8月, 2010年

税金という“謎のお金”の不公平感

2010-08-17

日本の“お年寄り達”が次々と雲隠れし始めたのか。100歳以上の高齢者が“実際には行方不明”になっている例が次々明らかとなってきた。行政や自治体は一体何を行ってきていたのか。役所と言うところはおかしなところで、眼をつぶっても良いような事柄に対しては、重箱の隅を突くかのような周到さで“ちょっとしたミス”とか“勘違い”とか“あいまいさ”でも厳しく指摘し、書類を改めさせたり、税金を取り立てたりするのに、いったん自分達の手を離れてコンピュータ化したものに関しては“驚くほど寛容”である。というか“ずぼらすぎる”ようだ。それが表面化したのが今回の“高齢者の行方不明”“年金振込の継続”の実態ではないだろうか。もちろん、行政の手が忙しくてそこまで回らない…のかもしれないが、一方で僅かの年金さえ中々受給出来ずにいる人がいることを思うと、あまりに片手落ちだという感が拭い得ない。

“年金”とか“生活保護”とか“各種支援金”とか“子供手当”とかは、元々我々の税収に頼ったものだ。厳密にいえば、年金の場合は税収と言えないかもしれないが、我々の実感としては同じことだ。健康保険料なども実感的には税金で、自営業者である私などは年間70万ほども収めている。健康・介護保険料のみでどうしてそんなに持っていかれるのか解からないが、これに所得税、道市民税、消費税、固定資産税…等総額になると年間200万以上のお金が出ていくようだ。正直、きちんと計算すると虚しくなるのでしたことはないが…。個人経営の零細業者である私にこの税負担は極めて重い。もっとたくさん儲かっている企業が山ほどあるではないか。何も、こんな細々と“占い稼業”を継続している市民からむしり取らなくても良さそうなものではないか。鬼!悪魔!…等とへんてこりんな役所からの用紙が送られてくるたび、私は心の中で毒づくのだった。

昔、私は会社勤めをしていたので、その時には自動的に種々な税金等が引かれた金額で振り込まれていた。したがって、あまり税金というものの重みを感じていなかった。少なくとも企業における税金の引かれ方は一律で、その意味では不公平感はない。ところが自営に変わると“自主的に納税”しなければならない。嫌でも「税金」というものと向き合わなければならないのだ。しかも前年度の所得に応じた税金額となる。そこで私のような業種の場合、毎年、収入にはかなりばらつきがあって、例えば前年度の半分以下に落ち込んでしまうようなこともないではない。それなのに、その少なくなっている状態の収入から前年度の税金を支払わなければならない。当たり前といえば当たり前なのだが、これが堪える。新聞報道によると国民年金の支払い率が年々下がっているようで、或る意味、当然のような気もする。若い人達の方が、今の高齢者の年金を支える構図を何とかしていかないと、不公平感が募って支払わなくなる人が増えてしまうのは仕方がない。ましてや今回のように“行方不明”で事実上存在していない高齢者に年金が振り込まれ続けていたりすると、ちょっとした犯罪の匂いさえもしてしまうものだ。私が推理作家なら、これを題材として作品を書けそうな気さえする。

“お金”というものは“魔物”で、人の性格も変えるし、運命も変える。いつも思うのだが、私は“大金持ち”にはなりたくない。大金持ちというのは何かと恨みややっかみを買いやすいもので、子孫を争わせることも多い。大金持ちの人で“穏やかな幸せ”を享受している人は意外なほど少ないものだ。マイケル・ジャクソンなど一時的に途方もない財産の持ち主となったが、あっと言う間に借金が増え、その支払いのために命を縮めたようなものである。本人が亡くなって、再び大金持ちに返り咲いたが、あの世に持っていくことは出来なかった。大金持ちというのは往々にして安泰ではない。

幸福・安全に暮らすためには“そこそこの金持ち”或いは“小金持ち”が良い。周りの人にさりげなく奢ってあげたり、プレゼントをしたり、ちょっとだけ寄付できるような程度の金持ちが良い。自分自身で欲しいものが出てきたとき、財布の中身を心配しないですぐ買えるような“その程度の金持ち”が良い。働けなくなった時でも、病気になった時でも、とりあえず今すぐ“お金の心配はしなくて済む”ような、その程度の金持ちが良い。そう思って過ごしているのだが、残念ながら、まだ家のローンも残っている私は、病気になった時でも悠々自適でいられるほどの金持ちになっていない。そして、当分、そこに至るまでの余裕は生まれてこないに違いない。

占いを教えていく中で…

2010-08-06

私が占いをマンツーマンの形式で教え始めてから早くも30年以上が経った。最初に占いを教え始めた頃、私はまだ普通に会社勤めをしていて、占い稼業はサイドビジネスであった。昼間はちゃんと会社員として働き、夜間と土・日のみ「占い師」に変身する。実際には「占い師」という仕事と“占い教室の講師”と、ほぼ同時に開始したと言って良い。20代で、どちらかと言えば童顔だった私は、占い師らしい重みも深みもなく“似つかわしい姿”とは言えなかったかもしれない。今のように若い人でも年齢に関係なく「占い師」として世間が認めてくれるような時代ではなかった。

