若い人達、特に男性の間に“結婚を望まない人達”及び“恋愛SEXを望まない人達”が増えて来ている実態を知って驚いた。時代の変化といってしまえばそれまでだが、驚くべき変化である。まだ女性達の方は男性達ほど、そういう比率は高くない。
若い男性達の中に“結婚を望まない人達”が増えて来た理由に関しては何となく解からないでもない。一番の理由は“女性と一緒に暮らさなくても不自由がない” からだ。昔は男性は“仕事”、女性は“家事”と分担が分かれていた。古来、日本では「男子厨房に入るべからず」と云って“炊事するのは女性の仕事”と決まっていたものだ。私なども母親から台所へ入ることを拒否されていて、そのせいで母親が急死した時、何一つ出来なくて本当に困ったものだ。また洗濯も掃除も女性の仕事だった。そういう点でも、私は子供時代から何一つしたことがなかった。母親は元々が大名の家系の血を引いていて、昭和の時代でもそういう意識が残っていたのだろう。私には何一つさせなかった。その結果、私は何も出来ない大人となってしまった。したがって、母親の急死は精神的な悲しみよりも実生活上の不安の方が大きかったものだ。それでも人間、追い込まれれば何とかやっていくもので、二十代半ばにして初めて調理を覚え、掃除をし、洗濯を行った。一応、電化製品のある時代だから良かったが、それがなければ何一つ出来ずに茫然としたことだろう。
今の若者は、幼い頃から男女の区別が少ない環境にあり、便利な電化製品に囲まれて育ってもいるので、実質的に女性のいない生活に不便を感じることが少ない。この“独り暮らしに不自由さを感じない”ことが、結婚を望まないことと微妙に繋がっているよう感じられる。女性にしても、それは同様なのだが“精神的な寂しさ”を感じやすい女性は、そういう面で異性を求め「結婚」を望む意識が、男性ほどには減らないのだ―と私には思える。もうひとつは経済的な理由があって、やはり男女間では男性の方が若干有利な傾向が残っている。そういう意味で経済的な不安が女性の「結婚」願望を微かに繋ぎとめている。逆に男性の方は、その部分で昔ほど経済的な余裕がない。早い話が自分の生活で精いっぱいで配偶者の分まで稼ぎ出せない―という実質的な理由も加わって、結婚を望まない男性が増えているのかもしれない。
「少子化」が叫ばれて久しいが、その前にある「独身化(主義)」の方を何とかしていかないと、結婚しないまま生涯を過ごしていく男女が増えていく傾向に歯止めがかからない。もうひとつの“恋愛SEXを望まない人達”というのはもっと深刻で、要するに恋人としての男女関係に置いて、或いは夫婦としての男女関係に置いて“SEXを行う”という本来のあり方に否定的な人達が増えて来ている―ということだ。つまり、性処理は別次元のこととして捉え、風俗で処理をするとか、出会い系で処理をするとか、オナニーで処理をするとかいう人達が、急増しているようなのだ。最近ではこれに加えて、同性愛で処理をするケースも増えて来ているようだ。どうして“本来の相手”とのSEXを望まなくなったのか、種々な理由があるようで一概には決めつけられない。昔は“多少のことは我慢する”ことで個々のSEX欲求を抑えていたのが、今は我慢せず“別箇な形”で満たしていく方法へ転換しつつあるのかもしれない。もちろん、これらも婚姻率の低下に拍車を掛けている大きな要因であることは間違いがない。
又、周り全体が昔ほど「結婚」というものに対して価値を認めず、独身であっても咎められることが無くなって来ていることも、婚姻率の低下を助長している。私が二十代だった頃は“独身であるのは社会的に一人前ではない”とみなす傾向があった。したがって“早く結婚しなければ…”という意識が嫌でも育まれてしまった。時としては結婚していないだけで“同性愛”を疑われたりもした。社会的にも、結婚していなければ“出世が遠のく”傾向さえ窺がわれた。要するに、独身はあらゆる意味で“肩身が狭かった”のだ。けれども、今は独身であることが白眼視されることなく自然なこととして受け止められるので、余計、慌てて結婚しようという気にならないのかもしれない。
そうは言っても“愛する人と一緒に暮らす形態”としての「結婚」を、望まないというのは“本音”なのだろうか…と疑う部分もある。何故なら、やはり今でも「占い」の需要で一番多いのは“結婚に絡んだ事柄”であり、占いのコンテンツから「恋愛・結婚」を取り除いたなら占いメニューが成り立たないことはデータが実証している。近年は「仕事」に関する相談も多くなったが、やはり何と言っても若い世代の一番の関心事は「恋愛・結婚」である。昔と違うのは、俗にいう“復活愛”に関しての相談が多くなったことで、次々相手を見極めていくというよりも、いったん自分の方から別れても、独りに戻って相手の良さを再び見直し執着したがる人が多くなった。時代が進んで、本来なら“出逢いの機会”も多くなったはずなのに、その実態はむしろ逆で自然な形で異性と巡り会うチャンスは薄れて、相手選びは妙に慎重である。身近な相手との「出来ちゃった結婚」は多くなったが、そうでない恋愛は中々結婚へと進まない。衝動的に別れて、また戻ってを繰り返すようなカップルも多い。溢れ過ぎた情報が、かえって「結婚」を臆病にさせ、面倒にさせ、複雑なものにさせてしまっている。もっとシンプルに“愛する者同士が一緒に暮らす”という「同棲」で行われているスタイルが、原初からの「本来の結婚」の姿であったことに気付いて欲しい。
