12月, 2008年

1年の区切りの不思議

2008-12-26

マスコミが煽り立てるせいなのだろうか。12月に入ると街の様相が一変し、クリスマスや正月が近いことを感じさせる雰囲気や飾り付けを繁華街・デパート・商店などがいっせいに演出し始める。それに煽られるかのように買い物客も街中へと吸い出されてくる。土・日の繁華街は人であふれかえっている。

今年は不景気で余り買い物客は出ないのかと思っていたが、どうも人並みだけは去年より多いような気がする。あるいは人は出るが、買い物は控えている…と云うことなのであろうか。確かに買い物袋を抱えている人は少ない。アメリカのクリスマス商戦をTVでやっていたが、今年は値引き合戦らしい。サブプライムだ、金融危機だ、と云ってもアメリカと云う国にサンタはやって来るようだ。我が日本はどうなのだろう。

雑誌によれば現在の日本は「経済大国」と云われながらも個人所得は決して豊かな国とは云えず、先進30カ国中の18位らしい。昨年の統計では年収400万以下が55%で、年収1000万を超える人はわずか5%らしい。その結果、老後に不安を持つ人は86%もいるらしい。つまりはみんな大変なのだ。不思議なものでこういう数字を知ると、たいていの人は何故かほっと一安心する。よく暮れが近付くとプロスポーツの世界や芸能人などで、ものすごい年収がTVやスポーツ新聞などで公表されるが、そんな人など本当に稀なのだ。たいていの人はそこそこで生きている。だからこそ「年末ジャンボの宝くじ」は飛ぶように売れるのだ。年末年始と云うのは、何かとお金が出ていきやすい時期だからなのか、普段、あまりお金のことをどうこう言わないような人であっても妙に金額にこだわるようになる。一つにはサラリーマンの場合、ボーナスと云う名の「お年玉」が得られるせいかもしれない。私など貰えなくなって久しいが、今になってみるとボーナス(賞与)と云うのは勤め人の特権であり、素晴らしい制度・贈り物なのだ。会社勤めの人は感謝しなければいけない。もちろん企業によってはボーナスなど出ないところもある。元々給与でないのだから、出なかったとしても企業側を責める理由はない。けれども現実的には、それを当てにしたローンなどが組み込まれている場合が多く、出しませんでは済まないのが実情だ。

子供のいる家庭では、その年の景気が良いかどうかはクリスマスプレゼントの良し悪しに掛かってくる家庭もある。私は幼いころサンタクロースは実在するものと思い込んでいたから、サンタクロースにいろいろな願い事を書いても聞き入れて貰えなくて、しょげかえっていた時期がある。今考えれば、それを読んでしょげかえっていたのは母親や父親の方であったかも知れない。私は実にのほほんとした現実を知らない子供であった。

それにしても、12月が来ると1年と云うものを振り返るのはなぜだろう。こればかりは必ずしもクリスマス商戦や年末商戦の影響ばかりとも云えない。何となく人は、暮れが近付くと1年を振り返りたくなり「来年はどんな年になるのか…」知りたくなるものだ。もちろん世界とか日本とかの大きな来年も知りたいが、それ以上に個人的な「自分自身の来年」が知りたくなるものだ。そして普段あまり占いなど興味を持たないような人であっても、何となく来年を占ってみたくなるから不思議だ。どうして、それが12月なのだろう。占いの上でも、大昔から1年の区切りはこの時期にあった。今から3500年前の中国では「冬至」がその区切りであった。秦の始皇帝の時代(約2300年前)だけは、今で云う11月が年初であり、漢王朝以降は今でいう2月が年初に変わったが、いずれも冬場で1月前後に設定されている。つまりはこの時期に切り替わるのが四季の変化の中では年初として都合が良いだけでなく、実感を得られやすいからでもあろう。自然科学的なことを云えば「冬至」と云うのは1年中で最も日が短く、それ以降徐々に日が長く変わっていく。それが同時に、春を引き連れて来るような印象を我々に与えるのだ。運勢学的にも、確かにこの時期から「新たな年」らしき出来事へと切り替わっていくのは奇妙な事実だ。去年の運勢が良かったとか、来年の運勢が良くないとか云うのは、誰に教えられたわけではないが、我々の自然な実感でもある。

