8月, 2009年

日本列島を魔物が急襲している

2009-08-29

いったんは鎮静化したはずの新型インフルエンザが再び猛威を振るい始めた。ここ札幌でも小学生60人が集団感染したらしい。学校が感染源になると急速に広まることは過去のインフルエンザが証明している。先日、日ハムの選手11人が感染していたとして、スポーツ観戦も注意が必要なのだ…と思ったばかりだ。沖縄では既に2万人が感染しているとされ、観光地にも危険がいっぱいだ。人の集まるところ集団感染あり…と云うのではどこにも出掛けられないではないか。

それにしても日本人はデリケートで感染しやすい体質なのか、世界的に流行り出した時には、海外研修中ずっとマスクをしていた横浜の高校生たちが感染して戻って来た。水際作戦は見事に失敗し、いまでは海外旅行など関係なく発症しているように見える。ちょうど日本中が騒いでいたときに私はヨーロッパへと旅立ったが、10日も経てば沈静化しているだろうと思ったら、関西空港へと戻った日には誰もがマスクを着用している。後で知ったのだが、大阪で急速に増えていたとき私は戻ったのだった。もっとも、あの時にも私は最後までマスクはしなかった。大昔、中国でサーズが流行った時、たまたま中国旅行へと旅立った私は、ツアーの中でただひとり街でも空港でもマスクを着用しなかった。空港ではどの外国人も1人残らずマスクを着用していて、検査官に何か言われるかと思ったが、何らお咎めもなかった。別に誇れるようなことでもないが、あまりに神経質になるのも考えものだ。大体、昔から健康に気を使い過ぎる人で長寿だった人に出逢ったことがない。長寿な人と云うのは、たいていが自分なりの健康法を持っていて、その生活スタイルを頑固なほど崩さないものだ。

それにしても、今年は目に見えぬ魔物が日本列島を急襲して来る年だ。それも日本列島の一部を狙い撃ちのように急襲するのが特徴だ。新型インフルエンザだけではない。ゲリラ豪雨とか、竜巻きとか、地震とか、鉄砲水とか、土砂崩れとか、覚せい剤とか、大麻とか、MDMA(合成麻薬)とか…あっという間に巻き込まれていってしまう「魔物」が飛翔する年のようだ。昔から魔物と云うのは、アメーバーのように音もなく姿を変えながら巨大化していくのが特徴だ。日本列島そのものが、いつの間にか気付かず魔物を培養させてしまっていたのか。そういえば春先から初夏にかけて私には気になるニュースがあった。それは一部地域で、空から魚やカエルが降って来た…クジラが多数浜辺に乗り上げた…というニュースだ。実は昔から、天災が起こる年と云うのは、その予兆があると云われていて、その予兆の中に「本来なら絶対にありえない出来事」が起こって来る、と云う言い伝えが含まれている。現代科学では頭から否定しがちな伝承だが、これらの言い伝えには真実も多く含まれているよう私には感じられるのだ。

大体、現代科学の粋を集めているはずの天気予報は、最近とみに当たらない。私の占いも外れやすいので、偉そうなことは言えないが、その日の早朝に発表する「今日の天気」くらいは的確に予測してほしいものだ。それに5日後とか6日後とかの予報はまったくと云って良いほど当たらないので行わない方が良い…と思ってしまう。現代科学よりも、古代からの伝承予測法(言い伝え)の中に、多くの真実がある。これらを真摯に研究する方が、同じ国家予算を投じるなら価値のあるものになるかもしれないのだ。占いなどにしても、個人の研究にとどまるのではなく、本来は国家予算を投じて、大々的プロジェクトを組んで、数十名の自然科学者と占術家とが一体となって後世の人々のために、真摯に研究すべき時代に入っているよう私には感じられるのだ。

