8月, 2008年

偽物が本物を超えていく時

2008-08-30

夜空を彩った巨人の足跡がCGだったとか、可愛い少女の歌声が口パクだったとか、民族衣装で行進した少数民族が偽物だったとか、北京五輪のヤラセが次々と暴かれている中で、中国の偽ブランド品街と呼ばれるロードが、海外からの観光客や出場選手達に大人気なのだと云う。もちろん、かれらはここが偽ブランドの通りだと云うことを十分知っていてショッピングや観光に来ている。

実際に土産品として買いあさる者もいれば、ただ単にどういうものが売られているのか見て楽しみたい、と云う観光客もいるらしい。とにかく「偽ブランド・コピー商品」と知りながら目くじら立てるのではなく、それがどういうものなのか、楽しい土産品の一つとして、或いは土産話の一つとして、人気のロードとして連日にぎわっているのだと云う。

昔から中国と云う国は、コピー大国として知られた国であった。それも明らかにまがいものとすぐ分かる代物から、精巧で余程熟練した鑑定人でもなければ見分けがつかないものまで、今日では偽ブランド商品も実に様々ある。確かに、それは「本物」として売れば違法行為だが、最初からそういう通りとして名を馳せているのであれば、それはそれで需要と供給の関係から商売が成り立つのは仕方がないのかもしれない。

私はイタリアの家具・インテリアが好きなので、そういうネット販売の店などをよく見たりもするのだが、明らかにイタリア家具・インテリアを模したと思われる中国製品は多い。時としては、企画デザインはイタリアで、製作を中国に委託しているような場合もある。それらの作品を見ると、イタリア職人の技巧には遠く及ばないが、それらしく見せる技術は年々上達していく。ただ、企画デザインから模倣しているところは、まったく上達せず、一見して模倣品と分かってしまう。

それは、多分、根本的なセンスの問題なのだ。家具・インテリア製品は特にそうだが、バッグとか、靴とかでも、イタリア製品と云うのは何となくセンスの良さを感じさせる。実生活用の品物であっても、そこに芸術的な美を感じさせる部分があるのだ。それは多分、日常生活の中で、街のあちこちに残っている芸術作品を目にして育っている環境が大きいのだと私は思う。

近年、日本でも、街のあちこちに芸術作品を展示している都市も出てきた。だが、どういうわけかそれらが街の中に溶け込んではいない。何かしら、そこだけ浮き上がって見えるのだ。考えられる理由の一つとして、信仰心の違いもあるのかもしれない。日本の街中で見かける芸術作品の多くは、無信仰の芸術品だが、イタリアなどの街中を飾っているのは、宗教芸術としての思想を込めているものが多い。ルネッサンス期の作品がそのまま街に残っているケースも多い。現代でも信仰心が変わらず残っていることで、自然な情景として溶け込んでいるのかもしれない。

そういう意味では日本の場合、京都などの建物は昔そのままの形で今日でも違和感なく街の中に溶け込んでいる。どんな芸術作品であっても、街の情景から浮き上がっていては人々の心など潤す筈がないのだ。

京都で思い出したが、画家のゴッホは浮世絵の作品を見て大いに影響され、あのような風水・コパのような色合いの作品を描き続けた。或る意味ではゴッホの絵画だって浮世絵の模倣なのだ。もちろんゴッホの人間性が、浮世絵を真似ても、似ても似つかないような独自世界を作り出すのだから、マネから始まる偽ブランド・コピー商品も、もう一歩進めれば個性的な新たなるブランドの起爆剤となり得るかもしれないのだ。天才ピカソにしたって、元々はエジプト絵画の影響を受けてあの独特な作品群が生まれたのではなかったか。一見、エジプト絵画とピカソ抽象画は関係なさそうに思えるが、よくよく見ると共通した要素は多い。ピカソの描く顔は、正面向きと横向きとが一つの作品の中で同居している。古代エジプトの絵やレリーフでも同様で、顔形は横向きなのに眼は正面向きで描かれるのがエジプト絵画だ。肩は正面向きで足は横向きなのがエジプト絵画だ。このように、ピカソやゴッホでさえ、モノ真似から入っている。