最近は若い人たちの間で、手帳を付けるのがブームだと云う。一時期、見捨てられていたような気がする手帳だが、若い人たちの間では手書きの手帳が流行っているらしい。実際、手帳売り場に行くと若い人たちがいっぱいだ。手帳で自分自身を管理しているのかもしれないが、何か縛られた生活をしているようにも思えて私など可哀想にさえなる。ちなみに私は、去年も手帳を買ったが全く使わなかった。だから、私は自由なんだと自分を慰め、3日坊主の言い訳としている。

出会い系メールの危険なわな

2008-12-09

パソコンや携帯電話に見知らぬ人物からメールが届いていることは珍しくない。私のように自分のホームページを持っているものは当然として、ホームページなど持っていなくても種々なメールが届くことが当たり前となっている。だからこそ「迷惑メール」というカテゴリーが最初から用意されているのだろう。その「迷惑メール」の代表的な存在に「出会い系メール」と呼ばれるものがある。多分、説明不要と思うが、念のため記しておくと、通常は男女間の出会いの場をアピールする内容で、その業者からの勧誘メールだ。ところが、ただ単に勧誘メールなら無視すれば良いのだが、ときとして無視できない内容のメールが届く。

通常でも種々な迷惑メールが届くので、削除していくのだが、或る日、急に何十通もの個人名での出会い系メールが届く。二三日して、それは二百通にも達する。個人名の同じ相手から時間をおかず何通も何通もメールが届く。明らかに何かがおかしい。「25万振り込みました」「50万をあなたとの出会いに用意しています」「300万では不足ですか」「500万をサポートセンターに預けています」「ウソではありません。700万の現金を写メで送ります」……いったい、どういうことだろう。これらは、一人だけから届くのではなく、種々な女性からのメール内容なのだ。つまり似たような内容で、お金を掛けているのだから返信してほしい、と訴え掛けて来る。こんなメールが連日届いたら、誰もが不審を抱くだろう。

何故、何も登録していない私の所にメールが届くのか。私自身が、それら出会い系サイトに登録していて、その結果としてこれらのメールが届くのであれば理解できるのだが、私自身は何も登録していないのだ。とすれば、私のメールアドレスが誰かに利用され、登録された形となっているのに違いない。それとも出会い系のサクラが勝手に私宛に送っているだけなのか。最初、私はそう思って無視していた。けれども、どうも様子が違うのだ。サクラなら、毎日何通も何通も無視し続けている私にメールを送る筈がない。今は昔と違って、顔写真を掲載している場合が多い。もちろん、本人の顔写真であるかどうか疑問だが、私は顔を見ればそれがメール内容と一致しているかどうか判るので、何人か確認してみた。確かにお金には不自由していない若手経営者の顔もある。

実はよくよく確かめると、私は仮登録と云うことになっていて、その仮登録に対して「お試しポイント」のようなものが付いている。本来は入金しなければ貰えないポイントが与えられているのだ。だから顔写真も開くことが出来る。もちろん、それらの女性に返信も出来る。つまり、私は自分で登録などしていないが、勘違いして私にメールを送ってきた女性たちに返信もできるのだ。ただ、その仮登録なるものはいったい誰が、何の目的で行ったのか。実はここが問題なのだ。仮登録であっても、住所、氏名、年齢、電話番号は非公開ながら記載しているらしい。私自身の所を開くと「東京都」となっているらしい。どおりで東京在住らしい女性たちのメールが多いわけだ。

