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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


年末は何故か「子供時代の想い出」が良く似合う


奇妙なことに、年末が近づいてくると、人は「過去」を振り返る。それも去年とか一昨年の“身近な過去”ではなくて、ずっと遠い「子供時代の過去」についてだ。年末以外には“忘れている”のに、どういうものか、年末になると決まって“子供時代”が蘇ってくる。ほんとうなら、子供時代よりも“来年のこと”でも考えれば良さそうな時期なのに、なぜか“それ”はそんなに重要ではない。頭の中を勝手に駆け巡るのは、懐かしい“子供時代の場面”に限られるのだ。そうは言っても、わたしの場合、そんなに“良い想い出”というのは少ない。たいていは「サンタクロースがやって来なかった」とか「お年玉がほんの少ししかもらえなかった」とか「両親ともお家の中に居なかった」とか、まあ、われながら“可哀想な場面”ばかりだ。それでも……というか、それなのに……あの頃のことばかりが、やけに懐かしい。そう“可哀想な少年時代”なのだが、その少年時代が、今となっては妙に懐かしい。そして何にも増して“宝物のような愛おしい”少年時代なのだ。不思議なもので、あの頃は「こんな家は嫌だ」とか「こんな両親は嫌だ」とか「こんなひもじいのは嫌だ」とか、いつも思っていたのだが、今になってみると、ああいう感じだったから良かった……というか、人一倍なつかしく、想い出として大切なのだろう。今になれば言えることだが、あの両親で良かったし、あのお家で良かったし、あの貧しさで良かったのだ。人間の記憶というのは不思議なもので、過去に遡れば遡るほど、ぼんやりとしてくる。そうしてセピア色に変った写真のように妙に懐かしくなる。懐かしさだけが、どんどん深まって、愛おしくなって、子供時代の“はなたれ小僧”の私自身を抱きしめてやりたくなる。何にも言わずに抱きしめてやりたくなる。どうして、そういうふうな気持ちを抱くのか、どうして“あの頃の自分”を愛おしく感じるのか、正直、解からない。ただ解かっているのは、どんなに頑張っても、もう“あの頃”には戻れない。多分、他の兄弟たちは「戻りたくもない」というかもしれない。だが、わたしは戻って“幼い自分”を、何も考えていなかった“子供の中の子供だった”自分を、妙に抱きしめたくなるのだ。
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