才能や個性が豊かであれば、偽物は本物とは自然に異なった作品となる。私は昔、占いを学び始めた時、目標と云うか、憧れと云うか、今は亡き中村文聡氏を目指していた。一度もお目にかかったことはなかったが、手紙をもらったことはあり、十代半ばの私に、素晴らしく達筆な文字で、体調を崩し、すぐ返信できずにいたことをわびていた。私は何かしら自分の文字がみすぼらしく思えて、身勝手な手紙を差し出したことを反省した。彼は別に私を咎めたのではなかった。むしろ、逆であった。けれども、その文字の闊達さ、流麗さは黙っていても、私に頭を垂れさせるに十分であった。

人やモノと云うのは、何も言わなくても、その価値を認めさせるときがある。真のブランドとは、そういうものであるように私は思う。どんなに真似ても真似しきれるものではないオーラのようなものがあれば、おのずと人はそれに対して敬意を払うような気がするのだ。そういう敬意を払いながらの物真似やコピーであるなら、いつかそこから新たなる個性やブランドが誕生するのかもしれない。

振られた相手を見返したいのですが…

2008-08-28

まず、恋愛とか結婚とかは競技でもゲームでもないので、本質的に勝ち負けはありません。したがって、別れた相手を見返してやりたい気持ちが全く分からないではありませんが、愚かなことです。異性に対する評価と云うのはそれぞれが違っていて当然なので、雑誌やTVなどで行う格付けなど、馬鹿げたことなのだと気付いてください。あなたは、あなたにふさわしい相手を求めれば良いだけです。あなたは生まれ日から見るとドラマのような恋愛を求めがちです。ドラマでは現実にありえないような設定もOKですが、実生活上では釣り合わない相手とは長続きしないのが普通です。(占断=波木星龍)

マラソンランナーの栄光と挫折

2008-08-16

大昔、私がまだ子供だった頃『東京オリンピック』の記録映画を見た。ほとんどの内容は忘れてしまったが、男子マラソンの覇者エチオピア・アベベ選手が裸足で黙々と走り続ける姿だけが妙に生々しく記憶に残っている。

確かあの時、日本の円谷選手は3位銅メダルだったが、その後、足を怪我して思うように走れなくなったことなどから思いつめ、やがて自殺してしまうのだった。思えば、あの時から日本のマラソンランナーには、栄光と挫折がついて回っているような気がする。今回も、金メダル候補であった野口みずき選手の欠場が決定的となった。スポーツの世界、なかでもオリンピックは4年に1度だけに種々のアクシデントが発生しやすい。特にマラソン競技と云うのは、古代のアテネオリンピックと同一の42.195㌔を走るだけに、本当は初期のオリンピック精神がもっとも反映されやすい競技なのだ。

事実、オリンピックとは別に、マラソン大会は世界各地で年々増えていて日本のマラソン人口も右肩上がりだ。ただ走る―それだけの競技なのに、マラソン人気は衰えることがない。なぜだろう。

まず第一に誰でも出来る。これくらい年齢層の広いスポーツは他にない。オリンピックはやや難しいが、プロとアマ(初心者)とが同時に出場できる。このようなスポーツも他にない。途中で疲れて歩き出したとしても、それを咎める者は誰もいない。本来は走る競技なのだから違反なのだが、基本的には許されている。失格や棄権とはならない。途中の給水係など、ボランティアが活躍しやすい。このようなスポーツも珍しい。さらに沿道の応援である。通常の競技では上位の者には声援が送られるが、下位とかビリとかの者に対しては声援しないものだが、この競技だけは拍手されたり、声援を送られたりする。時としては、上位の者よりもビリの者に対しての声援の方が大きかったりすることもある。摩訶不思議な競技なのだ。いや、もっと不思議なのは、どこのだれかも知らないビリの者に対して拍手したり、声援したりすることだ。このような競技が他にあるだろうか。

マラソン競技は、誰もがそれに近いことを一度は経験している。少なくとも走ったことはある。何かの理由で息が切れるまで走ったことはある。実に単純で、ルールも簡単で、紛らわしい勝敗結果となることもなく、誰が見ても理解でき、経験的な要素もあり、辛い競技であることを知っている。体力差と云うハンデもなく、年齢差もあまり関係ない。古代のオリンピック精神を伝えていくのに、これほど理想的な競技は他にないのだ。

水泳さえも、水着によって優劣が左右され、裸のスポーツとは云えなくなった。マラソンは裸足でも金メダルを取れるのだ。ただ、このところオリンピックの日本の選手選考などを見ていると、首を傾げることもしばしばある。偏りのない選考にしないと、オリンピック精神が泣く。私は以前、柔道の谷亮子選手のオリンピック出場は、決勝で敗れているのにおかしいと指摘した。その通りの結果となったが、名前で出す、と云うようなことはスポーツ競技のフェアー精神に反するので止めて欲しいものだ。もっとも、オリンピック自体がそうであるように、決して平和の祭典でも、平等の精神でもないのが世の中の現実かもしれない。

