4月, 2008年

海外旅行中の占いにまつわる思い出

2008-04-26

ゴールデンウイークが近づき、海外旅行に出掛ける方の中には、海外における占い体験を希望する方もいることだろう。最近では東南アジア地域におけるいくつかのツアーで「占い体験」をオプションとして組み入れているものもある。ただ参加者は少ないらしく、正直、体験した方たちの評判もそれほど良くない。これは企画する方に問題があるからだと私は思っている。

それはともかく、参考のために私の海外における占いに関しての体験を少しく記してみたい。イタリアの路上占い師達は違法らしく、警察がパトロールで回って来るごと、瞬時に屋台をたたんで消えてしまう。そうして警察がいなくなると、再び何事もなかったかのように路上にあふれだす。大判のタロットカード22枚による占い師が多かった。タイの街角に居た若手占い師は手相とタロットを使って占っていたが、私が占い師であると知ると、急に親しげに自分の手相を見せて「オレはマスカケの手相だから大成功するぜ(これは多分、そう云っていただろう…と云う私の勝手な訳である)」自慢げであった。

シンガポールでは「オーラ占い」と云うものを体験した。個々のオーラを映し出す機械があって、電気椅子のようなそれに座り全身を撮影してもらって、オーラをプリントアウトした紙を見ながら占い師が解説してくれる、と云うものであった。私のオーラは、明るく大変に勢いが良く成功間違いなしである、とほめられた。こんなオーラは滅多にない、と善いことばかり言われたが、正直落ち込んでいた時期だったので励みにはなった。

台湾では四柱推命と手相とで占ってもらったが、観光化しているせいか、どうも真摯さが感じられなかった。日本人のマスコミ関係者の名刺が多数置かれていたが、どう見ても実力的には三流占い師で、自分の自慢話ばかりしていた。大体どこの国でも、もちろん日本でも、自分の自慢話をする占い師は信用できない。台湾は占いの書物は多数あって、そういう点では大いに参考となったが、全体的に占いのレベルは高くない。その割に鑑定料は高い。ただ占い用品を購入しようと思うなら、道教寺院傍の店がおススメだ。とにかく易占用のサイコロセットが日本円で200円なのだ。日本でこれを買えば5000円取られる品だ。あの時3セットだけ買ったのだが、今思うと店にある分を全部買っておくべきだった。

ドイツで購入したタロットも、今思えば安かったし貴重だったので、もっと買っておくべきだった。ドイツでは何と呼ぶのか知らないが「タロット」では通じなかった。それで工夫して「タロー」とか「タロッキ」とか「オカルトカード」とか色々云ってみたが駄目で諦めかけていたとき、偶然にも「金色のタロット」を見つけたのだった。これは日本でもそうであるが、占いの本とか占い用品とかは特殊なものなので、ショップの方に探してもらうより自分で探した方が早く見つけ出す例が多い。海外の路上の古書店で、占いの本を見つけ出したりすると、それが読めなくても購入してみたくなる。日本に持ち帰っても大抵は役立たないのだが、或る種嗅覚のようなものが、それらに引き寄せられ見つけ出してしまうようだ。イタリアでは屋台のお土産売りの品物片隅からタロットカードを発見したし、ドイツでは女性週刊誌の付録として占いカードが付いているのを見出した。

フィリピンへ行ったとき出会ったサウジアラビアから来た女性占い師にはトランプで占ってもらったが、その迫力は忘れることが出来ない。トランプカードをまるでマジシャンのように扱い、目まぐるしい速さで次々とシャッフル・スプレッドさせながら、早口で捲くし立てるのだ。そして主要なところでは人差し指を突き出し、まるで名探偵が犯人を名指しするかのような鋭い目で「その結果、あなたの周りにはたくさん女性たちがやって来るが、本当にあなたを愛しているのは一人だけだ!」などと断言された。

これと対照的だったのはエジプトのコーヒー占い師で、魔法使いのおばあさんのような老婆であったが「あなたには誰にも告げぬ深い悲しみがある。それが何なのか…私にも…わからない」と一瞬、そこに居た誰もが押し黙るかのような雰囲気の中で占いが終わった。

現代のエジプトはイスラム教に支配されているため、占いへの興味は薄れている。そのせいか、そのおばあさん以外にコーヒー占いが出来る人はなく、後継者もいないと教えられた。多少霊感的なものも手伝っていると思ったが、古代から継承された貴重な占いの料金は日本円で50円ほどであった。この時の占いはヌビア語からアラビア語へと通訳され、そのアラビア語を日本語へと通訳する、と云う形式で行われた。これらを何と50円でやってもらえたのだから、本当にラッキーで神様に感謝したい気分であった。