つまり、仮登録とは云うもののメールアドレス以外は、明らかに別人のものが登録されている。これが誤って行ったものでなく、意図的であるのは複数のサイトに登録してあることだ。それらのサイトは名称は異なるが、たぶん大元は一緒だ。いったい、その別人はサイトを通じてどういう呼びかけをしたのか知らないが、一つだけ確実なのは「金銭サポート」を求めていたらしい。だから、お金の金額を提示したメールばかり届くのだ。彼女らのメール内容から推測するに、出会い系のサポートセンターでは金銭の授受をする場合、いったんサポートセンターへと振り込み、それを預かって、本人側(私)から「受諾認証」を得たなら、それをサポート側が責任を持って相手口座へと踏み込む、と云う形式をとっているらしい。これは表面上、女性側がお金を与えても男性側が拒否するケースがあるからだ、と云うことになっている。但し、本人(私)が受け取るには条件があって、仮登録ではなく、1度でもそのサイトに一定額を振り込んで本登録を得ていること、となっているらしい。つまり、こういう面倒な手続きを経て、女性から男性へとお金が渡り、その対価として男性側は女性と確実に出会い付き合うこととなる。

つまり、これらの出会い系サイトは「女性用出会い系サイト」で、この逆となる「男性用サイト」も必ず存在するのに違いない。正直、私はこれらを利用していないので、普通の男性がそれら「女性用出会い系サイト」に登録できるのかどうか判らないが、少なくともそれらのサイトには私のように「メールアドレスを勝手に使われ」仮登録されている人物が少なからずいるものと思われる。もちろん、メールのやり取りはサイト経由であるから「波木星龍」のアドレス宛であることは女性側には分からない。したがって、登録された別の人物を想定して彼女らはメールを書いている。そして本気で逢いたいと思えば、お金をサイト側に預けるのだ。それらのお金は、もし私が無反応まま何日か過ぎるとサイト側に没収されるシステムとなっている。それでは、もし私が誰かになり変って、それを受け取れば…と思うかもしれないが、それは絶対に出来ない。なぜなら、私がポイントを購入しようとすると、本人確認のために最初に仮登録した時の電話番号を記載させるのだ。私自身の電話番号を記載するとエラーが出る。当然だ。つまり、私は本登録など出来ず、お金など最初から受け取れないシステムが出来上がっているのだ。要するに、女性の側も相手にお金を渡すことはできず、男性も決してお金を受け取ることはできず、サポートセンターに入金されたまま、最終的に没収される仕組みとなっているのだ。

これは明らかな「振り込め詐欺」の新しい手口のような気がする。もちろん、私のようなケースは稀で、実際に登録している男女なら、そのサイトを通じて出逢うことはできるだろう。だから、そのサイトが意図的に私のような「メールアドレス借り」をしているのか、そういう者も含めておくだけなのか、単に登録した者がアドレスを間違えただけなのか、私には何とも断言はできない。ただ意図的な可能性が強いだけに、性的欲求から出会い系を利用する女性たち、人柄も良く、美貌にも恵まれ、経済的にもゆとりある女性たちは、くれぐれも危険サイトに引っ掛からぬよう注意してほしいものだ。

天気予報と占いのコラボ

2008-12-07

普段、天気予報などをあまり気にしないような人であっても、この時期になるとさすがに確認してから出掛けようとする。私の住む札幌などの場合、四季折々の気候がハッキリとしていて、特にこの時期は天候の変化が激しく移り変わる。朝に曇っていて、昼近くになって日差しが出て、まぶしいばかりの陽光に照らされ、晴れたと思っていると午後になって急に雲行きが怪しくなって、雨が降り出し、それが夕方になると霙から雪に変わっている、などと云った目まぐるしい変化が一日の中でも起こる。そういう場合、当然と云えば当然なのかもしれないが、前日までの天気予報は外れている。そういう変化の多い日であれば天気予報が外れても、誰もそれを恨まない。ところが単純に晴れたり、雨が降ったりする、それだけの日に天気予報が大きく外れると、人は天気予報の外れをちょっとだけ恨んだりすることがある。特にそれが休日の前日だったり、イベント前日だったり、旅行前日だったりすると尚のことだ。例えば連休の前に天気予報を確認して出掛けて来たはずなのに、雨や雪にたたられたりすると、妙に人は天気予報を呪ったりするものだ。

