10月, 2009年

暗雲漂う鳩山「日本丸」の行方

2009-10-30

鳩山政権が誕生して1ヶ月が経った。予想以上の大差をつけて自民党を蹴散らし、念願だった政権獲得を果たした民主党だが、その後の霞ヶ関の評判は今一つパッとしない。週刊誌などは早くも新政権に対して総攻撃を開始している。実際「ムダを省く」と云っておきながら、現実には「95兆円です」と云うのでは、誰もが「おやっ…?」と思って当然であろう。もちろん、そうなることは予測できていたはずで、選挙前だから「削ればいくらでも無駄なお金が出て来るんです!」と叫んでいたに過ぎない。その叫びにマスメディアも根拠なく同調し声高に歩調を合わせていただけだ。したがって新政権が抱える種々の問題点は、それを生み出した感のあるマスメディアにも責任がある。私がこれまで民主党に関して全く触れなかったのは、こうなることが最初から判っていたからだ。大体、社民党や国民新党との合意だって、極めて危ういもので、いつ亀裂が生じてもおかしくはない。

それ以前に、民主党本体だって、決して一枚岩ではない。晴れやかに船出した鳩山「日本丸」だが、どうも穏やかな航海というわけにはいかないようだ。それでも国民の支持は今も7割方ある。この支持率が下がらない内に、次々手を打っていかないと、国民の期待は絶望へと変わってしまうだろう。

ただ占い的な観点から云うと、鳩山氏は運気の良い時期に総理となった。したがって年末までは一応無難に切り抜けられる可能性が強い。問題はその後だ。

私には鳩山総理に関して最初から気になっていることが一つある。それは彼の話し方だ。もともと慎重な物言いをする人だが、総理となって「くぐもった話し方」をすることが多くなった。対個人と話す時にはあれでも良いが、国民全体に向かって話すとき、或いは諸外国の首脳を相手に話す時、ああいうくぐもった話し方では一国を統治し、代表して相対する者として少々覇気がなさすぎる。覇者としてもっと堂々と明確な物言いをしなければいけない。それが国を率いる―と云うことだ。そういう点で、小泉元総理の話し方は合格点である。私は昔、演劇サークルに所属していたとき、よく「声がこもる」と云って注意されたものだ。人間は内向的で周りを気にし過ぎ、秘密めいた考え方にとらわれ、迷いが生じて決断が鈍ると、どうしても声は内にこもるようになる。それでは一国の総理は務まらないのだ。

話し方だけでいえば、前原大臣の話し方は線としてやや細いが「くぐもったところ」はなく、スッキリとしている。ただし、この人は口唇が左右不均衡で人相的に歪みが見受けられる。こういう人は「恨みを買いやすい」と云う特徴がある。この点を注意しないと、足元をすくわれかねない。つまり、弱者から恨みを買わないような発言・行動を心掛けることだ。よくTV・新聞などで国民の支持・評価が数字として出されるが「6割以上の人が支持している」と云っても、だから正しいとは必ずしも言えないものだ。何千億という巨額が投じられるダム工事などに対し、税金が使われることを、その地域に無関係な人達の多くが賛成する筈がないからだ。羽田の「ハブ空港化」にしても、その方が便利な事など何十年前からだって判り切っていたはずで、今更の感がぬぐえない。

私が新政権の目玉政策の中で最も懸念するのは「子供手当」で、これは不公平なだけでなく、経済対策として即効性に乏しく、何よりも学力の低下につながる。新興国の子供たちの「真剣な学び方」は経済的な貧しさと大いに関係がある。飽食の国から「必死に学びとろうとする子」は生まれない。貧しい地域ほど「学ぶことの喜び」と「知識が経済的豊かさを生み出す」ことを本能的に知っている。だから真剣に、必死に学ぶ子が多数誕生するのだ。欲しいモノが簡単に手に入る国で、黙っていても大人が与えてくれる国で、必死に学ぶ子は生まれない。教師をバカにし、親を軽んじる子供を増やすだけだ。当然、そのような政策を打ち出した政治家が尊敬されるわけもない。むしろ何年か経って「子供手当」が廃止となったら、その時点で親だけでなく子供達も政治家を信用しなくなるだろう。金持ちの親が、子供の欲しがるモノを何でも与えて、遊んでばかりで勉強しなくなった…と途方にくれる姿を考えてみれば良い。そうなって急にお小遣いを廃止すればどうなるか。

