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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


「規制だらけ」になっていく「令和」って何⁉


最近、テレビとか、雑誌とか、ネットとか、いろいろのもので“新しい言葉”や“聴き慣れない表現”に出逢うことが多い。たとえば昨日「グルテンフリー」なる言葉を初めて知った。食品類から“グルテン”を除去した食事法のことらしく、そういうものがあることを知らなかった。この種の“新しい言葉”とか、表現とか、文字とか、とにかく“そういうもの”が、ここ最近になって多すぎるような気がする。人それぞれ“多様な暮らし方”をするのは良いことだとは思うが、あまりにも“初めて接する言葉や生き方”が多すぎて、どうして急に“いろいろなもの”が溢れ出てきたのか、新しい時代の“怖さ”のようなものを感じざるを得ない。最近“レトロなもの”にも人気復活の兆しがあるというが、別に“レトロ”と表現しなくても、自分の好ましく思うものを暮らしの中に取り入れていけば良いだけの話で、とにかく「令和」になってから“細かな規制”が多すぎるような気が、わたしにはする。「自由奔放」という言葉があるが、わたしなどはほんとうにそういう意味では“自由”に育ち“自由”に暮らしてきた。ハッキリ言えば、自分が何を言っても、どう行動しても、咎められることのない時代を通過してきたのだといえる。いまの方達は、或る意味では不幸だ。なぜなら公の場においては、常に言葉を択びながら話さないと、批難されたり、時には逮捕されたりもする。自分の思ったことを、思ったまま話せない社会って、何かが“違う”ように私は思う。或る意味では、さまざまな人たちを“思い遣って生きる”のが今なのかもしれないが、じゃ昔はそれがなかったかと言えば、そんなことはない。むしろ、昔の方が自然なカタチでの“思い遣り”があったと、わたしは思う。時には無遠慮に相手に踏み込んで、それが相手を傷つけることもあったが、だからといって、そこに率直な想いがあれば、傷つきながら“抱き合うこと”だって出来るのだ。いまの社会は、確かに表面上は“思い遣っているよう”に視えるが、それはあくまでも見せかけであって、要するに“本音で暮らしていない”というだけに過ぎない。大体、愛情て伝わるもので、言葉や表現が悪かったとしても、だから憎むようになることはない。わたしは中学の時の担任から「お前みたいにPTA会費も払っていないやつが、上の学校へ行けるわけないだろ‼」と皆の前で怒鳴られたものだ。いまなら告発ものだが、わたしは、あの頃があったことで、忍耐強い人間になれたと思っている。結局、自由奔放に言い合える時代の方が、人は人を信用できるのだ。
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