札幌のような北国の場合、雪が降り路面が凍ると車もそうだが、人の歩行でも滑りやすくなるので、滑り止めのある防寒ブーツが必要になる。その意味でも出掛け前の天気予報は当たっていてほしいのだ。私は元々北国育ちではあるが凍った路面を歩くことは得意ではない。幼い頃からいったい何度滑って転び、痛い目にあったことか。私の母など12月31日の午後に路面で転び、腕を骨折している。病院がどこも終わっていたので、骨折の痛みのまま年を越したものだ。その記憶があるせいなのかどうか、私は滑り止めのある防寒ブーツにだけは出費を惜しまない。先日も新しい防寒ブーツを買った。イタリア製のブーツで靴底の厚さが一般のものより多少厚い。正直滑り止めは物足らなかったが店主が「この靴は滑りません」と太鼓判を押すので、その勢いに押される格好で購入した。この店主は私が靴底の厚さを黙って確認していたら、ひょいと勝手にイタリア製のブーツを出してきて「これなら底は高いですよ」と手際が良かった。私が履いて見て、その後でもう一度滑り止めを確認していたとき「滑りません」と太鼓判を押したのだ。

中々うまい商売の仕方をする。それはともかく二日前に試し歩きをして、なかなか履き心地の良い靴であることを再確認した。私はイタリア製の靴は正直好みではない。なぜなら細く出来ているからだ。日本人の足と比べて、イタリア人と云うのは足がスマートなのか総じて幅が足りない。恰好は実に良いのだが履きづらいのだ。しかも高い。私はインテリアやファッションなど、イタリア人のデザイン能力を高く評価しているが、ときとして実用性と云う点から問題のあるものもある。

それでもデザインが私の好みに合うのと良質なものが多いのとで、テーブルや椅子、コンソール、ランプ、絵画、コップ、コーヒーカップ、花瓶、写真立て、置時計、腕時計、ベルト、名刺入れ、レターボックス等々、身の回りの多くのものがイタリア製品で占められるようになっていた。う~ん、これはやっぱり誰かが言っていたように、私の前世はイタリア人なのか…。しかし、私の顔はどう見てもアンパンマンだしなぁ…。

ところでTVなどの天気予報も、最近は随分と変わった。大体、昔は1日の内でこんなに何回も天気予報を行っていなかったような気がする。しかも、天気予報は声だけで「天気予報お姉さん(稀にオジサンもいるが…)」は顔出しをしなかった。顔出しどころか最近は世間話までするようになった。中には写真集まで出す「お天気アイドル?」もいるらしい。すごい。時代は変わった。その割には天気予報の的中率は占いの的中率と同じように進歩していない。長期予報に関する的中率は決して褒められたものではない。これだけ科学が進歩し、これだけ頻繁に天気予報を行い、これだけ種々な天気予報士が顔を出すなら、もう少し各マスコミ間で独自性を発揮しても良いのではないだろうか。たとえば当たらない長期予報はうちは扱いませんとか、紛らわしい降水確率は入れませんとか、世界の主要都市の予報も必ず入れるとか、30分ごとに「修正予報」を入れるとか、自分の所だけは他局とは異なった方法で予報するとか、去年の同一月日の天候映像を小さく映し出すとか、防寒具や雨具のお薦め品を同時に流すとか、的中率はあまり良くないのだから思い切って「占いとコラボした長期予報を流す」とか…まあ、実際には百%無理だろうけど、そういう何かしらの工夫が出て来ても良いような気はする。それにしても神に逆らい、北京オリンピックの開催日に天候を変えようと努力した中国の技術は、台風の進路を変更させるような技術への応用として、やがて活用できるようになることをぜひ期待したい。

ユニーク企画・商売が大当たりする時代

2008-12-01

私がまだ会社勤めをしていた20代前半の頃、忘年会だったか新年会だったか忘れたが、招待されていた取引先の女性から「ユニークな魅力を持っている」と名指しされたことがある。私は当時技術者で、営業でも総務でもなかったので、その女性とも一二度あいさつ程度の会話をしたことがある程度だった。40数名が出席する宴席でいきなりそういう風に名指しされたのだが、正直私には「ユニーク」がどういう意味なのか分からなかった。それからかなりの時間が経って「ユニーク」が「特異な…」とか「独特な…」とかの意味を持っているフランス語であることを知った。

