2月, 2010年

人間の持つ“イメージ”の違い

2010-02-19

人間という“商売”を長くやっていると、誰でもその人の持っている“雰囲気・イメージ”のようなものが定着してくる。別に自分自身で作ろうとしたわけでもないのに…何故か不思議と徐々に“出来上がっていく”ものだ。

そういう点で「小沢一郎」も「朝青龍」も、或る意味で“クリーン”とは程遠いイメージが、いつの間にか一般の人達に出来上がってしまっている。だから、根掘り葉掘り書かれてあっても、彼らに同情する人は少ない。俗に「叩けば埃の出る身体」という諺がある。まさに彼らにはぴったりな表現で“不透明な決着”をしてしまったことが、かえってそのホコリを次から次に叩き出すチャンスを週刊誌などに与えてしまった…とも言える。人間に一度定着してしまったイメージというのは、そう簡単に拭いきれない。小沢一郎も、朝青龍も、自分がイメージで損をしていることは、百も承知していたはずだ。それなのに直し切れなかったのは“おごり”があったからだと私は思う。

一般大衆というものは“愚にして賢”で、一見愚かなように見えても、実はその奥に賢い部分を秘めているものなのだ。その本質の部分を二人とも見失ったもの…と見える。人間というのは弱いもので、強そうな二人ではあるが、所詮、一丸となった大衆には勝てない。じわじわと寄り切られていく…。不透明な決着の仕方が、より“ワルのイメージ”を定着させたことに、そしてそれが徐々に足を引っ張っていくことに、二人はまだ気づいていない。

この“イメージの定着”によって、どれほど多くの人が人生を変えられていった…だろうか。「余の辞書に不可能はない」と豪語したナポレオンだが、最終的には大衆を敵に回して島流しとなった。同じような形で、壇上から引き摺り下ろされていった人物は枚挙にいとまがない。タイガー・ウッズなど一夜にして“世の婦人たちを敵”に回してしまった。実はこの形で“人生を変えられてしまう”ケースが最も多い。もはや“イメージの回復”は不可能であろう。元々の“作り上げられたイメージ”というのが、マスメディアによる勝手な“思い込み”や“風評”や“喧伝”に過ぎないものだったとしても、いったん定着したイメージは、そこに“生命力”が与えられ、独りでロボットのように動き出し、実物でもあるかのように大衆の脳裏に定着してしまうのだ。

早い話が「寅さん」だ。我々はそれが「渥美清」という俳優による映画作品であることを知っている。知っているにも拘らず、我々のイメージする“渥美清のイメージ像”は映画「男はつらいよ」シリーズの“寅さんのような人物”しか思い浮かばない。渥美清は、優しいに違いない、情が厚いに違いない、惚れっぽいのに違いない、喧嘩っ早いに違いない、寂しいのに違いない…等と勝手なイメージを、重ね合わせてしまうのだ。それ以外のイメージを抱くことが出来ないのだ。

今回、笑福亭鶴瓶が「弟」を演じた。その映画自体も観ていないので、きちんとした批評は出来ない。ただ「鶴瓶」というタレントはTV出演が多い。したがって、そのTV番組の中でのイメージが定着している。だから、すんなりと物語のイメージと重ね合わせられない。もう一人の主人公役の吉永小百合だって、種々な映画によってイメージが定着している。“弟で苦労している”イメージはどうしてもわかない。不思議と「寅さんの妹=さくら」役の倍賞千恵子には“お兄ちゃんで苦労している”イメージが見事に重なっていた。家庭的な物語を映画化するのであれば、やはり“家庭的なイメージ”を“家庭・家族に関する苦労”を強く感じさせるような俳優を起用すべきだ。そうでないと、どんなに演技そのものがうまくても、所詮“映画の中の事”としか思えず、作品の中に入っていけない。

今ミステリー・チャンネルで再放送している「逃亡者」が、あれほど古い作品であるのにリアリティーがあるのは、一つには主演のデビッド・ジャンセンが“逃亡者のイメージ”とあまりにもぴったり重なるせいもある。あまりにも“はまり役”過ぎて、他の作品を見たとしても、多分、逃亡者のイメージは消せないと思うほどだ。そういう意味で言うなら、最近のTVドラマとしては「宿命」は中々に良いキャストをそろえている。特に小池栄子は現在“お金に苦労しているイメージ”があるだけに、役柄もまさにぴったりで、その演技自体も無理がなく、負けず嫌いさが出ていて大変に良い。やはり実生活とあまりに大きくかけ離れてしまうと、役柄だけが浮いてしまう。最近のTVドラマには視聴率のことを考えてなのか、お笑い系タレントが出演するケースが多い。見る側からすれば、それだけでドラマを壊してしまうケースもある。お笑いのイメージが強すぎ、シリアスな演技を行っても、ふざけているようにしか映らないからだ。日常の積み重ねが作り出す“無意識のイメージ”こそ、本人を映し出す魔法の鏡なのだ。

