3月, 2010年

「風水講演」の忘れ物

2010-03-21

過日、久しぶりに「風水講演」(読売新聞社主催・積水ハウス共催)を行った。最初の予定では、私の講演は午前11時28分から開始される…という予定であった。主催者側は最初、午前9時には会場入りしてほしい…という要望だったが、午前11時28分という細かな時間枠を設定しながら何故そんなに早く行かなければいけないのか―私からの疑問提出で会場入りは10時半に変わった。よくTV出演などでもあるのだが、何時間も前からスタジオ入りさせたりする。ときには何度もリハーサルしたりもする。どうも、ああいう芝居がかった部分が好きになれない。それにTV局によってはきちんとした控室を用意していなかったりもする。別に立派な控室などいらないが、それなら何時間も前から呼びつけるべきではない。

今回の場合は、会場が一流のホテルということもあって、控室はもったいないほど広かった。普段は結婚式の親族控室らしい。私は講演用にいくつかの図面を用意しメール添付で提出していたが、実際の映像画面としては一切確認していなかった。元来、そういうことに対して神経質ではない。主催者側が何時間も前から来て欲しいというのは、一つには映像の配置・順番、壇上やマイク等のテストといったことに対しての配慮もあるらしい。私はいつも“出たとこ勝負”で、講演用の原稿も一切持たない。文字通り手ぶらで会場入りする。1時間なら1時間、30分なら30分、時間に合わせて話すだけだ。私は昔から占いの鑑定であっても、時間に対しては正確である。30分の鑑定は30分ぴったりで、1時間の鑑定なら1時間ぴったりで鑑定する。よくイベント等で「1人5分で鑑定できますか?」等と問われるが、別に5分でも私自身の方は何ら問題はない。例え鑑定依頼者が、その続きを要求しても「今日は無料鑑定で5分間と決められていますので…」と平然と客を突き放す。よく客に粘られて5分のはずが20分も鑑定しているような先生がいるが、私には信じられない。依頼を受けた占い原稿でもそうだが、私は要求された文字数ぴったりに書く。多くなったり、逆に少なくなったりすることは、まずない。文字数ぴったりに書く。まあロボット的と言おうか、コンピュータ的と言おうか、あまり人間味のある方ではない。

そういう私にとって、今回の風水講演は30分間と短い時間の二回講演だ。そういう風に身体に言い聞かせて会場入りしている。最初が午前11時28分、次が午後3時28分…そのはずであった。ところが実態は全く違った。まず、最初の講演者が予定をオーバーして話し続けている。“収納のプロ”と呼ばれる人の話らしいが、正直、私は会場入りするまで名前すら知らなかった。しかも、その方が話し始めてから会場入りしているので、顔合わせもしていない。すぐに控室に入っているので、関係者とは全く顔を合わせていないのだ。挨拶回りの好きな人もいるが、私は基本的に嫌いなので出歩かない。二番目の講演者は建築士らしいが、この方の話も予定時間をオーバーした。結局、私が実際に講演者として壇上に立ったのは11時53分であった。私は素早く計算する。…ということは12時23分までだな…。私は実際、その時間で話を終えた。午後の部も同じようなものであった。私は話の内容を大きく変えてみた。正直、どう話を持って行ったって30分で終わろうと思えば終われるんですよ、と前の二人の講演者達に教えたかったのだ。しかも“収納のプロ”と呼ばれている方は持ち時間が私よりも30分も長い。それなのに時間にきちんと話終わることが出来ない。確か関西方面の方だったようだが、講演で全国をくまなく飛び回っている…と聞いた。私のように滅多に風水講演の依頼が来ない占い師とは訳が違うはずだ。にも拘らず、予定にきちんと合わせられないのではプロではない。

