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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「美」に対し“優劣”をつけない方が「不自然」


最近、私は「世界遺産」のような“特別ひいきした自然風景”に対して違和感を持つようになっている。どうして、わざわざ「世界遺産」を申請して、その“称号”を貰おうとするのだろうか。その“称号”がなければ、人々は「美しい」と感じないのであろうか。もし、そうなら、それはわざわざ申請すべきものでもないし、認定すべきものでもない。“強制的な美”など、私個人は視たくない。それと同じような意味で、人間に対しての“美の基準”もそれぞれに違っている。だから個人的な主観で自分のホームページ上に「世界美人図鑑」を載せたところで全然かまわないと思うのだが、どうも世間はそうではないらしい。数日前から自民党の西村康稔氏が十年ほど前から自分の公式ホームページ上に「世界美人図鑑」というコーナーを作り、その時々で気に入った“美人写真”の投稿を掲載していたことが“差別”とか“セクハラ”とかに該当するというので批判を浴び、結局、そのコーナーの全面的な削除を余儀なくされたらしい。彼は別に、何かの審査基準を持って「美人」掲載をしていたわけではない。あくまでも自分自身の趣味的感覚から「美しい」と感じた女性を、その時々の場所で写して載せていたにすぎない。もし、これが“絶対的な基準”を示して「美人はこうあらねばならない」などと述べたのであれば“差別”と評価するのも良いだろうが、あくまでも単なるスナップ写真だ。たまたま各地を移動した場所に居た三人組の女性を写し「誰がいちばん美人でしょう?」とコメントをつけたりしたことが、どうしていけないのか。時には“後ろ姿”だけを写して「美人」として掲載している。この人は顔だけで「美人」を判定していないのだ。或る意味では“ジョーク的要素”を含んだ写真集ではないか。ただ単に写真だけでは殺風景だから、軽いコメントも添えた、それだけで他に何の意図があるのか。こういうものまでも、思想的な角度からどうこう言う神経が私には解からない。だいたい、そういう批判をする人に限って「世界遺産」などは、認定されたとたんに「美しい」と評価したりする。自分の眼を持っていないのか、と言いたい。それに、大自然の美を称賛するなら、人間の美を称賛して何が悪いのか、と言いたい。“美”に優劣があるのは厳然たる事実だが、個人的な“美の基準”がそれぞれ違っていることも紛れもない事実で、個人的な“美の感性”を無くそうとさせるのは“芸術的感性”を奪うことで、人類の才能そのものを奪おうとする暴挙に思える。
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