今年に入って世界的に景気減速が鮮明となってきているが、そういうなかでも収益が右肩上がりで推移している商売・事業はある。今年、特に日本で急成長している商売・事業に共通しているのは「ユニークであると云うこと」のように思える。ちょっとしたアイディア、ちょっとした工夫、ちょっとした努力、それらが成功につながっているケースが多い。大掛かりなものではない。たとえば仰向けに寝ていた身体を横向きにする。そうした時に自動で枕が高く変化する。まさにユニークなアイディアだ。

占い商売もそうであるべきなのだろうが、私個人は時代に合わせて細かく変化させていく―と云う商法を取らない。どちらかと云えばいったん決めたことは継続していくし、余程のことがない限り変更はしない。例えば占う場所や占いの時間、占いの方法・手順・料金等、ここに移った時に若干変えたが、その後は何一つ変更していない。そういう面から云えば、きめ細かな対応と云う点では私は失格かもしれない。もちろん私も占い始めて間もない頃はいろいろと試み的に変化させてみたものだ。だが、いつの頃からか占いの手順なども定着してしまい、それで慣れてしまって現在に至っている。例えば若い頃行ったのに、今はほとんど実占で行っていない占いには、紫微斗数、奇問遁甲、星平会海、測字占法、梅花心易、墨色一の字占法、インド占星術、占数術など数え上げればきりがない。本当はこういった占術もメニューに加えれば良いのだろうが、今はそれらを教えたり、記述したりすることはあっても、時間の関係などもあって実占はしなくなってしまった。

もっとも占いに限って言えば、今あげたような占いが相談者や依頼者のニーズに合っているかと云えば、そうも云えない。また、一部でもてはやされている「新しい占い」と称されているものがそのような「古典的占い」を指しているのかと云えば、そうでもない。むしろ、占い自体はオーソドックスなのだが、料金設定を細かく分けてあるとか、ポイント制を導入しているとか、予約さえすれば24時間いつでもOKとか、占い項目を細かく設定してあるとか、占法によって占い料金を変えてあるとか、どちらかと云えば占いそのものとは別な部分でのサービス対応を現代的にアレンジしたものが多いようである。確かに私のように、例えばメール鑑定でもすぐ応じられることもあれば、5日後くらいでないと応じられないこともある、と云うのはサービス業としてはあまりいただけない。料金設定も一律で、金銭面で細かな人にとっては高いと思うかもしれない。その点に関しては全く反論のしようもない。

ただ、私は直接でも電話でもメールでも、こと鑑定に関しては一般のサービス業、例えば販売業や飲食業のような「お客様本位」の仕事の仕方は、正直なところ出来ない。料金も安くすれば、占ってもらおうと云う人の真剣みも薄れる。人生において本当に迷い悩んでいる時と云うのは、料金よりも自分にとって今後の人生に本当の意味でプラスになる占いをして貰えるかどうかだ、と私は思うからだ。それに私には無料鑑定のコーナーもある。いつでもすぐ占ってあげることは時間の関係もあり出来ないが、占う時には無料だからと云っていい加減なことはしない。私は元々会社員時代も技術者であったが、占い師もサービス業である前に技術者であるべきだ、と云う考え方から抜け出せないからだ。したがって、よく「タロットで見てください」とか「手相を見てください」とか云う人があるが、私はもちろんそれらでも見るが、それだけで見ると云うことはしない。見てもらう側が、ああだ、こうだ、見て上げる方に指示すると云うのは、どう考えてもいただけない。そんなことを云うくらいなら、それ専門の占い師の元へ行けば良いではないか。波木星龍の元で占ってもらうと云うことは、波木星龍の占い方で見てもらうことを承諾して訪れているはずだからだ。