忙しいことの憂鬱

2010-02-07

このところ、どういうものかメールや電話の鑑定依頼が多い。特にメールによる鑑定依頼は基本的に順番制であるため依頼者を待たせてしまう結果となるケースが多い。出来るだけ早く…と思ってはいても、実際にメール鑑定をする場合には、まず依頼・相談の内容メールを読み、生年月日時からホロスコープや四柱命式を出し、易やタロットも駆使して慎重に判断し、その結果を文章にして送信する…という手順を経る。どうしても時間を要するのだ。3通も4通も溜まってしまうと「早くやらなければ…」と焦るばかりで、中々その時間がとれない。時に「まだでしょうか?」と問い合わせのメールなども来る。依頼して5日も6日も経てば、入金も済ませているのだから問い合わせてきて当然だ。それは分かっているのだが、何しろ時間がとれない。ひたすら謝るしかない。私にメール鑑定を依頼してくる方達は、共通して詳しく依頼事項を文章で丁寧に説明してくださる方が多い。たんに「仕事運を…」とか「結婚運を…」といったような単純ぶしつけな質問の仕方の人は、まずいない。それだけに私の方もアッサリとし過ぎた文章内容で返信するわけにもいかない。丁重な問い掛けには丁重な回答…で返すのが礼儀だ。

大体、私の場合、直接鑑定があり、電話鑑定があり、メール鑑定があり、占い教室があり、占い原稿執筆があり、ブログ・コラム執筆もあり、そういう意味では時間の配分がなかなかに難しい。これは言い訳でしかないのだが、たまにダブルブッキングをしてしまって、お客さんが室内に入っているときに、ピンポンが鳴って“別な予約”を入れていたことを思い出し…慌てふためくことがある。どうも、昔から“過密なスケジュール”忙しいのは苦手だ。大昔に会社勤めをしていた頃も、仕事が重なり、納期が重なり、残業を強いられると、逃げ出したくなったものだ。あの頃、私は他のことでは上司と遣り合うことはほとんどなかったが、納期という点では常にぶつかり合っていた。上司に楯突くのは私ぐらいだったが、私でなければこなせない仕事が多かったこともあって、強気であり一歩も引かなかった。

あの頃、私はよく「早く独立したい」と思ったものだ。当時からサイドビジネスという形で占いの仕事も行ってはいたが、完全にそれだけで生活できる状態ではなかった。したがって会社勤めを優先しなければならない。占いだけで生活が出来るなら、こんなに忙しく、納期のことで遣り合うこともなく、自分の都合で仕事量を調節できるのに…と心から思って悔しがっていたのだ。だが実際に占いだけになってみると、そうでもなかった。特に占い原稿などは納期が重なってしまうケースが多い。それが嫌で独立したのに、占い師となっても納期で苦しむ…人間の“仕事運”というのは大体がそういうものだ。よく「隣の芝生はきれいに見える」というが、どの仕事でも、どの職場でも、良い部分もあれば、悪い部分もある。一見、楽そうに見える職場でも、意外なほど中で働いてみると苦労していたりするものだ。

多分、私などは“わがままに仕事をしている”典型かもしれないのだ。メール鑑定が溜まっていても、夜になればTVを見るとか、本を読むとか、外出してしまうこともある。基本的に夜8時以降は仕事をしない。その代わり、夜中や早朝に起き出して仕事を始めることもある。まあ、その時の気分が大切なのだ。特に、現在のように真冬の寒い時期は、昼間でも寒くて外出に勇気がいるので、仕方がないから部屋にこもって仕事をこなすことになる。気候の良い時期になれば、仕事が多少溜まろうと出掛けたくなるのだが…。

ただ私の良いところは、どんなに自由にして良いといっても“寝る時間”“起きる時間”は一定だし、必ず起きたらすぐに洋服を着る。だらだら過ごすこと自体は嫌いなのだ。そういう面だけで言えば、極めて公務員的であり、早朝勤務に適した体質を持っている。ツアーなどで海外に行くと、朝早く起きなければならないことなどがあるが、私の場合はモーニングコールなどいらない。逆に、夜遅くまで飲み食いすることの方が苦手といえる。若い頃は夜中の2時3時まで酒を飲んでも翌日起きれたが、今は夜遅くに飲むこと自体に苦痛を感じる。仕事量にしてもそうで、原稿の執筆などでも、昔は原稿用紙の10枚や20枚は1日で書き上げられたのだが、最近はとてもそんな芸当は出来ない。何故か5~6枚も書くと疲れて休憩を入れ、再びパソコンに向かうようにしないと続けて書くことが出来ない。書くスピード自体も遅くなってしまった。それでも今は昔と違って、パソコンを使うせいで文章や文字を書き直すのが楽になった。この点は本当に良い。昔はホワイトを使って一文字一文字、丁重に文字を消さないと、ホワイトが乾かないと、新たに書き直せなかったものだ。それが今やアッという間に書き、消し、直せるのだ。ましてや私のように漢字をきれいに書くのが苦手な者、文字が誰でも読みやすく書けない者、文章を書き換えることが多い者にとって、パソコン文章はとても良い。こうしてパソコンで書けるように、半強制的にさせてくれた原稿依頼者には心から感謝したい。

人間とは厄介なもので、仕事が暇なら暇で不安となり文句を言うくせに、忙しくなりすぎると憂鬱となり、仕事を放り出し、そこから逃げ出したくなってくる。仕事を依頼してくれるというのは、それだけでありがたく感謝しなければならないのは分かっているのだが、子供のように我がままとなり、いい加減となり、無責任となって、何とか仕事逃れをしようとする精神がどこかにある。本当に“どうしようもない奴”なのだ。私なら、絶対私のような“いい加減な奴”に仕事を頼まない。

それはともかく12月下旬~1月に掛けて“メール鑑定”を依頼していただいた方達には、総じて回答が遅れがち(大勢の方達)であったことを、この場を借りて心からお詫びしたい。