「single-blog.php」* 有料カテゴリ:「今日の迷信・余言・禁言」は月額1,200円で読むことが出来ます。// ざっくりとは終了 // Header画像を変更する事

今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


結局「単純・素朴」な方が「映画」は面白い


人間は齢を取ると、長時間、本を読むということが出来なくなってくる。実用書であればまだ良いのだが、小説などはどうしても途中で読み進むことが難しくなったりする。そこで、映画であればそんなに長時間使わなくても、2時間とか3時間とかで完結している。だから、そういう方面に流れていってしまう。ということで、TVで放映される“昔の映画”を録画して見ることが多くなった。わたしが特に好むのは60年代とか70年代とかの洋画が多い。なぜ、昔の洋画が好いのか、自分でもほんとうのところはよくわからない。ただ、いくつかハッキリしていることがある。その一つはストーリー的に単純なものが多いということだ。登場人物も少ない。そういうものの方が話が入りやすく、すぐ自分を“その物語の中”に投影していける。現代の作品の多くは、ストーリーが複雑で、登場人物も多くて、その物語に入っていくのに時間が掛かる。単純、素朴な概要の方が、人は理解しやすく、その物語の人物に自分を投影していける。たとえば昨日見た映画ではこうだ。大金持ちが、将来の大女優を夢見る“駆け出し女優”に恋をする。そこで、彼は、自分もその舞台に出て、なんとか彼女の気を引こうとする。そのために涙ぐましい努力をする。大金持ちであることは隠したまま、彼女に“認められようとする”彼の姿が何とも可愛らしいのだ。最終的には彼の努力が実って、彼女は彼からのプロポーズを受け入れるのだが……要するに、それだけの話なのだが、視る側は最初の10分で“何となくのストーリー”は把握できてしまうのだが、それでいて妙に「もういいや」とはならない。見続けてしまうものを持っている。最近の映画には「最後までわからない」を“売り”にしているものが多い。けれども、だから、面白いとは限らない。最初から結末など何となく解かっていても、それでもなぜか途中で「もういいや」とならない何かを持っている。それはたぶん、人間としての“誰もが持っているふつうの部分”を主人公たちが持っていて、だから視る者が自分の姿を投影しやすいのだ。結局、ストーリーそのものは極端な話どうでも良くて“その人物”に親近感を覚えるから見続けるということになる。近年の映画には、主人公でありながら“その人物”が何を考え、何を感じているのか、わからないまま展開していくケースが多い。だから、どんなに複雑で奇想天外でも、どこかで納得していない“自分”が置き去りにされたまま「完」を迎える。
「ex-module-past-post-list-01.php」出力:single-post用の過去記事ループ処理

過去の記事一覧今日の迷言・余言・禁言