もう一つの新政権の目玉が「年金対策」だ。ところが国民の期待が最も高い長妻厚生大臣は、官僚に見事に操られている…との声が囁かれている。ミイラ取りがミイラになっている…と囁かれているのだ。大丈夫か。野党の時には威勢が良くても、いざ与党となって自分の出番となったら、途端に意気消沈と云うのでは「正義の味方」が泣く。

「正義の味方」と云えば、TVのミステリーチャンネルで『逃亡者』が再放送されている。妻殺しで死刑を宣告された無実の医師が、護送の途中の列車事故から逃亡し続けていく内容で、アメリカの実在事件にヒントを得てドラマ化された名作だ。私の子供の頃に放映され、手に汗を握りながら食い入るように見つめていたのを昨日のことのように思い出す。人間と云うのは変わらないもので、リチャード・キンブルは今でも私の中のヒーローなのだ。このドラマを見るたび、正義って何だろう、と思ってしまう。現実に「殺人犯の逃亡者」が傍にいたなら、見逃してあげることが出来るだろうか。逃亡者の云う言葉を、そのまま信じてあげることが出来るだろうか。そしてこのドラマのように、逃げながらも同時に自らが関わった人達を、自分を追って来た刑事の命までをも救う努力が出来るだろうか。日本の政治家たちにも、ぜひ見て欲しいドラマだ。

私が予告した通りとなった中川昭一の死

2009-10-20

自民党の中川昭一氏が亡くなった。

私はこのコーナーの中で、時々、予言めいたことを書く。意識して「書く」と云うよりも何となく「書いてしまう」と云う方が正しい。占術家なのだから、予言めいたことを書くこと自体に罪はないのだが、その「書いてしまったこと」が、あまりにも厭な形で的中してしまうと、暗然たる気持ちになってしまう。今回など、まさにその典型と云える。

まあ、私の書くモノに注目してくれる方は少ないだろうから、その中で「忠告していたこと」が防げなかったとして、だれも責めることなど出来ない。ただ、無性に虚しく、辛いのだ。私の無力さが…人一人救えない事実が哀しいのだ。

私が予告していた内容に関しては、このコーナーの「故・中川一郎を振り払え 2009.2.19記」を読んでいただきたい。もちろん、2月19日に記した内容そのままであって、その後に手を加えたりは一切していない。彼がG7の記者会見後、大臣を辞任した直後に記したもので、初当選の頃の端正だった顔立ちが崩れて来ていることを指摘し、父・一郎氏に酷似してきていることの危険性を訴えかけた内容だ。

この時、私は札幌在住の人間であるから、十勝の中川氏の地元関係者が、一人でもこのコラムを読んでくれないものか、誰かから伝え聞いてもらえないものか…どこかで願っていた。この時のコラムを実際に読んでもらえば分かるように、そういう書き方になっているのだ。もっとも、仮にこれを関係者の誰かが読んだとしても、知ったとしても、だから何かが出来たか…と云えば、そうとは云えなかったのかもしれない。自分自身の過去を振り返っても、私は自分の母親の死も、父親の死も、漠然に予知はしたのだが、そして忠告はしたのだが…まともに信じてはもらえなかったし、聞き入れてはもらえなかった。自分自身の身内でさえも、信じてもらえなかったし、救うことが出来なかったのだ。

時折こういう場面に出くわす私は、改めて「自分の役割はいったい何なのだろう?」と思うことがある。幼い頃、私は「予言者」と云うものに憧れていた時期があった。それはたぶん少年雑誌で、オカルト的な記事が掲載されるとき、ことさら「過去の歴史を揺るがした派手な予言」が取り上げられ、それを予言した占い師を或る種の神秘の象徴として、又は「超能力者」のような魔力を持つ姿として、私のような「変わった子」の憧れとなるような存在に仕立て上げていたからかもしれない。

単純な私は、例えば手相家キロがロシア皇帝ニコライ・二世に対して「皇帝は不慮の死、しかも銃弾によって埋葬される運命を持たれる」と述べたとか、毒殺魔メイヤーに対して「あなたは何人もの人を金のため殺害し、死刑を言い渡されるだろうが、あなたの生命線は死刑と云うことに終わらず、終身刑として生き延びるだろう」と語ったとか、ドラマチックに本の中に記してあると、それをそのまま信じて「憧れの存在」としたのだった。

