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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


何度見ても映画として完璧な「ローマの休日」


TVのBSで「ローマの休日」を放映していたので録画して観た。もう、これで三度目か四度目の「ローマの休日」になる。したがってストーリーに関しては解かっているのだが、それでも“惹きつける力”を持っている。見終わってから、なにが良いのだろう……と自問自答した。たぶん何よりも物語として矛盾がないのだ。最近の映画を見て感じるのは、作り手の側の「映画だから許される」というストーリー構成の“ムリ”が感じられる作品が多い。この作品には、そういう部分がない。この作品だけではなく、60年代から70年代にかけての作品には、まずストーリーにおいて矛盾のない作品が多い。それに単純な構成が多い。人はだれでも、単純で解りやすいほど、その作品の中に入っていける。自分を登場人物に投影しやすい。複雑な構成は、それを理解するまでに時間がかかり、なかなか没入できない。この作品は、外遊した王女のアンが宿泊先を抜け出し、記者と出逢って、丸一日“普通の娘”として“ローマの休日”を楽しむ物語だ。時代的に白黒の映像で、現在であればコンプライアンス的に許されないような場面もある。けれども、王女が庶民となり、記者が王女と気付いて“特ダネ”を得ようとするのは、ごく自然な発想で、その中で一緒に過ごすうち“互いに惹かれ合っていく”のも矛盾がない。けれども、王女には王女としての役割があり、記者は“特ダネ”よりも大事なものを胸に刻む。そのふたりが“記者会見の場面”で“素知らぬ風”を装うのが実に好い。もし、これが映画ではなく現実だったとしても、このような対応をしあうであろうと思われる場面が実に好いのだ。それは、多くの人々が実生活の中で「許されない関係性」を“何らかの形”で体験して、自らの身に置き換えることが出来るからだ。オードリーヘップバーンという女優は、後年、自らが飢餓に苦しむ地域などに出向いて慈善活動に熱心な人生を歩んだ。そういう人物が“王女”を演じていたことも無縁ではない。日本でも宮城まり子という女優は映画で関わった福祉との関係が深まって、やがて「ねむの木学園」の創設者となった。人はときどき、それまでの人生をかなぐり捨てて“新たな世界”に飛び込んでいく。それが“正しいこと”であるのかどうかはだれにも判定が出来ない。ただ最終的には、そこに“自分の魂”を見出せるかどうかなのだ。
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