仏壇の内外に集う人々

2009-08-22

久しぶりに実兄の家を訪れた。今回は母親の33回忌を兼ねているので九州から実姉もやって来ていた。前回、兄貴の所に来たのがいつだったか忘れてしまったが、この建物になる前であったから10年以上前だったのは確実だ。実兄は登別で、その長女、及び次女夫妻と同居している。孫も3人いるので大家族だ。一時期、心臓に持病を抱えていて薬を手放せないと云っていたが、ダイエットをしたせいか昔と同じくパワフルに動き回っている。普段は札幌で働いている息子や、兄嫁方の親戚も来ていたので、かなりの人数が集まったことになる。私は行った最初の日は気付かなかったのだが、法事当日になって、仏壇が前より小さくなっていることに気付いた。大きい方の仏壇は次女夫妻の二階に置いているのだと云う。前の仏壇が巨大すぎたから、これくらいで丁度良いのだが、運命学的な観点から云うと仏壇を小さくするのは良いことではない。これは墓所でもそうなのだが、これまでのものより明らかに小さな墓所に変えるのは家運が傾いていく形で感心しない。仏壇でも墓所でも、徐々に大きく変えていくのが良いのだ。けれども現今の住宅事情を考えると、仏壇が小さくなっていくのは当然なのかもしれない。例えば大きな一戸建てで暮らしていた家族が、それぞれ独立して夫婦二人だけに変わるような場合、便利なマンションに移り住んで大きな仏壇の置き場に困る場合だってあるだろう。実際デパートなどで売られている仏壇はどれも小ぶりだ。近年は「モダン仏壇」とか言って、洋風住宅やデザイナーズマンションであっても違和感のない仏壇も売られている。但し、感覚的には仏壇としての趣はない。洋ダンスのような外観で、装飾もなく色合いも仏壇らしくないので、何故か親近感はもてない。その内部に古典的な位牌を入れたりすると明らかに不調和となる。つまり先祖達にとっても安住しにくい空間となるのだ。墓所でも仏壇でもそうだが、極端に不調和・奇形な座所に「先祖・心霊」は寄りつかない。亡くなられた方が「生息する座所」として墓所や仏壇はある―と云うことを忘れてはならない。洋室に仏壇を入れる場合、クローゼット内部を押し入れ風に分断し、その中段に平置き型の仏壇を入れるようにすると良い。こうすると違和感なく洋室の中に仏壇が入る。特別な来客以外の時にはクローゼットの扉を開いておけば、その中段に当てはまる形で古典的仏壇が調和して収まるものだ。ちなみに私の所では神棚も、仏壇の上の段に、平置き型のものを置いている。つまりクローゼットを開くと、その中段にぴったりの高さで仏壇が開かれ、さらにその上段に神棚が横に広がっている―という構図だ。リビングにある調度品の多くはイタリア製だが、神仏とも引っ込んだ形のクローゼット内に納まっているため違和感は生じない。

日本人住居の場合、どんなに洋風建築にしても、神棚や仏壇を収めようとすると、違和感のある洋室が出来上がってしまう。昔は「和室」や「仏間」をリビング横に組み込む方式が取られたが、住居空間に余裕があるならその方が良い。ただ狭いと不調和な印象がぬぐえない。ともかく、先祖・神仏が住まう場所としての空間を意識することが大切なのだ。普段から先祖・神仏が見守って力を貸してくれれば、これほど生き易いことはない。そのための仏壇であり、神棚なのだ。よく先祖や神仏に対して、何かを要求してはならない…と云う人がいる。高名な占い師とか霊能者とかでも、そういうことを言う人がいる。私に言わせればとんでもない話で、血が繋がっているからこそ、母親が我が児を見守るように、先祖たちが私たちを見守ってくれるのだ。或いは神仏が見守ってくれるのだ。それに対して「力を貸してね」「常に見守って助けてね」と云うのは当然だし、決して不遜な要求などではない。むしろ自然な祈りであり気持ちではないか。不自然な信仰を行ってはならない。

それにしても、我が故郷・室蘭は相変わらず霧が濃かった。地球岬の灯台にも上ったが、あまり感動はなかった。朝方、久しぶりで神社にも行ったが、こんなにも広い敷地だったか…と改めて懐かしい想いにとらわれた。登別温泉にも行ってみたが、地獄谷の様相は何かが変わっていた。白い湯気の中で、過去と現在とが交錯して見えた。何が変わったのか正直分からない。もしかしたら、私自身が大きく変貌してしまっていたのかもしれない。

「人生は回り舞台」という法則

2009-08-15

このところ芸能関連のショッキングな話題が続いている。押尾学容疑者が使用していた部屋からの全裸死体・及び本人麻薬使用の逮捕、酒井法子の失踪・そして覚せい剤での逮捕状、女優・大原麗子の孤独死など、かつて日本中から憧れられた人たちの「もう一つの顔」と「墜ちた姿」だ。