けれども、自分が実際に占い師となって、目の前に「悩める人」を前にしたとき、そのような「単なる予言」が何の役にも立たないことを痛いほど知らされた。考えてみれば当然のことで、お金を払う立場の依頼者にしてみれば「今後どうなっていくか」よりも「現状を打開するためにはどうすれば良いか」の方が、何よりも知りたいことなのだった。

ただ、差し迫っている問題などの場合、結果は目に見えていて、どうすれば良いか?と問われても、占いそのものではどうしようもない時もある。私は、或る時期から風水や方位や改運に力を入れるようになったが、手遅れでない限り「改運させること」は可能だと思うようになった。私はいつも言うのだが「人間の持っている能力や素質」などと云うものは、実際には誰でもそんなに違わない。「先天運」の違いと云うものは多少あるが、それだって大きく違っているものではない。ところが、占いを信じる人の中には、先天運の違いを「決定的な違い」のように誤解している人が多い。この思いこみが「運勢の飛躍」を阻んでしまいがちなのだ。

ただ、どんなに能力や素質に恵まれ、強力な先天運を持って出生していても、人生がことごとく順調に行く…などと云う人はあり得ない。そこが人間の運命の「神に勝てない部分」だ。そして「神の公平な部分」だ。したがって、そういうときに「羽を休める」ことは、むしろ人生の王道なのだと知ってほしい。「生き急ぐ人」は時々強引に自らに鞭打ち、羽を休めることを拒絶し、人生の階段を踏み外してしまうものだ。「運命を知る」と云うことは、そういう命の歩みを把握しておくことなのだ。

雲の上の「遊び場」と「未来都市」の幻想

2009-10-17

私は完全に誤解していた。「マレーシア」という国についても「マレーシア人」という人種についても「クアラルンプール」という都市についても、おおよそ実物とは掛け離れた勝手な想像や概念を抱いていたようだ。

6日間、クアラルンプールに滞在した。そして日本人の一般旅行者はあまり訪れないような場所へも出かけてみた。それが雲の上の「遊び場・ゲンティン・ハイランド」と、まだ完成しきっていない「未来都市・プトラ・ジャヤ」だ。その前に、あなたは「マレーシア」と聞いて、どういう国を想像するだろうか? 私は以前シンガポールに行ったときに、実はちょっとだけ国境越えをして、マレーシアという国の中にも入っていた。但し、実際には数時間立ち寄っただけで、きちんと観光したわけではない。その時「シンガポールに比べるとマレーシアは遅れていますよ。シンガポールの方が経済的にも豊かで文化的にもレベルが高いんです。街並みが全然違います」とガイドに説明された。そして、それを鵜呑みにしてしまった。そのせいか「経済的に貧しくて文化的にも遅れている国」という先入観が定着してしまっていた。けれども今回、実際に行ってみて「貧しい」という印象も、「遅れている」という印象も私にはまったく感じられなかった。それどころか、印象を一言でいえば「アジアにおける小ドバイ」といった趣さえあった。特にゲンティン・ハイランドとプトラ・ジャヤで、その印象を強くした。

「プトラ・ジャヤ」という名称を聴いて、すぐにピンとくる日本人は稀であると思う。それくらい馴染みが少ないのが「未来都市プトラ・ジャヤ」だ。実は、この未来型行政都市はまだ完成していないため、あまり観光スポットとしても日本などではPRされていない。そのため日本で観光案内書籍などで調べても詳しく載っているモノがない。だから実際に行くまで、どんなところなのか皆目見当がつかなかった。「未来都市」というふれこみに惹かれて「行ってみようか」と云う気になっただけなのだ。だから、それが完全な行政都市で、未来都市とは云うものの住宅や商業施設は極めて乏しく、何となく「空想アニメ都市」のようで「人の気配が乏しい街」と云うのが実感だった。しかも、行政機能としても、まだ完全移設しきっていないので、工事中の部分も少なくはない。但し意図的に作られた都市であるため、街全体がすこぶる綺麗なのだ。無駄なモノが全くない。すべての建物が大きく、真新しいため、一気に作られているため、そして都市計画的に作られているため、人の気配には極端に乏しいが、その代り人工美で統一されている。本当にアニメとしての「未来都市」なのだ。