その年、私は母を亡くした。母親を亡くすと同時に、何故か私は“占い師として生きなければならない”と思った。まるで亡くなった母親に背中を押されるような形で、住居を移動し、看板を作り、広告を出して、夜間だけの占い師稼業を始めたのである。母親が亡くなるまで、私はカップラーメン一つ作ったことがなかった。台所仕事は男がするものではない―母親は私に家事一切をさせなかった。その結果、私はカップラーメン一つ作ることが出来ず、生まれて初めての自炊生活は悲惨の一言に尽きた。そういう中で開始した「占い師」と「占い講師」とはどちらもよちよち歩きだったが、どちらかと言えば「占い講師」の方がまださまになっていた。自分よりも20歳も年上の女性に占いを教え「先生」と呼ばれることに違和感はなかった。違和感と言えば「占い師」としてのお客さんに母親と同姓同名の人がいた。開業してまだ2週間くらいの時に来客してくれた方だった。そしてその後7~8年間、週に1度はやって来ていろいろ相談していくようになった。常連客中の常連客だった。よく「先生はこんな所に留まっているような方ではないわ」と皆に言った。母親とは全く似ていなかったが、同姓同名であるだけに、母親から励まされているような不思議な高揚感があった。「札幌に出ると良いのに…」ともよく言われた。どちらが占い師なのか解からなかった。

占い師としてお客さんに向かう場合も、占い講師として生徒さんに向かう場合も“縁”というものを私は大切にする。昔、まだ“占いハウス”に出て間もない頃、見て貰いに来た客の一人が「今日は谷口先生じゃなかったんだ。私は谷口先生に見て欲しかったのに…でも、せっかくだから見て貰うか」と言われたので、後日そのまま谷口先生に伝えたところ、先生は平然としてこう言った。「波木先生、それは違うのよ。こういうものは縁なの。先生の時間に来たということは先生の方に縁のある人なの。私ではないの。だから、そういうことは気にしないで堂々と見てあげれば良いの」私は何と達観された物言いをされる占い師だろう…と頭が下がった。それ以来、私は自分が見ることになった方達は、すべて自分に縁のある方達なのだ…と思うようになった。そして、不在の時に電話してくるとか、訪ねてくる方は、基本的にその時点では縁の繋がっていない方なのだ…と思うようになった。そう思うと気が楽になり、好きな時に旅行も出来るようになった。

そういう意味もあって、私は占いの講習期間も、実質的には明確に定めていない。一応20回くらいを目安にはするが、あくまでも目安だ。私のところに通い続けてプロ占い師になられた方、セミプロとして活躍されている方、趣味として研究を続けておられる方など様々だが、やはりプロとして活躍してくれると一番嬉しい。中には私を通り越して成功されているような方もいるが、もちろん、それはそれで嬉しい。私を踏み台に出来るなら、どんどんすれば良い。自分の教えた人達が、日本のあちこちで“波木流の占い”を展開し、それによって一人でも多くの人の悩みが解決し救われた気分になってくれるなら、これに過ぎる歓びはない。ただ、私に学びながら今は“波木先生なんて知らない”といった感じで活躍されている方もいて、それだけは妙にさみしい気分になる。べつにそれでも良いのだが、まるで過去を消そうとするかのような態度や言動を見ると暗然たる思いを抱かされる。

私の占いは総じて、その理論にしても、技術にしても、オーソドックスな広く知られているものとは異なっている部分が少なくない。もちろん、大抵はオーソドックスなものをベースに教えながら波木流を加えていくケースが多いのだが、他のところで習ってきているような場合には違和感を抱かれる方もいるようだ。もちろん、違和感を抱かれるような方は本質的に“波木流の占い”が身に付かない方なので、継続されることはまずない。私も引き留めない。教えるのも“縁”の部分が大きいと思うからだ。波木流を支持してくださる方はプロとなって活躍されるようになっても私のところで学び続けてくれる。或いは時々“占い師”としての波木星龍に鑑定してもらいに訪れる。もうプロなのだから、自分で見て判断すれば好さそうなものなのだが「大事な時には先生に見てもらわないと…」と言ってやって来る場合も多い。

私が多くの支持者から催促されているのは“波木流の占いの教科書”だ。私が教えてきた方は全国に散らばっているだけに、本としてまとめて出す形が一番良いことは誰よりも私自身が感じている。それに私としても“波木流占術”を、もう少し体系だった形で遺しておきたい気持ちは強い。ただ中々出版社の後押しが無いと難しい事柄でもある。私の命の炎が燃えている内に、何とか形にしていきたいものだ。