3月, 2004年

時代は循環暦のように

2004-03-22

先日、書店に寄ったら、芥川賞を受賞した2作品『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』が山のように積み上げられていました。

すでに綿矢りさ『蹴りたい背中』は100万部、金原ひとみ『蛇にピアス』は50万部、それぞれ売れたそうです。19歳と20歳の女性たちが書いた、ということも購買欲を誘っているのかもしれません。若い人たちの小説離れが叫ばれて久しい中、これだけの売り上げをあげたのは奇妙といえば奇妙です。昔の定義に従えば、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学に送られる賞で、その結果として売れるのは直木賞の本だけ、と相場が決まっていたものです。それが、今回は逆転してしまったのです。

同じように、芥川賞を受賞しながら爆発的に売れた小説があります。今から27、8年前の村上龍の『限りなく透明に近いブルー』です。このとき、村上龍は24歳でした。

『蛇にピアス』と『限りなく透明に近いブルー』には、ある種の共通点があります。

作品の内容は、ある意味で退廃的であり、時として虚無的でさえあります。それでいて、若者特有の生命力があり、時代への飢餓感が感じられるのです。

実は、私は『限りなく透明に近いブルー』が芥川賞を貰ったとき、趣味で小説を書き始めたばかりでした。それで、良く覚えているのです。 こんな小説のどこが良いのだろう、と思ったのを忘れることができません。実際、私だけでなく、評論家や作家の中にも、この作品に対して批判的な人はたくさんいました。でも、そうではなかったのです。時代への飢餓感の表われはさまざまです。時代の波に飲み込まれそうになりながら、必死に何かを手探りで捜し求めようとする姿、生きている証を留めようとする姿、みずからの存在を確かめようとする姿――それらは若者の感性と言葉とでなければ、本当の意味では表現し得ないものなのです。時代の風俗と同時にでなければ、表現し得ないものなのです。

食み出しっ子にしか、時代を見事に切り取って見せることはできません。

最近、テレビドラマでも「白い巨塔」や「砂の器」が人気を集めています。これらの原作は、共に25年以上前の作品です。どちらの作品も時代というものが背景にあるのですが、食み出しっ子が主人公ではなく、エリートとその背後にあるものがテーマです。一番最初に「白い巨塔」の主人公を演じた俳優・田宮二郎は、ドラマの最終回が放映されてまもなく、謎の猟銃自殺を遂げています。

酒鬼薔薇聖斗(少年A)とマルカムX

2004-03-19

7年前の神戸殺傷事件の犯人であった「酒鬼薔薇聖斗」こと少年A(当時)が、3月10日に少年院を仮退院しました。その後の新聞・雑誌・TVなどで、そのことの是非などが盛んに論議されています。

事件の大きさから考えて、仮退院に対して反対意見が多いのは理解できます。けれども、私は「運命」を扱う者として、10代の時に引き起こした事件が如何に残虐であったにせよ、だからもう一生更生する機会を与えない、という考え方には基本的に反対です。どんな人間でも、人間は生まれ変われるからです。もちろん、生まれ変わったとして、それで罪が消えるということではありません。けれども、憎んで死刑を与えたとして、それで誰が救われるのでしょうか。

この人物の将来を考えるとき、私は何人かの殺人犯のその後を、考えずにはいられません。

その代表的人物の一人として、マルカムXがいます。

1970年代のアメリカにおいて、宗教的・政治的指導者として熱狂的支持を集めたマルカムXは、ろくな教育も受けず、貧民街で育った実在の人物です。幼い頃から悪事を重ね、10代半ばで殺人を犯し、長期間服役します。

その服役していた刑務所の中で、彼はイスラム教の原典「コーラン」の中に、真実を見出すのです。「我、神に一歩近づけば、神、我に一歩近づく」という教えです。

それ以降、彼は模範囚となり、出所後も人が変わったように、正義の使者へと大変身を遂げていくのです。やがて、貧民層に熱烈な支持を受ける指導者となっていくのですが、最後は銃弾に倒れるのです。