海外の占い師の中には、現地の占い価格とは掛け離れた金額を吹っかけてくるケースも多い。日本からの評判と云うのはあてにならない。旅行雑誌で大きく取り上げられていた台湾の占い師は、高額であったが私のことを「ヤクザなら大親分になれる」と自信たっぷりに判断した。私は確かにサングラスを掛けていて派手な服装だったから、ヤクザに見えたとしても仕方がないが、どうも気持ちの良い表現ではなかった。マスコミの方々よ、どうか海外の占い師を取り上げる時には、旅行者にも役立つような客観的評価を載せてほしい。

聖火リレーと北京五輪とダライ・ラマの手相

2008-04-21

ロンドンでもパリでもサンフランシスコでも、聖火リレー走者がまともに走れない。本来なら「世界平和の象徴」であったはずの聖火リレーの火が、事実上何度も消えている。中国・チベット間に存在する火種が、両者の中間で燃え、聖火の火を奪った形だ。

このところ中国には、いろいろと問題が多い。地球・国際規模にまつわるような問題が多い。私は、中国は急ぎ過ぎているのだと思う。急ぎ過ぎた結果として種々な問題に目をつぶり、その結果として不平・不満が一気に噴き出し始めているような気がする。日本でも最近、いろいろな意味での格差が広がり出してきているが、日本のように単一民族(厳密に云うと、アイヌ民族がいるので単一ではないのだが…)島国で国土もせまく情報が行き渡りやすいと、基本的には極端な格差は生じにくい。中国のように国土が広く、地域差や教育レベル、貧富の差が激しいと、どうしても「力で制圧する」社会がまかり通ることになりやすい。

かつての「天安門事件」の教訓が、残念ながら忘れ去られたのか、生きていないような気がする。

確かに、今の中国はかつての中国ではない。例えば日本人が中国の上海に降り立つと、そのあまりの都会化・超近代化に驚く。或る意味で東京よりも大都会ではないか、と目を疑うほどなのだ。けれども、その一方で田舎に入ると大昔にタイムスリップしてしまったかのような家々が目につく。その古さ、汚さ、貧しさは上海の中心部と比べて五百年以上の隔たりを感じる。われわれ日本人なら誰もがそう感じるはずだ。あの格差と云うか、落差と云うか…に平気でいられる中国人と云うのは、一筋縄で扱える人種ではない。

ただ、あらゆる意味で中国は急ぎ過ぎたのだ。そのため「犠牲」に目をつぶって来たところがある。そのつけが今まさに出始めようとしている。聖火リレーの問題だけではない。

黄砂や環境汚染などの対策も急務だ。特に黄砂による砂漠化の問題は重要で、中国政府は軽く見ているよう感じられるが、やがて必ず大問題へと発展するだろう。しかも、黄砂対策への手遅れは海を渡って日本の国土にも影響を与えるのだ。

北京五輪を目の前にした中国は、さまざまな点で「世界の中国」として、国際的な基準にも配慮する国家を目指さなければならない立場にある。そうでないと北京五輪そのものが怪しくなるからだ。怪しくなると云えば、日本の女子柔道の北京選出も怪しいものであった。あれだけボクシングの判定やハンドボールの判定に騒ぎ立てたマスコミが沈黙を守る。オリンピック自体、フェアーな祭典から遠ざかりつつあるような気がする。

今回のことで注目を集めたダライ・ラマの手相を、私はかつて雑誌写真を通じて見たことがある。三大線のバランスが良く、力強く勢いがあって、統率者にふさわしい手相ではあったが、神秘性、或いは神秘能力はそれほど感じられなかった。恐らく相当な高齢で死ぬまで最高指導者であり続けるだろう。三大線のバランスの良さは日本の合気道創始者・植芝盛平に似ているが、神秘十字形が形良く出ていた点では植芝氏の方に軍配が上がる。そのせいか無言の凄味のようなものがダライ・ラマからは感じられないのが惜しい。

人相と云うのは、どうしても人種的な骨格や血統的な特徴を排除できないが、その点手相には純粋に比較できる材料が多い。そういう意味でも手相の記録と云うのは歴史的な価値もあることに気付いてほしい。

「気」と云うものの正体

2008-04-11

一時期、日本の不動産市場は蘇ったかのように生き生きとしていた。都心部を中心として土地・家屋が徐々に上昇に転じて、建設業界や不動産業界も息を吹き返したかのように活気づき始めていた。けれども耐震偽装問題が尾を引き、アメリカのサブプライム問題が飛び火して、建設・不動産業界の雲行きがにわかに怪しく変わり始めている。それを端的に象徴するかのように新築マンションの空室率が増加している。つまり、新しい分譲マンションの売れ残りが目立ち始めたのだ。