私は“世間の評価”というものをあまり信用していないし、あまり気にしていない。だから、私自身に対して世間がどのような評価・評判や、どのような噂・中傷や、どのような“見方・捉え方”をしようと一向に構わない。それ自体は構わないのだが、嘘をつかれたり、根も葉もないことを書かれたり、実際とは異なる部分で評価を受けるのはいささか心外ではある。
私は小学生、中学生の子供の頃から人気がなかった。人一倍大人しく、口数が少なかったし、顔貌も特に良いわけではなく、くそ真面目で性格的にも面白みがなかったので、人気が出ないのは当然だった。頭は多少良かったが、それとて抜群に良かったというのではなく、まあクラスで2,3番といった程度の良さに過ぎなかった。
社会人となって働くようになっても、その傾向は変わらなかった。特に十代後半から二十代にかけては性格的な暗さのようなものも加わって余計に存在感が乏しかった。それでも会社の中で社内報を発行するようになった時、その編集長となって手腕を発揮し、若いが仕事は出来る―という評価は受けるようになった。けれども、人気は相変わらず全くなかったし、尊敬はされても愛されない―という十代からの傾向を引き摺っていた。
占いの仕事をするようになっても、基本的な部分は変わらなかった。口数や愛嬌こそ多少は客商売となって出てきたが、性格の根底に変化はなく、営業的要素はゼロにひとしかった。人気商売ではあっても相変わらず人気は出なかった。そういう中でも、この仕事を続けて来れたのは何と言っても“占い”が好きだったからだ。客を相手に占うこと自体が好きだったし、占いを教えることも好きだったし、占いの仕組みを研究することも好きだったし、占いについて種々書くことも好きだった。だから収入としてぎりぎりだった時代も乗り越えられたのだと思う。
今現在でも、私には自分の社会的な評価が、客観的に見てどのようなものなのか、正直よく分からない。分かっているのは、多分“得体のしれない占い師”のような評価が全体的にはもっとも多く、そしてもっとも的を得ているような気がする。自分自身、この業界にとって特別必要とされた記憶はないし、だからと言って存在感がないのかと言えばそうでもなく、占い理論上の評価も、実占上の評価も、人によって大きく分かれるのではないか―という気がしてならない。
たまたま或るところで“波木星龍”への批判を眼にした。先にも述べたように、どう評価されようとそれ自体は構わないのだが、お門違いの批判はあまり気持ちの良いものではない。そこには「自己流のくせに、いちいち波木流と名のっているのが鼻に着く」とあった。ナルホドと思った。このような書き込みは多少は占いに関して知識があるから記すのだろう。では、この方は“細木数子の六星占術”や“島田秀平の手相術”に対しても、同じような感想を抱くのであろうか。私が思うに、多分、違うと思う。彼らのように名が通っていれば、TV等で活躍していれば自己流ではあっても「自己流」という表現はしないに違いない。中途半端な存在だから「自己流」と表現されるのだ。実は、私自身は最初「波木流」等という言い方は好まなかったし、そういう言い方はしていなかった。ところが雑誌社やコンテンツ会社や占いソフト会社が「波木流」という表現を用いたので、いつの間にか私も面倒になって「波木流」と記すように変えてしまったのだ。その方が分かりやすいなら、それで良いと思ったからなのである。
そういう事情であるから、もしも「自己流」に改めろ、というのならいつでもそういう風に変えて構わない。「波木流」の名称になど何の未練もない。私は自分の研究成果としての占いが、オーソドックスな占いと異なる部分が大きいので、それと区別する意味で表現しているだけの話であって、それを自己流と言われるなら、確かに自己流以外の何物でもない。ただ「自己流だから信用出来ない」という考え方があるのだとすれば、古今東西で名を成した占い師はことごとく「自己流」の部分を持ち、それだからそこ“その流派”なり“その一門”なりを築いていった―という事実をどう受け止めているのか、ぜひお訊きしたいものである。
大体、占いにおいて「オーソドックスである」ということは何の進歩も発展もないということで、何千年も前の理論や方法や技量にしがみ付き、そこから前へ一歩も進み出ようとしていないことの表れでしかない。日進月歩の現代において、そういう“不研究な態度”が許される―と考えること自体が私には理解できない。もっとも、このように記したからと言って、名称だけを取り換えたり、流行の何かに便乗したり、理論上全く成り立たないものを創見することを求めているのではない。あくまで占術としての基礎的な知識や理論や技術を把握したうえで、より合理的であったり、より真実に近いものを探っていく過程で“見い出された見方・理論・捉え方”であることが大前提ではある。ここを履き違えると、それこそ何の役にも立たない“身勝手な見方”“実用化出来ない理論”となって、自己流にすること自体が無意味となる。あくまでも、今後の真摯な研究者の為、或いは後世の占いに真実を求める人達の為、構築された理論や技術でなければならない。
少なくとも、私の研究や理論や技術はそういう意図のもとに行われてきたものなのであって、私個人が認められようと、認められまいと、そんなことはどうでも良いのである。一人でも良いから、私が本当に成し遂げたかったことを理解する人が表れて、中途半端でしかない現在までの私の研究を後世へと引き継いでもらいたいものだ。