後で聞いた話では、主催者側は私が「ドクターコパ」などで知られる一般的な風水を述べてくれることを期待した向きがあるらしい。私が“風水は占いの一分科に過ぎない”と述べたことがお気に召さなかったらしい。それならば波木星龍を呼ぶべきではない。もっと、そういう話をしてくれる人物がいくらでもいるはずだ。私は最初、持ち時間を知らされる前に主催者側から「どういうテーマ内容で話すのか提出して欲しい」との要請で“職業別による幸運な住宅”と“家族別による幸運な住宅”と“恋愛運・金運を招く風水の秘訣”の三つを語ることを伝えておいた。イベント会社からは「多分1時間」との話だったので、まあ三つくらいあった方が良いかな…という軽い気持ちから提出したテーマであった。最初から30分と知っていれば、最後のテーマだけでも十分であったのだ。それでも約束をした以上30分で三つ私は話した。

これを読売新聞社の関係者や積水ハウスの関係者が読んだなら二度と私にお声が掛らないかもしれないが“収納のプロ”に1時間も与えて、どんな話をさせたのか知らないが、一般の方達にとって“収納”の話が“風水”の話よりも二倍の魅力を持っているとは私には思われない。にも拘らず前の二人の話が長引いても、関係者の誰ひとり私の元に謝りにも来ない。まるで「メインはそっちなのだから遅れたとしても当然」のような雰囲気さえあった。この人達みんなプロなのか。プロ意識を持って仕事をしているのか。

占いイベントでもよくあることだが、何時までと決まっていても、次々とお客さんが続いて引き延ばしになることがある。それなら最初から、大体の時間配分をすればよい。今回のように11時28分等という微妙な時間を最初には指定しながら実際には11時53分になるのであれば、主催関係者を十数人も配置する必要がないではないか。午後の部でも改まらなかったということは、話し手も素人なら主催側も素人の集団だ…ということになる。もし関係者がこれを読んだなら、ぜひ私にコメントを寄せていただきたいものだ。

取り残され始めたアジアの中のJAPAN

2010-03-07

大阪市の生活保護者が“20人に1人”に増えたとニュースは伝えている。経済の底冷えが続く関西とは言え、あまりにも多すぎる。他の自治体から流出し辿り着く形で受給する人達もいるらしいが、とにかく改善が急務の問題だ。私の住む札幌市も生活保護家庭の比率は多い。なにしろ北海道は仕事が減っている。新卒者でさえも就職が容易ではない。当然、或る程度の年齢になってしまうと、もうそれだけで面接さえシャットアウトの状況だ。生活保護者が増えるのは当然とも言える。

民主党が政権を握り“弱者に優しい政策”を打ち出してはいるが“経済の活性化策”は未だ見えない。みんなに優しいのは良いが、みんながひもじいのは困る。しかも、その弱者たちを“食い物とするビジネス”さえ横行し始めている。金が余っている人達から吸い上げるならまだしも、金が乏しい人達を食い物とするのだけは許せない。ただ、そういう人達の方にも、全く問題がないのか…と言えばそうも言えない。近年、行政に縋れば良い、社会福祉の力で何とかしてくれる…という風潮が強まりつつあるような気がする。特に、仕事をしていない若年層に…だ。かつて、タイ、フィリピン、インドネシア、中国等でそういう風潮があった。現在の日本とは若干違って、頭から働く意欲に乏しく、麻薬患者のように虚ろな目をしている人たちだった。そういう当時のアジア人たちに比べると、現代の若者の多くは健全である。それに日本人の根本的性質から来るのかもしれないが、職に就いていない人達も総じて生活態度はまじめで規律正しい。けれども、じわじわと浸透し始めている或る種“虚無感”は、かつての日本人とは明らかに違っている。

例えば戦後の日本人が多く持っていたハングリーな部分はみじんもない。いや、むしろそういうものに対して拒絶的でさえある。確かに必ずしも“経済的な豊かさは幸福を与えてくれない”それは確かであり、高度成長期を過ぎ、バブル期を過ぎて、多くの日本人たちが体得した事実だ。けれども、だからと言って“何もかもに対して投げやりとなる”のは筋違いだ。国が悪いとか、政治が悪いとか、親が悪いとか、世の中が悪いとか…そういう発想からは何も生まれない。かつての後進国であったアジアの国々は、先進国となった“日本に見習い”舵を切り始めていった。路上にたむろするだけの人達は徐々に減って、英語とIT産業が普及することによって、近隣のアジア諸国は、明らかに日本に追いつき、今や日本を追い越そうとするまでに変わった。