都心部に近いほど、ここ数年の間に土地が値上がりし出した。ほぼ同時に鉄筋などの建設資材が値上がりし出した。当然、それらは分譲価格に反映される。景気が上向くことと不動産価格そのものの上昇を見込んで、計画・着工されたビルやマンションは途中で取り壊すわけにもいかず、空室が出ることを覚悟で売りに出される。実際、ここ札幌の住宅情報誌によると、完成から半年以上を経ているのに半分も埋まっていないマンションが何か所も出てきている。中には3分の1程度しか埋まらないマンションまである。それはそうかもしれないが、別に不動産業者でもない私が、何故それを気に掛けるのか。実は、私が気にするのは「風水上の問題」なのだ。

風水上の問題などと云うと、すぐ住宅の形がどうだとか、色がどうだとか言い出す人がいるが、私が言いたいのはそういう問題ではない。人が住まないと、住居建築と云うのは「気」が衰えていってしまうのだ。特にマンションのような集合住宅の場合、沢山の居住空間が埋まらず、がらんどうとなったまま時が経過していくと「気が宿らず」朽ち果ててしまう可能性があるのだ。これは経験的に注意力のある人なら誰でも知っていることだが、どんなに立派な住居でも人が住まないと傷みが早い。住居としての生命力が失われていくのだ。

一見するとボロボロに見える家屋でも、そこに何人もの生活者がいて暮らしている場合は、そう簡単には朽ち果てないものだ。ところが何らかの理由で人が暮らさなくなると、急速に家屋が朽ち果てていく。間違いなく住宅には「生きている人間」が必要なのだ。生きている人間が暮らすことによって「気」が充満し、住宅そのものも生きていくことが出来る。この「気」と「建造物」との関係は、誰もが何となく理解していることで、よく観光地などで廃墟だった寺院や建物を「観光名所」とすることで生き生きとした生命力が寺院や宮殿等に再び宿って来るのが良い例である。まさしく建物は人の「気」を吸って生きていくのだ。

そういう意味でも、マンションの空室率と云うのは、2割程度までならそんなに影響は出ないが、それ以上となったら建物全体に必ず影響が出る。したがって売れ残り続けた場合に不動産価格を下げたりするが、だからと云って建物自体の生命力と云う点から考えると必ずしも「お買い得」とは云えない物件もあるのだ。運勢的にも、集合住宅全体の生命力が低下するため、弱弱しい点が出てくる。家に居る時間の少ない人はそれほど影響を受けないが、専業主婦や年金生活等で家に居る時間の長い人は、出来るだけ空き室の少ないマンションを択んだ方が良い。これは分譲だけでなく、賃貸でも同様だ。ただ賃貸の場合、比較的簡単に移り住むことが出来るが、分譲の場合はそうもいかないので、その点は注意を払った方が良い。但し、まだ販売開始まもなくで空室率が高いのは当然のことで、完成間近の時点での状態が重要である。

売り物は何でもそうだが、完売する物は早くから売れ出し、売れ残るものは出足から良くない。だから気になる人は、モデルルームを見に行ったときに、さりげなく出足がどうか訊いてみると良い。

もし、今現在住んでいる集合住宅の空室率が高い場合はどうすれば良いのか。とりあえず自分の部屋だけでも「気を旺盛」にしなければならない。気を旺盛にする一番の方法は、自宅室内をトレーニングルームとしても使うことだ。たとえば「腕立て」や「腹筋」や「ヨガ」や「スクワット」等を毎日行う。こういうものは自宅でも出来る。しかも無料である。精神的に気を旺盛とするには、神仏への祈りが効果的だ。これは毎日必ず声を出して行うことが大切で、それもへそ下に位置する「丹田」と呼ばれるところから声を出して行うのが良い。そうすると神仏に届く。やがて自宅内に神仏(この場合、先祖も含まれる)も一緒に寝起きするようになる。

そういった方法はどうも…と尻込みする方は鉢植え植物を置くと良い。これはあまり置きすぎても良くないが、生命力と云う点では観葉植物でやや大きめの方が良い。他にも動きあるインテリアや照明器具や音響器具など、一人暮らしの人は特に室内が寂しくならないような工夫も大切だ。

もちろん家族何人かが同時に暮らす場合は「笑い声の絶えない家庭」と云うのが最も生命力を旺盛にする。昔から云われているように「笑い声」と云うのは「福」を連れて来る。「怒鳴り声」や「泣き声」が常に充満する部屋からは生命力だけでなく幸せも逃げていくのだ。