人間には誰しも、幸運が本人の姿をより以上に輝かせてくれる時期と、不運が本人を表舞台から引きずりおろす時期とがある。これは一部の人だけにあるのではなく、長い人生を生きていれば必ず誰にでも訪れる法則なのだ。ただ運には強弱の違いがあって、それがことさら強く作用する人と、それほど強くは出て来ない人とがいる。日本中から熱狂的な支持・人気を得たり、棚ぼた式の莫大なお金が転がり込んだり、一気に名誉・名声を得たりする人は、どうしてもその反動から「暗黒の太陽」としての不運な一時期を体験しやすい。華やかだった表舞台から引きずりおろされて、不遇にむせび泣くような状況を出現しやすいものなのだ。

タロットカードには「運命の輪」と云う名称で知られているカードがある。回転する車輪を神々が回している図柄が描かれたカードだ。このカードを見るたび、私は「人生は回り舞台」だと改めて感じるし、占いの生徒さん達にもそれを教える。日本の歌舞伎で用いる「回り舞台」こそ、「回転する車輪」の図柄そのままなのだ。つまり観客から見える華やかな表舞台の裏では、その表舞台を支える裏方・黒子さんたちが必死に働いている。スポットライトを浴びることなく働いている。けれども歌舞伎には回り舞台があって、ドラマの途中でクルリと半回転する。そうすると、これまでスポットライトを浴びていた人達の照明は消え、代わりにそれまで「裏舞台に居た人達」が表舞台に出て来て華やかなスポットライトを浴びるよう変わってしまうのだ。人気稼業とか、芸能・芸術の分野、プロスポーツの世界、政治世界でも、実業の世界でも、あらゆる分野で運命の回り舞台は備えられている。表舞台に出てきた人達は急に輝き出し、能力を発揮し、美貌を与えられ、報酬が増え、素晴らしい人脈に恵まれる。その代りのように裏舞台へと消えた人達はかつての輝きを失っていく。もがけばもがくほど失っていく。努力とは無関係な「運」がそこにはある。厳然とある。ただそれが判りやすい人と判りにくい人とがいるだけなのだ。

私が、この法則を教わったのは、今は亡き中村文聡氏の著作からだった。彼は「太陽がいかに威力があったにしろ、夜間にその威力を発揚することは出来ない」と云う言葉で、それを表現した。太陽が我々の住む地球に昼と夜とをもたらしてくれているように、我々の人生にもまた「昼と夜」とがあり、それは「運勢」と呼ばれている太陽がもたらすものである以上、誰も避けて通ることは出来ないのだ…と悟った。但し、昼と夜とが繰り返すように、回り舞台としての人生も、裏舞台のまま終わるものでもなく、やがてまた表舞台へとチャンスが回って来る。人によって、表舞台・裏舞台の期間は異なるが、焦りさえしなければ、自ら墓穴を掘ってしまわなければ、一度失った輝きも、必ず取り戻すことは可能なものなのだ。ところが性急な人は裏舞台に回ると、途端にもがき始めるケースが多い。何とかスポットライトを取り戻そうと墓穴を掘っていくケースが多い。裏舞台の時には裏舞台としての役割があることに気付かなければならない。それを気付かせるため、神は裏舞台の時期を用意しているのだ。輝いているだけが人生ではない。人生の苦汁を舐めた人は人間として優しいし、謙虚だし、己と云うものを知っている。そして鈍く磨かれていく。再びスポットライトを浴びる時、必ずしも以前と同じような輝きとは限らない。けれども、その人にふさわしい輝きは必ず与えられるものなのだ。

薬物使用は芸能人であれ、一般人であれ、厳しい処罰が与えられることは誰でも知っている。人生を台無しにしていく危険物であることは誰でも知っている。それでいながら、手を出してしまうのは「妖しい魅力」があるからだ。現実から目を背けさせてくれるひと時があるからだ。誰でも夢を見ていたいときがある。目覚めたくないときがある。例えば酒井法子の場合、ホロスコープでは出生時点での太陽位置に今は移動中の海王星がぴったり重なっている。現実から目を背けて、眠りつづけていたい時期なのだ。人は誰でも孤独だし、誰でも口に出来ない悲しみを抱えている。だから人に優しくなれるし、他人でも心から抱きしめてあげられるのだ。神は人に暗闇を与えて、美しさや、気高さを引き出そうとしているのだ。