マラソン競技と云うのは、どこか人生に似ている。誰もがそれを暗黙に認めている。だからこそビリの人にも応援したりするのだ。時としてマラソンランナーは、我々が「運命」と呼ぶ摩訶不思議な実態の検証者なのかもしれない。シドニーオリンピックの覇者・高橋尚子は「愉しんで走った」マラソンから「必死で走った」マラソンに変わった時、運命の女神は皮肉にも彼女を遠ざけたのだ。いつか彼女は、それを悟って子供達にマラソンの楽しさを教えるようになるだろう。そうなったとき、再び彼女は運命の女神を味方につけて輝いているに違いない。

労災としての精神疾患が急増していく

2008-08-13

労災認定を申請している精神疾患の人達が、ここ9年間の間に20倍にも増えているのだと新聞が伝えている。この種の病気は怪我などと違って、必ずしも全員が労災申請しているとは限らないので、実際の数字はもっと多いのかもしれない。しかも昔と違って、今の精神疾患は多種多様で、一見しただけではそれと気づかないようなケースも多い。

私のところにも、たまにうつ病の方や、パニック症候群の方などが来られることもあるが、とても病人になど見えない人もいる。それに頭脳そのものは優秀で、才能的にも豊かなものを備えているケースが少なくない。仕事や職場環境が原因で精神が蝕まれ出している場合、本人自身がもっとも自分自身の変化に戸惑っている。そういう場合、職場環境が変われば精神も健全さを取り戻し、見違えるほど活き活きと変わっていくケースも多い。

ここ9年間の職場環境の変化と云うことで誰もが気付くのは、どのような業種においてもIT化の推進が第一であろう。他には個人情報の持ち出しに関するチェックが厳しくなったこと、コスト削減がより厳しくなったこと、正社員をリストラして派遣社員やパートに切り替えつつあること等であろうか。

どの業種でもIT化を進めずして同業他社と対抗していくことはできない、と云う時代の中で、アナログタイプの中間管理職は行き場を失った。ことITに関しては、若い部下から操作方法を学ばなければならない。ストレスがたまるのは当然である。私のお客さんでも部下から笑われながらパソコンに向かうことが苦痛だと漏らしていた人がいる。若い人でも、対人関係が苦手な人はIT化が進むことによって、ますます孤立してしまい、同じ職場に居ながら誰とも話をすることもなく日々が過ぎていく状態が生まれる。これで憂鬱にならなかったら、その方がおかしいのだ。

仕事人間の場合はもっと深刻で、パソコンは自宅にもあるため、これまでなら職場だけで済ましていた仕事を自宅にまで持ち帰る人達もいる。そうすると自宅に戻っても休息や安眠が出来ない。それらが続けばどうなるか、考える余裕さえないのだ。こうして精神疾患の予備軍が日々増えていくことになる。

個々の業種や企業によって、特殊要因は様々あるとは思うが、徐々に人間性が薄れていくような職場環境が作られつつあることは否定できない。極端なことを言えば、ロボットのように仕事だけを黙々こなしていく労働者を企業が求め始めたのだ。

そして、その反動のように私生活においてはより人間的なものを求める風潮が強まっている。そうでなければIT関連の店がひしめく秋葉原において、メイド喫茶が受け入れられるわけがない。ややデフォルメされた形で、メイド喫茶は失われた優しさを売っているのだ。高度成長期に繁栄したバーやクラブやスナックなどの大金を投じる「偽りの癒し」よりも、低料金でも「アニメチックな癒し」を与えてくれる方に若者たちは流れていく。

女性の方は、エステやネイルや各種セラピーなど癒しの種類も豊富で、きめ細かく分類される。美容と癒しとを結びつけている産業が一歩リードしているような印象を受ける。昔のように、男性には癒しの店が存在しても女性にはない、という時代ではない。むしろ、近年急速に増えつつあるのは、明らかに女性にターゲットを絞った癒し産業だ。

実際、占いのコンテンツなどでも、ただ単に占うと云う形式のものでなく、いかに心の癒しを与えながら占っていくか、将来への安心を促すような言葉遣いをするか、と云うような気遣いを重視しているコンテンツや電話占いも増えて来ている。占いも「癒し産業」として捉えれば当然ともいえるが、それでなければ売り上げが伸びないなどと、占い結果そのものまで度外視して気遣い優先になってしまうと、それはもう占いではない。

