「single-blog.php」* 有料カテゴリ:「今日の迷信・余言・禁言」は月額1,200円で読むことが出来ます。// ざっくりとは終了 // Header画像を変更する事

今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


私自身の過去が「授業料無償化」に拒絶反応⁉


いつも思うのだが「時代」というものは個々の運命に大きく作用する。先日、政府が2025年度より子供が3人以上いる世帯に対して「大学(短期大学や専門学校なども含めて)の授業料や入学金など」を無償化する方針を固めたという。少子化対策と教育費の家庭負担軽減と、たぶんその両方を兼ねての政策であるらしい。世間的には歓迎されているようだが、わたしは“弊害”の方が大きいと思う。まず、誤解をされる人がいるといけないので、わたし自身の過去を曝け出そう。あれは、わたしが中学1年生のときだったと思うが、当時、わたしの担任教師は「ギャング」というあだ名を持っていた英語教師だった。彼は、その時、それぞれの生徒の将来の進学希望と目指す仕事を訊いていったのだが、わたしのところでストップした。そうして「お前のところは給食費もPTA会費も払ってないよな。そういうとこで大学とか、なに夢見てんだよ」彼は、クラス全員の生徒の前で威嚇的に私を睨みつけた。突然のことで、わたしはうろたえ、そして黙った。沈黙が静かに続いた。教師は少しバツが悪くなったのか、次の生徒に話を移した。もちろん、これは「時代」的にそういう時代だったので、必ずしも、教師が悪いとばかりは言えない。けれども、少なからず、わたしは傷ついたものだ。せめて、私一人だけ呼び出して言ってほしかった。ただし、この件も含めて、わたしは“良い時代”に育ったと思っている。実際、当時の私はそんなに勉強熱心とは言えなかったし、学級委員だったのに、バザーにおける金銭管理でその教師に迷惑をかけていた。だが、ここで言いたいのはそう言うことではなくて、要するに学問は身銭を切らないと、ほんとうには身に付かない、ということだ。子供たちにとって、親が負担しなくても学校に行けるということは、事実上「国が勝手に決めたこと」ということになる。そういう中では、勉強そのものに対して“血のにじむような努力”はしないものだ、ということを言いたいのだ。人は追い込まれている状況の中で必死に努力する。自分の親が身銭を切って進学させてくれたことを身近で感じていれば、無意識に勉強に対して真剣に取り組もうとする。だから、もし無償化をするなら、成績が“学校の成績順位で何位以内なら”という条件を付けるべきだ。本来、勉強への意欲が乏しい者に対してまでも、無償化するのは賛成できない。
「ex-module-past-post-list-01.php」出力:single-post用の過去記事ループ処理

過去の記事一覧今日の迷言・余言・禁言