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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


もっと「自由な発言」の“世の中”を目指すべき‼


わたしはときどきTVで放映している“昔の映画”とか“昔のドラマ”とかを観る。その時に必ず「問題の場面が登場するが、当時のまま放映する」旨のテロップが出る。要するに、現代の場合にはコンプライアンス(法令や社会規範)重視で、言葉、行動、映像、表現にかなりの規制が掛けられているが、当時は“自由に表現していた”というふうな意味からだ。確かに、意識してみれば、当時の映画やドラマには“過激なシーン”がいろいろと出て来る。その方が解かりやすいし、視る側にも訴えかけやすい。ハッキリ言えば「自由が許されていた時代」ということだ。そのせいか、当時の映画やドラマはとても解りやすくて面白い。「時代だから仕方がない」と言ってしまえばそれまでだが、現代はあまりにも“規制をかけ過ぎている”のではないだろうか。先日、三重県議会でのやりとりが、ネット上での注目を集めた。平田武県議(69歳)が、女子高生が参加したイベントに関して「女子生徒の作ったスイーツがひじょうに美味しかった。その女性もすごくきれいな二人で、もう完璧に100点だなと味も含めて思った」というような感想を述べた。ところが、そのあとで議場に立った小島智子県議(62歳)から「一人一人はそのまま認められるべき存在で、外見至上主義的な今の発言は、特に今の子供たちが、顔立ちや背格好にとらわれ過ぎている実態を踏まえれば、払拭する側に県政は廻らなければいけない」と注意を促す発言をしたという。この女性県議の言うことは確かにその通りなので、別に悪いわけではないのだが、ただ世の中全体が「ちょっとの失言をも許さない風潮」にあることの象徴のような気がして、なんとなく憂鬱になった。どうして今は“ちょっとした表現(失言)”をも許そうとはしないのだろう。おそらく失言をした平田氏は普段から“そういう表現”をしがちな人なのだろう。そして、世代的にも“そういう表現”で育ってきた世代といえよう。確かに“外見至上主義”はいけないし、現代の子供たちが、ともすれば“そういう風潮”を持っていることは事実だ。けれども、それは大人たちの日常会話の“変化”で無くなっていくものだろうか。そういうものとは別なところから“そういう風潮”は来ているような気がする。たとえば韓流アイドルの影響などだ。極端なことを言えば、外見的に優れたものを“優位としてマスコミが扱う風潮”から正していかなければ、子供たちは気付かない。高齢者の発言など、子供たちには関係ないのだ。
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