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今日の迷言・余言・禁言

未来と運命に対するヒントがいっぱい


裁判の刑罰より「良心呵責の罪」は消えない


歌舞伎役者・市川猿之助の母親・父親に対しての「自殺ほう助罪」に対する裁判が行われ、検察側は「懲役3年」を求刑、弁護側は「執行猶予」を望み、11月17日に判決が下されることが決定した。妙な言い方であるが、今回の場合、犯罪は犯罪だが、自らも死のうと決意して「死にきれなかった形」で、一家心中を試みて、自分だけが「生き残ってしまった」ちょっとバツの悪い“自殺ほう助罪”になってしまった。ただ猿之助氏にとってプラスに働いたのは、その後すぐに「ジャニー喜多川氏の性加害問題」が大々的に取り上げられ、そちらの方に世間の関心が移り、それと比べると猿之助氏の「ハラスメント」に関しては“たいした問題ではない”かのような印象を与えることになった点である。実態はどうか知らないが、何らかのハラスメントがあったことはあったのだろうが、今回はそう言うことでの「罪」ではなくて、あくまでも“自殺ほう助”としての罪と罰である。おそらく、家族間での“心中話”だった点も考慮に入れると、彼の場合には「執行猶予」がつくのではないかという気がわたしにはするが、ただ犯罪の性質上、この事件は彼に対して“一生消えることのない十字架”を背負わせた。だれだって、自分の両親を“自殺に追い込んで”穏やかな気持ちで居られるはずがない。その時には、自分も死ぬことで「みんな一緒」的な気持ちが優先したかもしれないが、いまは自分だけが“生き残ってしまった”負い目がある。そうして、その負い目は死ぬまで付いて回るのだ。或る意味では、そのことの方が、裁判による罪状などよりも、はるかに重い。自分自身が結果的にみれば“死なせたのも同然”の一家心中劇。それは文字通り“歌舞伎の世界”であれば“涙の物語”として美しく描くこともできるが、現実の社会では“厳しい世間の後ろ指”に身を晒すことになる。しかも、隠れて生きて行くのは難しい“花形役者”なのだ。おそらく、彼自身はもはやその覚悟があって今回も職業を問われ“歌舞伎役者”と答えたに違いない。実際、これをどうみるかは難しい問題だが、ただ一つ“歌舞伎役者の履歴”として「両親を死に追いやった」過去を持つことは、必ずしもマイナスな点ばかりではない。たとえば「心中もの」などの舞台を演ずることになった時、だれもが無意識に過去の姿を回想する。本人だって、無意識にそれが演技に反映してしまうに違いない。そして劇中で流す涙は、演技のための涙ではなく何度でも流れて来る後悔と懺悔と追憶の涙なのだ。
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