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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「背負うもの」「引き摺るもの」から逃れるとき


多くの人は、何かを“背負って”生きている。また多くの人は、何かを“引き摺って”生きている。その、どちらもない人は、楽に生きられそうな気がするが、実際には“生きていく糧”を求めてあれこれ移ろいながら生きている。何かを背負ってというのは、その人に“課せられた業”である場合が多く、仕事の場合もあれば、プライベートでの場合もあるが、とにかく「これだけはやらなければ…」という意識の下で生きている。次の何かを引き摺ってというのは、その人の過去とか出生とかと関係があって、それがあるから「いまはこういう形で…」という想いの中で生きている。これらが何もない人は基本的には“自由に生きられる”はずなのだが、何かしら生きていることに“虚しさを覚える”ことが多く「何のために生きているのか」時々わからなくなる。つまり、人間というのは、その三つに大きく分けられるのだ。最近、日本の歴史の中で最後の将軍となった徳川慶喜氏の子孫、5代目当主に当たる(やしゃご)山岸美喜氏が「絶家」とする決断を下したという。徳川慶喜家の墓や遺品を守り続けてきたのだが、すでに限界に達したというのだ。その広大な墓地は維持していくだけで莫大なお金が掛る。そこで私有のものではなく「国」のものとして、これからは管理・運営してもらおうというわけだ。確かに、名家の子孫というだけで、さまざまな責任や負担がのしかかるのではたまったものではない。個人のものであれば、自由にお墓参りも出来るが「国」所有となれば、簡単には墓参りも出来なくなる。それでも、これまでの負担を考えると、むしろ“背負ってきたもの”を下すことの安堵の方が大きいようだ。過去の人生で、自分の生き方を決定づけた“出来事”とか“事件”とか“トラウマ”とかを持っている場合、それが、その人の“いま”を形作っているケースは多い。その人にとっては“そのこと”を除いて、人生とか、過去とか、運命とかを、語ることはできないのだ。そういう場合は、好むと好まざるとに関わらず、それを引き摺って生きている。おそらく、完全なる形で“そこ”から脱出することはできないのだ。そういった二つのものを持っていない人たちは、自由に、楽に生きられそうだが、実際には“そうではない”場合の方が多い。なぜなら、生きること自体の“核になるもの”が無いので、生きていくこと自体が虚しいからだ。結局、人は“何かに縛られている”方が、最後の最期まで“強い生命力”を保ち続けられるのかもしれない。
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