逆に日本は、欧米の先進国諸国がそうであるように、飽食に疲れて、働き蜂に嫌悪し、精神的な豊かさこそが“幸福を与えてくれる唯一のモノ”と誤解し「美しい国ニッポン」とか「友愛の国」とか訳の解からないことを言い出し、教育でも、体育でも、所得でもずるずると後退し出して、先進国から徐々に引き摺り下ろされようとし始めている。

勝ち負けをつけるつもりは毛頭ないが、今や日本は、どの分野であろうと“先頭集団”ではなくなりつつある。そう、仕分け人達は「世界一になることがそんなに大切なんですか!」と叫んだ。その一方で子供達には、どこかの総理の母親のように何万円もお小遣い(子供手当)をプレゼントする。親の言うことを効かなくなってくる年齢の子供達にお金を与えたらどうなるか…あまり、こういうことは言いたくないが“お金の有り難味”が解からない、親の苦労の解からない青少年が育っていくだけだ。

これもあまり話したくないが、私は極貧の家庭で育った。正直、私は“貧しい家庭に生まれ育った”ことが悔しくてしょうがなかった。幼い頃、食べたいモノも食べられず、接ぎの当たった洋服ばかり着せられていた。金持ちの子が羨ましかった。自分が情けなかった。“本当の自分はこんな家の子ではないはずだ”根拠のない確信のようなものを抱いていた。今考えると、恐ろしくプライドの高い少年だったのだ。それでいて、欲しいか?…と問われても、決して欲しがったことはなかった。食べ物でも洋服でも玩具でも、ただの一度も欲しいといったことはなかった。それでも、一度だけ間がさし、金持ちの子の家に遊びに行った時“積み木”を盗んだことがある。どうしても欲しかったのだ。それで、帰り際に玩具を片付けながら3~4個の積み木をポケットの中にねじ込んだのだ。

ところが家に戻って、私は母親から問い詰められた。母親は私が盗んだことを知っていたのだ。そして大声で泣きながら私を叱った。「私は、そんな子に育てた覚えはない」とオイオイ泣きじゃくりながら、声を振り絞って叱り続けたのだ。私は盗んでしまったそのことよりも、大声で泣きじゃくりながら私を叱る母親の顔を見て驚き、そしてうろたえていた。あの時、私は二度と盗みなどせず、母親を悲しませない…と幼心に誓ったものだ。

私は昔フィリピンへ行った時、一人の若い女性の「自分の部屋」に案内された。その家は街外れの路地裏で、いくつもの家に取り巻かれるような位置に立っていた。そのせいで真昼間だというのに真っ暗なのだ。窓は一つだけ付いていたが隣家の壁に直面していた。真っ暗な部屋には一本の蛍光灯がぶら下がっていて、それだけがこの家の生命線のように見えた。狭い室内には何もなかった。本当に何もなかったのだ。冷蔵庫はあったが、コードが外れていたし、何も入れられていなかった。キティちゃんのぬいぐるみだけが場違いな感じに座っていた。「驚いたでしょう。私には何もないの」たどたどしい日本語で恥ずかしそうに彼女は言った。私はしばし黙った。昔の、幼い頃の“我が家”が脳裏を横切ったのだ。あの頃プライドの高い少年だった私は、決して友達を家に呼ぼうとはしなかった。貧しい家を見せたくなかったのだ。だから余計に彼女が自分の家を正直に見せてくれたことに感動した。私は無意識に彼女を抱きしめ、きっと君を救いだしてあげる…とセンチメンタルなことを誓った。

あれから、もうどのくらい経つだろう。先日何かの旅番組でフィリピンを見たが、大きく変貌していた。元々マニラは都会であったが、ますます発展している印象を受けた。多分、彼女も変わっていることだろう。国は変わり、人も変わり、時代も変わる。我々はどこから来たのか。そしてどこへ行くのか。