9月, 2010年

“お笑い系”に席巻されていく日本

2010-09-23

最近のTV番組は、どの局のどういう番組であっても、必ずと言って良いほど“お笑い系”タレントが1人か2人は混じっている。TVだけではない。新聞・雑誌の広告、街中のポスター、映画、新刊書籍、舞台、歌手コンサート、飲食店の経営、街の親善大使…数え上げればきりがないくらいだ。

一時期、何に対しても“アイドル歌手”が顔を出していた時期があったが、今やそのアイドル達でさえも“お笑い系”と交際したり結婚したりもする。それだけ“お笑い系”の社会的地位、或いは立場というものが引き上げられた、ということかもしれない。確かに頭脳優秀なタレントも多くなってきた。

ただ、世の中全体が“面白ければ良い”という風潮が強まって“お笑い系”が席巻するのはこれが初めてではない。実は過去の経験則から言えば“お笑い系”番組が増える時と言うのは“不景気の時”に限られているらしい。まさにデータは生きているのだ。その手の番組が、ここ1~2年で急速に多くなったと思うのは私だけではないだろう。ちなみに女性のスカート丈と景気の良悪も関係があって、これはスカート丈が短いほど景気は良いらしい。確かに“バブル期”は超ミニが流行った。近年は女性のスカート丈も様々であまり統一性が無い。極端に短い女性もいれば、極端に長い女性もいる。考えてみると社会全体の景気は低下気味でも、首都圏の高級マンション販売は急回復らしいから、経済の二極化が進んでいることの証かもしれない。もっとも、首都圏の高級マンション購入者には中国など外国人の投資目的による購入も多くなって来ているらしい。一時期から比べると価格が下がり、投資に良い条件がそろったと踏んでいるようだ。したがって、必ずしもマンション販売の好調さが日本経済の二極化を証明しているとは言えないかもしれないが、経済格差が広がってきていることだけは間違いがない。この夏、熱中症による死亡者が多かったのは、お年寄りでエアコンを使わないとか、取り付けていない家庭が多かったらしい。日本全体が高温化してきているのに、冷房なしで過ごすことは事実上難しい。ところが古い家屋だとエアコンの取り付け工事自体が難しいケースもある。また公営住宅の場合、勝手に取り付けられないケースもある。人間歳をとれば誰でも外出がおっくうになるもので、熱気のこもった部屋で長時間いれば誰でも体力が低下してくる。若い時からそういう気候に慣れていれば耐えられるが、日本の気候は今ほど高温ではなかった。お年寄り達にとって、異なった国や地域で暮らし始めたような違和感のある夏なのだ。息を潜めたように暮らす人々にとって、TVは安らぎを与えなければいけない。或る意味で、孤独なお年寄り達にとってTVの果たす役割は重要なのだ。そういうお年寄り達にとって“お笑い系” の番組も“一つの安らぎ”であるはずだ。少なくとも昔はそうだったはずだ。ところが、最近のお笑いはテンポが速く、単純で次々と芸人が入れ替わっていく。数ヶ月前に流行っていた“笑い”が、気が付けばいつの間にか消えている。矢継ぎ早に“若手”が出て来て憶えきれない。それに、そういう番組ばかりだと飽きて来る。当然の結論だ。やがてお年寄り達はゴールデンタイムなのにあまりTVを見なくなるだろう。

それにしても、昨今は“お笑い系”が出て来る同じようなトーク番組や、ワイドショーや、コント番組や、クイズ形式や、ランキング形式や、グルメ紹介…など多すぎないか。毎日、似たような番組ばかり見せられ、その話“どこかで聴いた”という“ネタの使いまわし”に嫌でも視聴者は気付きつつある。どの番組のタレントも“お笑い系”ばかりで少しも新鮮味がない。元々話すことを仕事にしているので話術にそつがなく、使いやすい…という局側の思惑も分からないではないが“笑わせること”だけが社会を生き抜いていくのに重要な手段でもあるかのような錯覚をわれわれだけでなく、未来を担う子供達にまで与えているようで怖い気が私にはするのだ。

近年、日本はあらゆる部門で“アジア№1”の地位から引き摺り下ろされつつある。経済や技術だけでなく、あらゆる部門でその地位が脅かされている。未来を担う子供達が “笑っていられる時代”なのかがいま問われつつある。不確実な暗い世相の中で、確かに心から“笑って過ごす”ことは大切で「笑う門には福来る」というのも真実だ。ただ毎日同じようなメンバーのくだらない“お笑い”画面を見せつけられるといささか食傷気味となる。しかも、お笑い系だけならともかく、そうでない俳優とかアナウンサーとかまで笑いを取ろうと必死になっている。多分、小中学校でも“笑いの取れる子”は人気が高いに違いない。そして教師の方も、子供達の“気を引く”ために笑いを授業に取り入れようとする。何もかにもが“お笑い”主導となっていきそうな雲行きなのだ。そういう国で、果たして良いのか。世界とのやり取りは“お笑い”だけでは通じない。作られた笑いは、いつかひきつり、笑えなくなる…。

