人間の「運命」と云うものを考える時、俗に「時代」と呼ばれる社会の潮流ほど、個々の人達の運命を左右するものはない。「時代」が人の運命を寵児として迎え入れることもあれば、逆に苦悶の十字架を背負わせることもある。
ここ数年、俗に「オネエ・タレント」とも呼ばれる“ニューハーフ”“女装者”“ゲイ”の男性達が花盛りで、TVで見かけないことはない。一応、説明しておくと、男性に生まれながら完璧なる性転換を目指しているのがニューハーフで、同性愛が高じ女装しているのが女装者、そして見掛け上は普通の男性と変わらないのに同性愛なのがゲイと分類させていただく。もっとも、実際にはこれらの中関形がいるし、女装趣味だけの人もいるし、先天的な病気=性同一障害からの性転換者もいる。さらには“両刀使い=バイセクシュアル”と呼ばれる人達もいる。これら全てを「大枠としてのゲイ」とくくるなら、TVタレントだけでなく実社会においても、かなりの割合でそれらの人達が増えつつあるような気がする。しかも、それは世界的な傾向でさえある。
どちらかと云うと、女性の同性愛者よりも、男性の同性愛者の方が多いが、一つには男性の方が見た目に判り易いからで、女性でも潜在的なゲイの人物は決して少ないわけではない。また、女性の場合はバイセクシュアルの中関形が多く、既婚者となっているケースも多い。男性と違って女性の場合、男装をしても、余程極端ではない限り、周囲から奇異な目で見られることはない。現代のように、男女とも似たような服装をする時代においては、女性の男装者はその点では気楽だとも言える。それに異性装飾と同性愛とは必ずしもイコールではない。
とにかく女性で同性愛者であっても、それだけで人気は出ないが、男性でニューハーフや女装者の中には、その容貌や個性から人気者となっていく人達が多い。昔はニューハーフ・タレントと云えばカルーセル麻紀が挙げられたが、現代では国民的な認知度として、はるな愛がその筆頭だろう。佐藤かよや椿姫彩菜がそれに続く。IKKOはニューハーフと女装者の中関形に近く、女装者ではマツコ・デラックスとミッツマン・グローブと云う双璧がいる。IKKOは3~4年前は細身の体系であったが、ここにきて体形が崩れて場末のゲイバー・ママのように変わってしまった。太ったという点ではマツコ・デラックスも同様で、元々がお相撲さん体型であったが最近は忙し過ぎてストレスが溜まっているのか巨像化し、ゆったりとしたワンピース型衣裳の方が自然ではある。ミッツマン・グローブは長身で肩幅を広いから日本では女装姿が目立つが欧米なら女性に紛れて通りそうな容姿ではある。IKKOにしろ、マツコにしろ、ミッツにしろ、本職とも言える別稼業を持っていて、その部分で社会的評価を受けているという強みがある。或る種、文化人としての「女装者」たちなのだ。女装しないゲイとしては楽しんごやクリス松村が人気を集めているが、昔からダンサー・ミュージシャン・デザイナー・舞台役者等の分野にはゲイ・同性愛者が多い。ただ女装していない場合は、同性愛であるということを隠しているケースが多かった。それが知られると世間から白眼視されたり、イジメや制裁を受けることが分かっていたからだ。世の中が女装者や同性愛者を受け入れる時代に変化しつつあるのは良いことだ。ただ日本における女装者の人気はあくまでもタレントとしての人気で、果たして本当に女装や同性愛を容認する社会への変貌かどうかという点では大いに疑問がある。何となくTVは今のところ誰かオネエ・タレントを出しておけば、そこそこ視聴率が取れるから出しておこう…という安易な理由のみで制作しているようにしか思えないのだ。
確かに、世界的な気運としてゲイ・同性愛者を受け入れる社会を認める方向に動きつつあるのは確かだ。その流れの中で、日本でもオネエ・タレントが活躍するのは悪いことではない。ただ例えば女装をしていないオネエ・タレントが「オンナ言葉」を使って話すのは本来の“同性愛を容認する社会”としてはいささか違和感を覚える。もし、本当に同性愛を認めるのであれば、普通に「オトコ言葉」で話すほうが自然ではないだろうか。女装している者がオネエ言葉を使うのは自然と言えるが、女装していない者がオネエ言葉や身体をくねらせるのは奇異であって、同性愛とも異性愛とも言えない奇妙な印象しか覚えないのは私だけなのであろうか。
私は異性愛もあれば、同性愛もあって不思議だとは思わないが、そうであればもっと自然な形で、性同一障害や女装とは根本的に別な形で捉えなければいけないのであって、ゲイ・同性愛の方達自体にも、その辺に妙な誤解と云うか、偏見のようなものが潜んでいるような気がしてならないのだ。またTV局自体もオネエ言葉を使えば出してあげるかのような誤った起用の仕方は改めてなければならないだろう。極端な話、女装者以外はオネエ言葉を禁止するくらいの措置があってしかるべきで、自然な形で社会が同性愛を容認していくよう誘導するものマスコミの責任なのではないだろうか。
そして、日本の社会では実質的に性同一障害の方達が働く場所が限られている事実こそ改善していかなければならない問題で、女装者→夜の仕事と云う決めつけにも大いなる問題がある。私のお客さんで役所勤めをされながら性転換し、その同じ役所に現在も勤め続けている方がいる。男性だった時の写真を見せて貰ったが全く別人で、よく役所もその方の性転換を容認したものだと感心してしまう。ただ考えようによっては役所だったから受け入れてくれたので、民間の企業では受け入れるかどうか疑問もある。もちろん仕事内容にもよるが、日本でも当たり前の現象として徐々に男性から女性へ、或いは女性から男性へ変貌していく姿を違和感なく受け入れられる社会に変貌していくことが出来るだろうか。