だが、どこか納得がいかない。ここで実際に中まで立ち入ることが出来るのは、巨大なイスラムのモスクのみである。それ以外の施設へは誰も立ち入り出来ないのだ。その広大なモスクだって、内部神殿までは立ち入りできない。あらゆる所に天然大理石を用いているモスクは、確かに美しく荘厳な雰囲気ではある。ただ神像とか仏像とか壁画とか彫像などの装飾がなく、あまりにスッキリとし過ぎているため、例えばエジプトにあったモスクのような生々しさがない。イタリアにあった教会のような痛々しさがない。香港にあった道教寺院のようなギトギトした輝きがない。何かよそよそしいのだ。

実はこの未来都市には観光クルーズがあって、美しい船で人造湖だと云う湖をぐるりと遊覧することが出来る。それによって、外からではあるが各施設を望見出来るようになっているのだ。それに乗り込んでいたのは多分マレーシア人富裕層と思しき人たちが7割方のように見えた。しかも、そのほとんどの人達がイスラム教徒であった。何故それが判るかと云うと女性たちは全員イスラムのスカーフで頭を巻き、イスラムの衣装で着飾っているからだ。そう明らかに彼女らは着飾っていた。他の国で見たイスラム系の女性たちよりも、はるかにオシャレで高価そうな衣装を身にまとっていた。スカーフだって美しいのだ。それに顔貌だって整っている。同じイスラム系でも、ここでは何かが違っていた。

そういう図式が嫌なのか、ガイドさんは何故か無口だった。そして私にこんなことを訴えた。「無駄なことにばかり金を掛けているんですよ。私は一度だけ行政施設内に入ったことがある。ほとんどの建物はがらんどうです。建物は巨大でも実際そこで仕事をするのは僅かな人達だけです。それなのに全室に冷房が通っている」

小ドバイとも思える未来都市プトラ・ジャヤだが、さまざまな矛盾が見え隠れしているようだ。中国系のツアーでは、最初から必ず組み込まれていると云うプトラ・ジャヤだが、どう見てもまだ未完成であり、内部公開をしないとういう「つまらなさ」を消すほどのインパクトは見当たらない。それでも人造湖クルーズにこれだけ自国民が参加するのは、アラーの神の成せる技かもしれない。

雲の上の「遊び場」とも云うべきゲンティン・ハイランドも、あまり日本人には人気のないオプション観光地だ。ここは政府が唯一公認している「カジノ場」を備えていることで世界的に知られている。それも、ただ単にカジノ場を備えているだけでなく、多数の趣向を凝らしたホテル・カジノ場がそれぞれ迷路のようにつながっている。戸外に出ることなく6つも7つものホテル・カジノ場を行き来できるのだ。したがって、その総面積はすこぶる広い。しかも、カジノ場だけがあるわけではない。種々のテーマパークも併設されている。早い話がディズニーランドとラスベガスが一体化しているような山の頂上に忽然と姿を現す一大観光地なのだ。そう、それは或る意味で現代の「マヤ帝国」や「マチピチュ」と云えるかもしれない。密林の奥に忽然とそびえたつ一大帝国であることは間違いがない。山の中腹まで来てホテルが見え出し日本的感覚でもうすぐ着くだろうと思っていると、これが中々辿りつかない。とにかく本当の頂上なのだ。しかも、われわれの感覚からすれば理解しがたいことだが、こんな辺鄙なところに連日信じられないほどの観光客が実際に訪れているのだ。私たちが行ったのは月曜日の午前中であったが、既にほぼ定員かと思うほど人があふれていた。ホテルが山の頂上に7つも8つも建っているのだから、午前中から人があふれていたとしても驚くには値しない。しかも家族連れが多い。加えて、皆、普段着だ。日本のガイドブックにはドレスコードが必要などと記してあったが、全くのウソだ。何の規制もありはしない。

だからなのか何なのか知らないが、カジノは早々に満員御礼となる。そして掛け金も驚くほど安い。もちろん高いものもあるが、安いものは本当に安い。私は最初、スロットマシンで2090とかの数字になったので、これはひょっとすると高額に換金できるかも…などと皮算用したが、手にしたのは日本円で2600円程度であった。そう、だからこそ庶民の「遊び場」なのだ。子供達用のゲーム機も沢山置いてある。アトラクションやボート、バンジーや種々な乗り物など、子供連れでも飽きさせることはない。もちろん、レストランの数も多い。ショッピング街もある。