実際に精神疾患を患いやすい人達の特徴として、手相の頭脳線や感情線に乱れや破れや島型を持つケースは多い。ただ、そういう人たちの全部が病気になるわけではなく、何となく憂鬱だったり、ミスが続いたり、対人関係で悩んだり、スランプ状態が続いたりしている内に、本来の自分を取り戻して治っていく人たちもいる。だからこそ、職場環境を変えてやるだけでも精神疾患は完治したりするのだ。よく何カ月か休職して復帰するケースもあるが、職場環境そのものが変わっていないと、大きな成果を上げることは難しい。したがって、大きな企業の場合は、職種を変えるとか、勤務地を変えてやる方が完治しやすいものだ。

一時期人気のあったIT産業は、最近その人気に陰りが見えているが、それは企業としての将来性だけでなく、もっとも精神疾患が生じやすい職場環境に適合しているせいなのかもしれない。

役職の降格やリストラも囁かれる中で…

2008-08-11

あなた自身の中では、会社を辞める時期と独立して開業する時期とは、同一の年として捉えているようですが、必ずしもそれがベストであるとは云えません。あなたの場合、本当は平成22年の3月に会社を辞めて、平成24年に独立・開業をするのがベストですが、多分どちらも実質的にそれまで待てない状況であろうと思われます。それに運気が悪い中で開業せざるを得ない方も沢山います。あなたに必要なのは開き直りです。本来なら無職ではない50代男性が、一生の進路を無料相談すること自体おかしなことだと気付いてください。占いには知識も必要ですが情熱や指導力も必要です。(占断=波木星龍)

世界の「北野」と「宮崎」と「押井」の戦い

2008-08-08

ベネチア映画祭のノミネート21作品の中に、日本の北野武監督作品と宮崎駿監督作品と押井守監督作品の3作品がノミネートされたと云う。もちろん一度に3作品もノミネートされるのは初めての快挙だ。しかも、今回の場合、そのどれもが高い評価を受けてのノミネートで、ぎりぎり滑り込んだと云う風なものではない。作品が…と云うよりも、個々の日頃の映画製作・監督作品としての優秀さを評価されて…といった意味合いが強い。

今やどの監督もナベアツではないが「世界の…」と呼んで良いくらい国際的に評価の高い映画監督となっている。日本の映画レベルの高さが認められる時代となったのだ。特にアニメ部門は映画としてだけでなく、近年、日本のアニメ業界そのものが世界的に評価されつつある。アメリカやフランスや韓国などで、TVドラマとしての…或いはマンガ雑誌としての…ヒーローやヒロインに仮装するオタクまでもが、そのままそっくり海外に輸出されつつある。そういえば今から10年ほど前にドイツを旅行した時、住宅街を歩いていたら、ピカチュウのぬいぐるみを抱えて母親に手をひかれ歩いて来た坊やがいて驚いたものだ。もちろん現地の坊やで、在住の日本人ではない。あの何とも誇らしそうな坊やの顔を忘れることが出来ない。昨年、時間の関係で店の中へは入れなかったが、台湾では偶然にもメイド喫茶を発見して驚いたものだ。

もはや日本のアニメは、良い部分も悪い部分も含めた形で世界へと行き渡っているのだ。実際、同じアニメでも宮崎作品と押井作品とでは明らかに質が異なる。宮崎駿作品は優しさと自然への回帰が永遠のテーマだ。私は「天空の城ラピタ」に流れる音楽が大変に好きだ。子供達にとってはトトロにしろポニョにしろアニメでしか表現できない身近なお友達となっている。こういう映画ばかりを見て育てば、親子殺人や無差別殺人は起こさないだろう。

押井守作品には未来に対しての警告や風刺があるように思われる。正直、私はあまり作品を見ていないので、その点でのコメントは控えるが、彼自身の名は私に或る種の郷愁を誘うものがある。ちょうど今から20年前、私は「押井守」という名を、元妻によって知ったのだ。当時の彼女は、押井守の熱狂的なファンであり、追っかけであった。彼に逢う目的で、東京の彼の自宅まで一人で北海道から押し掛けて行ったりしている。正確な住所も分からず迷子となり、優しい警官に助けられ、執念で彼のマンションを発見したと云う。彼は大いに驚き、それでも自宅に招いてくれて、優しく諭して、見送ってくれたらしい。