人間には誰しも、持って生まれた「移動運」のようなものがある。それが住居の移動と云う形で表れるか、職場の移動と云う形で表れるか、旅行による移動と云う形で表れるか、職務上の営業・出張・派遣のような形で表れるか一概には言えないが、それら全てを含めて先天的に“動きやすい人”と“動きにくい人”とがいる…ことは間違いがない。そして“動きやすい人”は生涯にわたって動き続けるような傾向があり“動きにくい人”は本当に動くことが稀なままで生涯を終えていくような気がする。
もちろん、同じ「動く」でも“住居”と“職場”と“旅行”とでは意味合いが大いに異なり、意図的に自ら動く場合と、指示を受けて動くとか強いられて動く場合でも意味が異なって来る。或る意味では住居にしろ職場にしろ強いられて動かざるを得ない方が、より“運命的な移動運”と言えるかもしれない。
奇妙なことに、先天的な移動運を持っている人は住居か職場のどちらかが動き続けるもので、時には両方とも動き続けることもある。また、住居も職場も動かない場合は、職務上の営業とか出張とか派遣という形で移動しているのが常で、それもない場合はプライベートの旅行と云う形で本能的に動こうとする。もちろん、途中から移動運そのものが無くなって落ち着いてしまうケースも稀にはあるが、そういうのは本当に稀であって病気でない限り移動運は生涯継続し続けていくのが普通のようだ。
私が移動運に注目するのは、それが自らの意思で動いた場合でも、そうではなく強制的に動かされる形で動いた場合でも「吉凶、動より生ず」と云う運命学的な諺が示すように、動いたことによって人生が、或いは運命が大きく異なった方向へと舵を切られていくケースが多いことである。時には予期せぬ人やモノとの“出逢い”が生れて、それによって180度人生が転換していくケースさえもある。多分、そこに、その時期に行かなかったなら、そういうことにはならなかったであろう…と思われる事例も多い。今日の一般的な方位学的吉凶には疑問とする部分も多いのだが、動いたことで結果的に変化し始める部分が出て来ることだけは誰もが暗黙に認めることだろう。同じ人間でありながら、動くことで、環境が変わり、意識も変わり、新たなる素質や運命が引き出されて来ることだけは間違いがない。
逆に移動運の乏しい人は、生涯にわたって出生地域を離れないような人もいる。たまに旅行をするようなことはあっても、長期間の旅行とか長距離間の移動とかは本当に稀であって、その生涯のほとんどを出生地域から遠くない範囲内だけで済まそうとする。そういう人は奇妙なことに仕事・職場の変化も乏しく部署・職務も滅多に変らず、一生涯に1~2度くらいしか転職もしていないのが普通だ。実は多くの人は気付いていないのだが、そういう人に家系血縁的、或いは先祖伝来的な職業分野で成功している人達が多い。また身内・親戚の縁が厚く、交流が長く続き、良くも悪くも身内からの運命的な影響が強いような気がする。
振り返って私自身はどうなのかと云うと、仕事・職業的な変化は比較的乏しい方だが、こと住居に関しては先天的な移動運を持っているようで、これまで一ヵ所に長く腰を落ち着けていた記憶がない。現在の住居に移って丁度五年目に入ろうとしているが、そういう意味では私の中で“動きやすい人”の心理が頭をもたげ生活上の刺激や変化を要求し始めているようだ。自らの過去は長期間にわたって一ヵ所に居住し続けたことがなく、記憶しているだけでも19回の転居歴がある。或いはもっとあるかもしれないが忘れてしまった。転居する理由は様々だが、動かざるを得なかった理由が出て来てのことが多かった。ただ良い住居でも5~6年目になると、実際には何かの理由をこじつけて動いていたような気もする。そろそろ動きたい虫が騒ぎだすのは当然かもしれなかった。但し、問題は今の住居が賃貸ではなく分譲で購入しているという点だ。通常、分譲で購入するということは、その家や場所に長く住みつくと云うことを前提として行う。永遠の住処として多くの人は住宅を購入するのだ。ましてや「風水」と云うものを身に着けている占い師である私が、自ら択び抜いた住居であるから、風水的な観点からは非の打ちどころがない。豊平川に掛る橋のたもとに建っていて、主要道路の分岐点内側に当る建物であり、東~南東に水回りが集まる間取りも良く、棟全体の南東角部屋と云う条件もクリアし、高層階と云う条件をもクリアし、花火大会も見られる最高の眺望にも恵まれながら、そこを離れたくなるというのは一体どうしてなのだろう。自分自身でも本当のところよく解からない。単純に飽きたからなのか、生活に変化が欲しいのか、刺激が欲しいのか、新たなる出逢いを求めているのか―とにかく私の中の何かが微妙に動きたがっているような気がする。もっとも、人一倍面倒臭がり屋さんで、ロボット的な型に嵌まった生活を好む部分も私にはある。5年前の引っ越し時を思い出すと、何よりも手間や面倒さが先に建つ。多分、もう少し経てば私の中の“動きたい病”も少しは収まってくれるのに違いない。なにしろ風水的に良い条件の住居と云うのは限られており、今の場所、今の住居より良い所を探すのは容易ではないからだ。