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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


引っ越し後、初めて「お経」「祝詞」唱える


昨日、引っ越し後に初めて「お経」と「祝詞」とを唱えた。何しろ、わたしは“多神教”である。仏教徒でもあり、神道徒でもあり、キリスト教徒でもある。だから新居にも金色の仏壇があり、大きい神棚があり、キリスト教用の祭壇が……ない。とにかく私は多神教なのだ。本当はイスラム教やヒンズー教やユダヤ教などにも参拝したい。少なくとも“多くの神様たち”と仲良くなっておきたいのだ。よく「一つの宗教に絞るべきだ」というような人達もいるが、神様たちというのは、そんなに狭量ではない。だから読経した後、すぐ祝詞を上げる。そして『聖書・詩篇』の一節を読む。ただ、このところなんだかんだと気忙しいこともあって、そういう“祈りの時間”が省かれてきた。よく、こういうものは「毎日唱えなければ意味がない」などと言う人もいるが、これも狭量な話で、そんなに神様たちは“狭いココロ”を持ってはいない。ときどき、気が向いたなら唱えれば良い。義務的に行うのは何であれ不自然さが生じる。ごく自然に、暮しの中の“ひとコマ”として“祈りの時間”があれば良い。唱えるお経にしても、わたしはむかしからのヤツをオーソドックスに唱えるだけだ。それが終わると立ち上がって祝詞に入る。これも何となく持ち歩いて来た祝詞の一篇を唱えるだけだ。さらに詩篇の音読も気に入った部分のみだ。こうして、わたしは“三つの宗教”と関わる。というか戯れる。宗教行事をことさら“神聖なもの”として扱い、或いは“規則”に沿わなければ……という人もいるが、何度も言うが神様たちというのは、それほど狭量ではない。だからこそ、どの国の人にも受け継がれていくのだ。「日本」の場合、少なくとも“どの宗教”を支持しようと参拝しようと基本的に「罪」にはならない。効果的な面から言えば「お祈り」や「お願い」はなるべく具体的な方が良い。神様は万能ではないし、時には間違いも犯す。だからこそ“素晴らしい”のだ。もしも神様が完璧なら、われわれのちっぽけな悩みや問題には“手を差し伸べよう”とはしないだろう。われわれと同じように“いつも傷つき悩んでいる”からこそ、われわれの気持ちが解かるのだ。「完璧な神」になど価値はない。いつも「供え物」を欲しがっているところも、わたしは好きなのだ。そういう部分が無くなったなら、親しくなろうと思わない。
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