一番最初に元妻が私の元を訪れたのは、彼の所に逢いに行っても良いか、逢うことで良い成果をあげられるか、と云う意味のことを占ってもらうためであった。もちろん、相手がそのような人物とは全く知らされていなかったが、私は「傷つく結果になるから止めた方が良い」と忠告した。けれども彼女はあきらめずに決行したのだ。ところが、その彼女と私はやがて自宅マンション・エレベーターの中で偶然出会うことになる。私が「近々引っ越すことになる」と予言していたそれが的中して、彼女は会社契約の形で、私が住んでいたマンションへの移動を余儀なくされたのだ。

考えようによっては、世界の押井守は、私と元妻とを偶然にも引き合わせた人物なのである。

世界の北野武は、アニメ界の巨匠たちとは明らかに違って、家内工業的に作品を作り続けている。家内工業的であることの証明として主演は常に北野武本人だ。「ビートたけし」と呼ばれていたころのたけしは、お笑い界を席巻していたが「北野武」と名乗るようになって、映画監督としての「芸術的だが面白くないたけし」へと変貌していってしまった。確かに彼は映画監督としても役者としても、優れた才能の持ち主ではあるが、何故、自分の映画に自分が主演するのだろう。もっとも私が首を傾げたのは彼の座頭市であった。勝新太郎という名優を知っている者なら、誰もが無意識に比較してしまうことを彼は考えなかったのであろうか。それに比べれば今回の役どころは「売れない画家」でマチスと云うパロディーも彼らしい。

世界の…誰がトロフィーを射止めるのか分からないが、サムライ以外の作品が並んだと云うことが、新しい日本の芸術の時代がやって来たことを予感させてくれそうだ。

29歳の年齢差ある男性と付き合って…

2008-08-05

ホロスコープや四柱推命式で見ると、今年のあなたは運命の大きな転換期にあって、その選択の仕方いかんで今後の人生が大きく分かれていくよう感じられます。つまり、彼との関係がより以上に深まり、入籍や結婚と云う形式はとらなくても、将来的に結ばれていく方向へと向かっていく場合。彼といったん別れ、再び縁を生じて今度は一緒に暮らしていく場合。彼と別れて、お見合い的な形で「再婚型」の人物とすんなり結婚していく場合。彼と別れて独身を通す場合。私としては彼と完全に別れて、再婚型の方とお見合いをし、それですんなり結婚へ向かうことをお勧めいたします。(占断=波木星龍)

院内保育のある病院で働きたい…

2008-08-03

夫婦間に関しては、ご自身でおっしゃられているように、会話を求めすぎるとかえってギクシャクした関係となってしまうでしょう。あなたは大変に家庭的な女性で、家族との一体感を大切にされる方ですが、彼には元々それがありません。結婚生活の行方は、あなたの方に主導権があるので今から将来を決めてかかる必要はありません。家庭生活の状態とは無関係に、仕事はされた方が良いタイプです。出来ればきちんとホームヘルパーの資格を身に付けてからの方が就職は有利と出ています。あなたはヘルパーに限らず、専門的な資格・技術が仕事に大いに生かされる運命です。(占断=波木星龍)

34歳までには結婚と出産を経験したいと思っています

2008-08-03

本来は愛情豊かで気配りもある女性ですが、どちらかと云うと恋愛には受け身なタイプで、無理に自分の方から積極的になろうとすると、いろいろな点でぎくしゃくしがちです。ただ家庭運も子供運も決して悪いわけではないので、結婚にしろ、出産にしろ、何歳までと枠にあてはめ考えないことです。あなたの場合、どちらかと云えば相手側から積極的に出てきた話を受け入れる方が自然です。その場合、条件を考慮し過ぎると迷い始め、交際・結婚へと発展できなくなってしまいます。「縁」と云うものは条件で選択すべきものでなく、感覚的に受け入れられるかで決断すべきです。(占断=波木星龍)

キャバクラ嬢が光り輝く時代

2008-08-01

若い人たちの間で職業選択の幅が広がっていることは知っていたが、あこがれの職業を調査した結果によると、何と第9位に「キャバクラ嬢」がランキングしたと云うのだ。夜の仕事全般が「後ろ指を指される職業」などと意識していた時代は、はるかかなたに追いやられてしまったようだ。私は時折このような事実を知って、今の日本に対して、良い時代が来たものだ、としみじみ思う。何故キャバクラ嬢に憧れるのかについては「学生時代から憧れていた」とか「美しいドレスを着られるから…」と云う意見もあった。う~ん、本当に時代は変わったのだ。