「日本」と「JAPAN」の微妙なバランス

2010-09-08

街を歩くと、さまざまな場所でアジア系の外国人旅行者を目撃する。以前は団体客が多かったが、最近は個人でやって来る若者も多い。日本への留学生も近年は急増しているらしく、日本語以外の会話が聞こえてくることも珍しくない。昔の日本は、言語の壁が課題と言われたが、MANGA世代の若者たちは吸収が早く、短期間の内に日本語を話せるようになる。こうして日本には徐々に“日本語を話せる”外国人達が膨張し始めている。いや、言葉だけではなく、日本の文化、歴史、漢字、地理、ことわざに至るまで、あらゆることに対して精通している外国人が増えつつある。

それに対して、純粋な日本人なのに、若い世代に蔓延しつつある “日本語を知らない日本人達”は増えていく一方だ。彼らの日本語は、極端に語彙が少なく、日常会話以外はほとんど通じない。漢字が書けないのは私自身もそうだから仕方がないが、社会常識的な知識と理解力が極端に薄れてきている。本来の日本人が備えていたはずの細やかな情緒とか情感とか風情とか“阿吽の呼吸”とかも急速に失われつつあるような気がする。

かつて日本人は“明確な意思表示をしない”ということが国際人として問題視されたが、今や誰もそれを問う人はいない。“阿吽の呼吸”では何事も通用しない日本に変わったからだ。“向こう三軒両隣”等という近所付き合いも過去の話で、都会では隣にどんな人が暮らしているかさえ定かではない。或る意味で日本の暮らしは欧米風に変わったのかもしれない。いや、今やヨーロッパよりも日本の方が“西洋的”な暮らし方なのかもしれない。アジアに旅行するたび、今の日本にはない“土着的な暮らし方”を感じることがあるが、日本は四季がハッキリしているせいもあって、嫌でも秩序正しい暮らし方になる。朝→昼→夜の明らかな違い、夏→秋→冬→春の気温や季節的風景の違いは、われわれに嫌でも“その循環の中”で秩序正しく暮らしていくことを促してくれる。年中暑くて四季がハッキリしないアジアの国々や、昼でも夜でも年中冷房が必要な地域とは明らかに違った生活となる。そういう意味では日本人の“秩序正しさ”が失われることは当分なさそうだ。

日本というのは島国なので、海外から入って来るのも、海外に向かっていくのも、或る種の“覚悟”が必要で、車でそのまま国境を通り過ぎていくユーロ圏などとは根本的に異なる。そういう日本に海外からの留学生が増えてきたことは注目に値する。しかも、その半数は中国からの留学生たちだ。言葉の壁が無いなら、多分もっと増えていくのに違いない。今や経済大国となった中国は、日本の知識や技術やを徐々に飲み込み、各企業をM&Aで吸収し、漠然とではあっても将来的に“植民地化”したい願望を抱いているのかもしれない。“共存共栄” は良いが、植民地化は困る。

われわれより上の世代―戦争を経験している世代―は、中国や韓国などのアジア諸国を“占領時と同様な眼”で未だに捉えている節がある。したがって欧米人と、アジア人とを同列には置かない。種々な体験がそれを許さないのだ。或る種、欧米に対してコンプレックスを抱いている人達も多い。私には「ユニクロ」や「楽天」が“社内の公用語を英語に変える”というのは、そういうコンプレックスの裏返しではないか…という気がしてならない。「日産」のようなグローバル企業なら、英語を公用語とするのも止もう得ない。けれどもユニクロも楽天もそういう企業ではない。いや、そういう企業を目指してのことなのかもしれないが、日本人従業員が圧倒的に多いのに、日本語を使えない日本企業ってどうなんだろう…と思ってしまう。私は正直そういう企業が世界に進出して成功していけるとは思わない。今は“成功しかけたように見える”かもしれないが、必ずしっぺ返しを食らうときが出てくるはずだ。日本人なら日本語を使って“世界で勝負”すれば良い。むしろ、外国人であっても、日本語も片言は話せるように学ばせれば良い。それでこそ“世界に進出した基本企業”ではないか。日本人に負荷を掛けてどうするのか。それで従業員は喜ぶのだろうか。何故、外国人優先に仕事のことを考えなければならないのか。大和魂のない企業が、将来の日本で本当に輝けるとは私には思えない。