多少違っている部分があるかもしれませんが、私が記憶しているマルカムXとは、そういう人物です。

誤解されたくないので記しておきますが、私は酒鬼薔薇聖斗を擁護する気はありません。ただ、運命という名で語られる生年月日時の星の配置に「聖職者」も「殺人鬼」もありません。

性格や才能や運命的資質が与えられているだけです。それらの資質を人生という舞台の中で、どう表すかは、本人に掛かっているのです。

彼は、1982年7月7日に生れています。

出生ホロスコープの中で、火星と土星とはタイトな0度アスペクトを形成しています。大きな事故、災害、事件、アクシデントに巻き込まれやすいアスペクトです。「火と刃物」に要注意のアスペクトなのです。但し、悪い意味ばかりではなく、肉体的な克己心や耐久力を授けて、宗教的な苦行・荒行や肉体的な特異能力開発や特殊技術などの分野で賞賛すべき業績を残すこともあります。さらに、この二星は、太陽に90度、金星に120度、天王星に45度アスペクトを形作っていて、重い十字架を背負って今後の人生を歩まなければならないことを、星の配置は暗示しています。

人は、本当の意味で人を裁くことは出来ないけれども、天は、無言のうちに人を裁いているものであることを、1人でも多くの人が気付いてほしいと願っています。

ドキュメンタリーとしての「占い師」たち

2004-03-16

フジテレビ系のテレビ番組で「占い師たちの不思議な人生の物語」というタイトルのドキュメンタリーを見ました。

そこに登場していたのは、高山東明という手相家と、その手相教室の生徒さんたち、秋山勉唯絵という易占・推命家と、その占い学院の生徒さんたちで、それも、どちらかというとその私生活に密着する形のドキュメンタリーでした。

プロ占い師になろうとする方達の動機やその決意、過去から現在の生活実態、家族の反応、生活を支えていく収入源、そして初めての実占現場、その後の心境や状況など。

一方、教える側の高山氏や秋山女史の私生活にも密着し、家族との関係や過去なども語られていました。高山氏が元妻に出て行かれた話や、秋山女史の3度の結婚や息子さんの難病など、一般にはあまり公にされることのないような事実が公表されていました。

私は、この番組の制作姿勢に大変好感を持ちました。そこには、人間としての「占い師」及び「占い師予備軍」が、悩みや不安を抱えながら生活している実態が的確に描かれていたからです。テレビの中で「私には悩みや不安は一つもございません」といったことを公言したがる占い師や、そういう形で放映したがるテレビ局がほとんどであるだけに、こういう番組は貴重だと思うのです。

確かに、占いの役割の中に、夢を売る、という部分が含まれていることは事実です。エンターテインメントとしての占いの中に、簡単で愉しく出来そうな仕事に見える部分があることも事実です。けれども、職業としての占いは、一見華やかかに思える職業の多くがそうであるように、ピンからキリまでの世界であり、光と影の中で蠢いていることもまた事実なのです。

そして、本当に世の中にとって大切なのは、一部の輝かしい成功を手にした占い師たちではなく、むしろ、その他大勢の不安や悩みを実生活の中で抱えながら、同じように不安や悩みを抱えている人々の「転ばぬ先の杖」となれるよう日々努力している占い師、及び、占い師予備軍たちなのです。

人は誰でも弱いので、支え合って生きていかなければなりません。これは占い以前の、とても重要な事実です。人生に打ちのめされているときに、本当に心の支えとなってくれるのは、時として、スポットライトを浴びている占い師ではなく、同じような不安や悩みを抱えている占い師や占い師予備軍かもしれないのです。

だからこそ、世界中に名の知れぬ占い師たちが、葦の浮き船のように、わが身を知らずに明日を生きているのに違いありません。