そういえば、1度は着てみたい制服ランキングと云う調査では「巫女さん」の制服?が第2位につけていた。これまた奇妙な人気であるが、実際、私は巫女さんの格好をしたキャバクラ嬢と出逢っている。実は雑誌の企画で、人気のキャバクラ嬢が「占いを修行しに来る」と云うのがあって、それがどういうわけか私のところが「ご指名」にあずかったと云うわけだ。最初、私はてっきりキャバクラ嬢姿でやって来るものと期待していたのだが、雑誌社は何故かそのキャバクラ嬢に巫女さんの衣装を着せて連れて来たものだ。占いの修行が何故巫女さんの格好なのか分からない…。もっとも彼女の場合は、実にその衣装が良く似合っていた。しかも、最初は占いを学ぶことにそれほど熱心ではなかったが、私が男性の見分け方を話してあげると興味を持ち、90分ほど真剣なまなざしでノートをとっていたものだ。その成果はたぶん仕事や私生活の中で本能的に生かされることだろう。

その雑誌社では、同時に「道内人気ナンバー1・ホステスグランプリ」(もしかしたら別な名称だったかもしれない)と云うのも行っていて、全道から何カ月にもわたって人気ホステスを投票してもらって、そのうち確か15名を選出して最終選考をし、札幌のホテル会場でTV中継の中でグランプリを決定する、とか言っていた。記憶で書いているので多少違った点があるかもしれないが、要するにそういったことらしい。もちろん大手企業のスポンサーがついていて、グランプリに選ばれると種々の特典もあるらしい。そのグランプリホステスの予想と云うのも、占い師の1人として依頼された。私は手相などで占ったが、雑誌では他に星座や姓名判断による占い師も登場し占っている。

私は何故か大昔に競馬馬のグランプリを予想した時のことを思い出したものだ。あれはグリーンチャンネルだったと思うが、東京から来たMCの人達にマイクを向けられるまま、どういうレース展開になって、どういう馬がグランプリを獲得するか、確か易で占ったような気がする。私はパチンコは好きだが競馬はやらないので、正直、占い的な予測が的外れでないのか気になったものだ。その後しばらく経って、日本競馬協会?と云うところからだったと思うが、競馬用の予測コンテンツを作りたいと云うことで、確かレースの年月日を基にした占い文章を書いたこともある。私は過去のことは次々と忘れていくたちなので、今となってはどういう予測法を使ったか覚えていない。

話が横道にそれてしまったが、キャバクラ嬢があこがれの職業に変わったのは、逆に云えば昼間のまともな職業?に魅力がないからだ。正社員を減らし、派遣やパートで賄うことが常用化し、企業そのものも本業に徹することが少なく、どの業種でもパソコンと向き合う仕事形態で、それぞれの職業らしさも薄れてきているような気がする。これでは職業としての魅力を感じろ、と云う方が無理かもしれない。考えてみれば、最近人気があったり、注目されている職業と云うのは、パソコンを使わない業種に多い。もっとも、その一方でキャバクラ嬢のような水商売は、日常生活の必需品ではないから、日本の経済動向に大きく左右される。懐具合が悪くなれば週に2回来てくれていた客が週1回しか来なくなる。キャバクラ嬢が光り輝く時代と云っても、安泰な職業などではもちろんない。

私の占い教室には、キャバクラではないが水商売や風俗で働く女性たちも学びに来る。こちらは雑誌企画などではない。本気で、将来占い師を目指す女性や、占いを仕事上で生かしたいと思っている女性たちだ。実際、細木数子や銀座の母もそうだったが、水商売上りの占い師と云うのも少なくはない。彼女たちは、客はどうすれば心が癒されるのかを知っているのだ。それに或る程度、勘が鋭くないと水商売でも人気を出せない。私のところに占いを学びに来るのは、夜の仕事でも真面目な人たちが多い。

何曜日の何時と決めると、きちんとその時間に通ってくるケースが多い。夜の仕事の寿命を知っていて、やがて占いの方に仕事を切り替えられたら良い、と考えている場合が多い。確かに定年のない仕事であるから、フリーで誰にも拘束されず生きていきたい人にとって、良い職業と云えるかもしれない。やがて、私が教えた人の中からおお化けするような金の卵が眠っているのかもしれない。