まあ、しかし、私もこんな頑固な御託を並べているようでは「ユニーク企画・商売」とは到底言えず、人気も収入もやがて失われていくのに違いない。

日本の中のジャパンの魅力

2008-12-01

久しぶりに和風温泉ホテルに泊まった。それも比較的新しい完全な和風のホテルであった。奇妙なもので、日本人ではあっても純和風ホテルのたたずまいは新鮮に見える。

まず日本人観光客、それもご老人達の団体ツアーが多い。そういう方々は総じて口数が多い。ウイークディーだと云うのにロビーはごった返していた。団体客ではない私は、和服姿の仲居さんが最上階の部屋まで案内してくれる。その部屋の玄関扉は引き戸になっていて、ホテルで引き戸と云うのもおつなものだ。いや、玄関だけでなくトイレの扉も引き戸になっている。床の間付きの純和風の部屋だが12畳以上ある。座イスの傍には肘掛が置いてあり、最初から肘掛椅子としていないところが和風のようだ。窓も、下の方はわざと障子が嵌められている。青畳の間や四角い和風照明も本当に久しぶりだ。和菓子が座卓の端に置かれたお釜型の菓子入れに入っている。セーフティーボックスも赤い和風箪笥型で美しい。床の間には掛軸が掛かり、窓からは中庭が見渡せる。和服姿の仲居さんによって和菓子が運ばれ、日本茶が淹れられる。

それにしても異国の国に来たような感じを受けるのはなぜなのか。私は日本人だ。この国で育ったはずだ。言葉だって通じる。日本のしきたりも知っている。なのに…。日本人じゃないのか…。そういえば数年ぶりに日本間で胡坐をかいて、久しぶりだったせいかお尻の納まりが悪かった。貸切風呂の丸い湯桶にも違和感を感じた。

海外のホテルへ行って違和感を感じることは珍しくない。ヨーロッパのホテル等ではお風呂の浴槽がなくてシャワーしか備えていないことも珍しくない。逆に高級なホテルだとシャワールームと浴槽室とが別物になっていて、慣れないとこれまた使い勝手が悪い。高級なホテルでは冷蔵庫を置いていないケースも多い。日本人的感覚からするとサービスが悪いと思うのだが、元々高級なホテルに泊まる客は冷蔵庫など使わず、ルームサービスで運ばせる、と云うことらしい。上海のホテルは浴槽の水抜きが出来なくて危うく溢れさせるところだった。エジプトのトイレは四角形で妙に座り心地が悪い。

けれどもここは日本であり、私は日本人であり、和風と云うのは「日本的」と云う意味のはずだ。それなのに、なぜ違和感があるのか。しかも、刀も差していないのに、なぜお侍さんに戻ったような気分になれるのか。京都の時代村では感じられなかった何かがある。そういえば、私が自宅として和室を使っていたのは、もう25年以上前のことになる。それ以降は、和室そのものはあっても絨毯を敷き洋室のように使用していた。現在のマンションは全室フローリングで、畳を使用していないせいもあって椅子を常用している。リビングはもちろん鑑定室も洋室だった。部屋の作りのせいでインテリアも洋風となっていることに改めて気がつく。貸切風呂に入るのも、何となく人前で裸となることに慣れていないせいだ。

幼い頃、私は日本式の家屋で暮らしていた。窓にはすべて障子が貼られ、冬になるとそこから隙間風が吹き込んで来ていた。強風が吹くと揺れ、雨が降ると雨漏りがした。石炭ストーブが赤々と燃え、その周りに子供達は膝小僧を抱えて自然と集まった。童話やおとぎ話には洋風のものがあって、西洋風のお城の建物が描かれていたりする。私はそれを見ながら洋風の家に憧れたものだ。そしていつも自分が、洋館の中で優雅に暮らしている想像をしては楽しんだものだ。

大人になって、素晴らしい海外のホテルにも何度か泊まってみたが、ホテルの部屋はどれも画一的で私自身は好まない。それらとは違った感触を純和風ホテルは与えてくれた。もしも前世と云うものがあるなら、果たして私はどのような環境下で暮らしていたのであろうか。