人間を叱る太陽と大自然の脅威

2009-08-08

各地で「お祭り花火」の季節となった。私の暮らす札幌でも今日は花火大会があるのだが、どうも天候の方がすっきりしない。元々の予報は晴れだったはずだが、今日になったら「夕方から雨」の予報に変わった。マンションの広いベランダから豊平川河畔の花火大会が見られる―と云うことも販売時のウリだったはずだが、見慣れてしまうと特別の感動もない。ましてやここ数年、この時期の天候があまり良くない。夏祭りは暑いから良いので、気温が25度に達しない祭りは今一つ盛り上がりに欠ける。

盛り上がりに欠けると云えば、マスコミが騒ぎたてた割には日本における「皆既日食」も悪天候で精彩を欠いた。最良の観測地と云われた悪石島の天気予報は当初「晴れ」と云われていたのに「曇り」に変わり、やがて「雨も…」と変化し、その日・その時間帯になると「暴風雨」となって、とても観測どころではなくなってしまった。皆既日食やダイヤモンドリングは晴天であってこそのものなので、ツアーに参加された方達には「お気の毒に…」と云うしかない。今回の皆既日食にかこつけて「占い商売」をしていた人たちもいるが、元々現代の占星術において「皆既日食」に特別の意味が存在しているわけではない。皆既日食に意味を持たせていたのは古代の占星家(天文家)、及び古代の為政者たちなのだ。

古代の占星家たち、例えば都市国家ウラリットの占星家は「日食」を「王が汚される日」と捉えていた。と云うのも、輝く太陽を王冠を輝かせている王に見立てていたからだ。したがって「王は彼の家臣に攻撃される」といった予測が行われることになる。これは実際の遺跡粘土板文書中の記録だ。したがって、実際に王は都を去るとか、身代わりの王が立てられるとかした。身代わりの王は神官の息子から択ばれ、百日が経過後殺されて丁重に葬られた。

古代ギリシャの時代には、BC585年5月28日?の日食が奇跡を起こし、メディア王国とリディア王国とが15年間続いた戦争を、日食が出現して辺りが闇に包まれたことで終結させている。古代のインドや中国においては、日食を「太陽が悪魔や龍に飲み込まれる現象」と捉えていて、その出現する天空位置に大きな意味を持たせ「黄幡神(おうばんしん)」や「龍の頭(ドラゴンヘッド)」として占星術に取り入れている。

日本では推古(天皇)36年3月2日に日食があったが、日食の日が近いことを心配した天皇は2月から病が重くなり、日食から5日後の3月7日に崩御されたという記録がある。どうも日食と云うのは不気味な印象を為政者たちに与え続けたようだ。無理もない。皆既日食の場合は太陽が徐々に欠けていって、辺り一面が真っ暗となり、急速に冷え込み、まさしく「暗黒の昼間」が出現するのだ。これに古代人が恐怖を感じない筈がない。したがって、一部の商売上手な占星家が「皆既日食は幸運のチャンス」などと喧伝していたが、古代人が幸運など感じるはずがないのだ。むしろ「天空からの戒め」として、暗黒の昼間を体得したに違いないのだ。そういう意味では「皆既日食ツアー」に参加し、人間界の科学である長期予報が外れて大自然の力を思い知った人達は古代人に近付いたとも云える。

そうは言うものの…私は以前から「長期予報」というモノに疑問を持っている。私の占いが当たる確率よりも低いくらいで、まあ科学の粋を寄せ集めているはずだが、私の占いと同じように今一つ信頼(?)に欠ける。いったん梅雨明けを宣言したはずの関東も、曇りや雨の日が続いている。それに「北海道に梅雨はない」という表現も、近年は嘘に思えて仕方がない。気象変動が起こっているなら、その辺も見直すべきではないのか。

それはともかく今回の皆既日食現象は、先にも述べたように幸運よりも大自然の脅威を改めて知らしめる効果があった。それよりも少し前、北海道の大雪山系で真冬の寒さが老人達を飲み込み凍死させた。その二日前には東北で竜巻が老人のいる民家を飲み込んだ。その前日には山口の集中豪雨で土石流が老人達を飲み込んだ。そう…みんな古代人がとらえたように飲み込まれているのだ。大自然は、無言の内に我々に何かを伝えようとしている。