積み上げられていく本と追いつかない読書

2008-04-01

ここ2週間ほどで占い関連の本が20冊近くも増えた。その中にはインターネットで購入したもの、通常書店で購入したもの、ブックオフで購入したもの、知人から贈られたものなど種々な入手経路があるが、短期間のうちに読むのが追い付かないほど増えてしまった。中でもネットからの購入が一番多い。アマゾン・ドット・コムからの古書の購入は、一度購入すると面倒な手続きが不要になるので、ついつい占い関連の珍しい書名を見ると求めてしまいがちになる。それに送料を別とすれば安いことも魅力だ。占いの専門書店から購入すれば5倍も十倍もするだろうと思うような価格で売り出されていることもある。私は最初一括して送られてくるものだと勘違いしていたが、実際にはバラバラでアマゾンに出店している古書店から個別に送られてくる。だから、ときには本より送料の方が高くつくこともある。それでも、私にとって貴重な古書を手に入れると、新たな仲間を得た時のような嬉しさを感じる。

このマンションへと移って1年余りとなるが、確実に増え続けているのは本だけで、預金額等はどうも減っていくような気がする。書棚からはみ出した本はリビングのサイドテーブル付近に積み上げられ、スッキリしていたはずのその部分は、徐々に妖しい雰囲気へと変わりつつある。本当は一冊ごと読み終わってから購入すれば良いのだが、途中で止まったまま次の本へと進む悪い癖がある。以前は読むスピードももっと速くて1時間もあれば1冊くらい読めたのに、最近は読み進むのも遅く、なかなか先へと進んでくれない。その結果として途中で止まって次の本へと進む「読み散らかし」の癖がついてしまったようだ。書く作業にしてもそうだが、昔はもっと早く書けたのに今では原稿を書き上げるのにやたら時間が掛かる。なんでこんなにのろくなってしまったのか。

そういえば先日、TVで物忘れが進む認知症患者を取り上げていて、自分もその予備軍ではないかと思うほど、物忘れが多くなっている。一番出て来ないのは人の名前で「あの人…」と顔は出て来ても、その名前はどうしても思い出せないことが多い。もっとも私の場合、人の顔や名前を記憶するのは昔から苦手で、大体お客さんの顔だって1度見ただけで記憶している顔や名前等はめったにない。中には4度くらい来ていても記憶していないケースもあって、お客さんの方から「いい加減憶えてくださいよ」と叱られたりもする。

まだ20代の頃、書店内で弟とすれ違って気付かないことがあった。女性と喫茶店で待ち合わせて、その女性が座席にいたのにも関わらず通り過ぎて出て来てしまったこともあった。これは裸眼だと視力が悪いせいもある。それでも、例えば特徴的な手相やホロスコープなどの記憶は鮮明で、だから顔や名前は思い出せなくても手相やホロスコープを見ている内に記憶が蘇ってきたりすることも多い。

読書に関しても、私に影響を与えた良書の場合は、その内容の一部を未だに諳んじていたりする。何回も繰り返し読んだからだ。そのかわり意味がないと思いながら通読した本の内容はあっという間に忘れる。今回購入した本の中には、最新の本もあれば今から40年以上前に出版されている本もある。書店で手にとっても、財布の中身と相談のうえ買えなかった本もある。そういう本が何十年も経過した後になって私の手元に届くのは、少年の日が蘇って来るような何とも心地良い気分にさせてくれる。もしかしたら私はこの感触が欲しくて、必要以上に古書を買い求めているのかもしれない。

私はこれまで二度、占いの書籍を大量に古書店へと売っている。最初は二十代の始めで所有していた本の半分くらいを売った。占いの専門書店へではなかったので、信じられないほどの安値で本が消えた。二度目は三十代の前半で、この時はちょっとした事情があって所有していた書物の全部を売らざるを得なかった。購入時に一冊何万円もした箱入り本も多かったので、今考えても惜しいとしか言いようがないのだが、とにかく全てを失った。私はこの時、再び占いの書物で室内があふれかえるようになるなどとは夢にも思わなかった。何もなくなって、魂の抜け殻のようになって生きていた時代であった。

ところが、人生は解からない。それから数カ月もしないうちに私は次々と古書や新書を買い求め、恐ろしいほどのスピードで書棚が埋まっていくのだった。もちろん、その前に購入していたような高価な本は、それ以降滅多に購入しない。大体が私は箱入り本と云うのは好まない。あの箱と云うのは一体何の為についているのか。そういう本を購入しても、すぐ箱の方はゴミ箱へと入れてしまう。油紙が付いている場合は、それも一緒に捨ててしまう。面倒な本は嫌なのだ。けれどもそれが仇となって、古書店に売りさばくとき徹底的にたたかれる。それでも私は中のページを破いたり、折を入れたり、線を引いたり、書き込みをしたり、自分が所有者だったことを次の持ち主に伝える印しを残すに違いない。