カジノに夢中となっている人たちの外見は、さながら日本でいえばパチンコ屋だが、子供連れで堂々と来られる所が少し違う。とにかく高地なので寒いかもしれないと思っていた私は、その暑さにも参った。やっぱりここはマレーシヤ。北海道じゃなかった。マカオでも、エジプトでも、ヨーロッパでもカジノはやったが、それらの地域に見るような格式張ったものなど何も存在していない。パチンコ屋のような気軽なカジノ屋は、きっと雲の上で本日も大儲けしているのに違いない。

裁く者と裁かれる者

2009-10-05

札幌弁護士会の副会長が覚せい剤所持で逮捕された。酒井法子が保釈され、覚せい剤事件に世間の注目が集まっている中で、またしても「裁く側と云える法律家」の逮捕劇だった。

最近は警察官がひき逃げ事件を起こすとか、自衛官や銀行員が個人情報を売買するとか、教師が小学生にわいせつ行為に及ぶとか、母親が我が児を虐待死させるとか…本末転倒とも云うべき事件が多い。いったい誰を信用して良いか、分からない世の中となっている。そういう中で「裁判員制度」がスタートしている。

国民の多くが裁判の行方に対して、その意思を反映させられるようにスタートした制度だった。しかも、そのPR映画に出演していたのが酒井法子だった。世間の人々が事件に注目し、その民意を反映させたいと云う意思を表した裁判はいくつもある。かなり古いが総理大臣であった田中角栄が関わったロッキード事件、永遠に謎となってしまった三浦和義のロス疑惑事件、今も争われ続けている麻原彰晃を始めとしたオウム真理教事件……自分には直接的な関わりがなくても、その事件性から国民の関心が高く、裁判の行方に注目が集まるケースは多い。

裁判員制度のスタートによって、プロである裁判官自身も新たな視点で事件を捉えることが可能となるかもしれない。灯台もと暗しで、案外素人の方が気がつくことも多いはずだからだ。私などでも、プロの占い師となって長いが、占いの貴重な研究や発見はプロになってからよりもセミプロ時代に培ったものの方が多い。素人でもマニアックな研究者の中には我々をはるかにしのぐような占いの知識や独自の研究を持っている方も少なくないはずだ。ただ実践的な裏付けを欠いている研究も多い。ぜひ、そういう方は我々に対して研究成果を示してほしい。それが占いと云うものを新しい未来を拓く鍵であると思っているからだ。もっとも、占いはそうかもしれないが、裁判も同じように捉えて良いかどうかは疑問の部分もある。基礎的な法律知識を欠いたままプロと同等な場に臨むことへの疑問だ。巧みな弁護士なら、一般感情を逆手にとって弁護して心証を良くすることだって可能かもしれないからだ。

人が人を裁けるのか…に対しては古来から種々な議論があった。たとえば歴史としての「政治犯イエスの法廷」がある。キリスト教の祖として死後に神格化されたイエスだが、当時は「民衆を扇動した政治犯」として捕まり、人民裁判のような形で「十字架刑」として裁かれたのだった。重い木枠としての十字架を背負わされた姿で市中を引き回されたのち、広場で張り付けとなる。それが当時の習わしだった。張り付けとなったイエスは、旧約聖書の「詩篇」を唱え続けていたらしい。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか…」と云う一節がイエスの口から発せられた。そして、奇跡など起こることもなく、ひっそりと亡くなって行った。これが歴史としての真実なのだ。

同じように十字架として張り付けられ、波にのみ込まれていったのは江戸時代・長崎の「隠れキリシタン」達だった。長崎の隠れキリシタン達は、イエスではなく、母マリアに対して熱烈な信仰を持っていたらしい。だからこそ「踏み絵」が功を奏したのだ。聖母の顔を踏みつけることは出来ない。名もなく、貧しい信徒たちは「聖母マリア」に抱かれることを信じて波にのみ込まれていったのだった。島原の乱では、信徒たちの首は「見せしめ」のため路上両側にさらされたという。

このようなことを書いたからと云って、私はキリスト教徒なのではない。ただ、海外の教会やモスクや寺院を訪れるたび、現代日本には乏しい真摯な信仰心、思想などと云ったものを超えた剥き出しの信仰心を感じとることが多い。

もちろん、社会に秩序は必要であり、法を犯すものは裁かれなければならない。特に覚せい剤のような周囲をも巻き込んで修羅場を生み出す元凶は断たなければならない。暴力団の資金源とも云われる覚せい剤は、どうすれば元を断つことが出来るのか、新しい政権の厚生大臣は年金問題だけでなく、薬物問題にもぜひ本腰を入れて欲しいものだ。