでも実力を磨いていけば、やがては“圧倒的な力の差”を見せつけて勝利を得ることもできる。つまり、運の悪さを“跳ね返すだけの根性”を持っていれば、世の中の不条理など怖くはないのだ。
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