2月, 2013年

「恋愛禁止」という謎の掟

2013-02-18

アイドルグループ・AKB48の峰岸みなみさんが、グループ発足当時からのルールとされてきた「恋愛禁止」を破って男性宅に泊まり、それを週刊誌にフォーカスされたとして、謝罪の意味を込め自ら丸刈りとなり、ユーチューブで謝罪映像を流したことが話題となっている。

AKB48の存在については誰でも知っているが「峰岸みなみ」という女性については、必ずしも誰もが知っている…というほど目立つ存在ではなかった。「48」というくらいだから少なくとも48名はいる筈だが、実際のところテレビなどで頻繁に見掛けるのはその内6~7名くらいで、それ以外の方は顔は知っていても名前を知らないとか、名前は聞いたことがあるが顔はよく分からないとか…その程度の認識を持っているのが普通の人達ではないだろうか。峯岸みなみさんに関しては私個人でいえば、今回のことで改めて顔と名前を一致して記憶することが出来た程度の存在であった。

今回の騒動には、理解しにくい問題がいくつも潜んでいる。まず第一は「恋愛禁止」というのが発足当初からのルールということになっているが、果たして本当にそれを守り通してきた人が何人いるのか…という疑問である。AKBの発足当初はメンバーのほとんどが十代半ばで学校とレッスンと仕事に明け暮れていたと思うので、事実上それらのルールを守ることはそんなに苦痛ではなかったはずだ。極端なことを言えば恋愛をしている余裕などなかったと思われる。けれども徐々に年齢を重ね、学校からも解放され、仕事にも余裕が生まれてきたここ数年は、そして最近続いた何人かのメンバーの恋愛発覚以前は、そんなに「恋愛禁止」が前面に出ることもなく、ごく自然の成り行きから恋愛が行われてしまうケースは少なくなかったよう思われる。十代後半から二十代前半の女性たちにとって、むしろそうであることの方が自然なことのように私には思われる。もっとも「恋愛禁止」事項が、初期のオタクファンにとって極めて重要な支持要素であった可能性は否定できず、そういう意味では“恋愛はファンへの裏切り”であり、真摯な気持ちで約束を守り通していたメンバーもいたには違いない。

そういう意味では、ファンを裏切る行為であるだけでなく、AKB仲間を裏切る行為という点から非難されるべき…と見ることもできる。但し、先にも述べたように年齢的にも“恋愛を享受するにふさわしい年齢”である彼女らに、そして元々が予測不能で心の問題でもある恋愛に対して、規制するということ自体が果たして妥当なのか―という問題もある。

さらにメンバーの恋愛がここにきて次々発覚となっているが、それらはマスコミに公表されたからであり、そうだとすれば当然そのマスコミにリークした人物がいる…ということにもなる。AKBメンバーの事務所が別々であることを考えると、関係者からの情報漏えいもあり得ないことではない。もはや発足当初のような「アキバのアイドル」ではなく「日本のアイドル」になっていることは誰もが認めるところなのだから、そして年齢的にも規制不可能な「恋愛禁止」は取り払ってしまった方が現状に適合しているように思える。

ついでに「総選挙」と呼ばれている奇妙な人気投票も止めてしまった方が良い。これも「アキバのアイドル」であった発足当初はなかなかユニークで楽しめる企画であったと思うが、今や“楽しめない企画”になっていることは関係者なら誰もが感じていることだろう。メンバーの芸能事務所がそれぞれ異なり、種々な思惑も絡んで不平等極まりない投票となっていることは誰もが暗黙で理解している。そういう投票制度が純粋な十代のAKBファンに良い影響を与えるはずがない。

一時期、ファンサービスの全く感じられない歌手達が時代を席巻し、女性アーティストでも普段着のようなジーンズ姿で舞台に立つケースが目立った。私は内心嘆かわしく思っていただけに、AKB48が少女らしい衣裳、アニメチックな可愛らしい衣裳で出現し、華やかに踊りながら歌うことを良いことだと思った。機械仕掛けの人形のようなぎこちなさや歌唱力の乏しさはあっても、アイドルというのは“人形的な美”も多少は必要なのだと思っていた。少なくとも韓流アイドルの“無機質な美”よりは良い。握手会等でファンサービスに積極的なことにも好感を持った。もちろんプロデューサー秋元氏による仕掛けられたファンサービスではあるが…。

ただ最近はAKBに派生したグループが沢山出現しすぎて、どれがどれだかわからなくなってしまい、似たようなメンバーと持ち歌で“学芸会的な要素”が強くなりすぎている。普段着のそっけなさすぎるアイドルというのも困るが、歌唱力そのものが未熟すぎる歌手というのもいささか問題がある。それに、何故“個人で歌う歌手”は出現しないのだろう。勉強不足かもしれないが、私自身はきゃりーぱみゅぱむ(?)以外の単身若手歌手を知らない。ああいう今の時代に沿ったアイドル歌手がもっと出てきて良いのに…と思う。

話しが逸れてしまったが、AKBとして大量のアイドルを抱え込むのは良いが、大人社会の責任として“その後の人生”というものも想定したうえで、デビューさせていくことも大切なことであると思う。十代半ばからアイドルになるということは、通常の学校生活や社会経験を素通りしてしまう可能性が高いわけで、いったんレールを外れてしまったなら、崩れ落ちてしまう危険性をはらんでいることになる。実際、モーニング娘。の何人かはそういう形で世間からバッシングを受けた。芸能界社会が生み出したアイドルでありながら、いったん何か問題を起ると投げ出してしまうような風潮が事務所関係者にも世間の方にもあるような気がする。そういう意味でも、あまりに早い年齢でデビューさせるのは問題があるように私には思われる。

テレビや週刊誌にしても、或るタレントの場合には大きく報道し、或るタレントの場合には見過ごしてやる…不平等ともいえる報道姿勢が時々感じられる。これらもまた大いに問題がある。人ひとりの人生が掛かる報道は世間の好奇心だけに従ってよいのか、今一度考える時期に来ているような気がする。

正しい占い&正しくない占い――その分水嶺

2013-02-03

世の中には実にさまざまな人がいる。今更ながら、それを実感させられたのが、書籍通販アマゾンでの読後書評であった。

本当はこれを書くべきか、書かずに済ますべきか、大いに迷った。けれども、世の中には誤って受け止める方もいると思うので、一応書いておくことにした。

私が『古代エジプト守護神占星術』(アルマット社刊)を出したことで、些細な反響はあったが正直、期待したほどの反応や賛同は得られなかった。特に、占星術の関係者からの反応や古代エジプト学関係者からの反応は少なくとも今のところほとんどない。唯一、有ったのがアマゾンのネット書籍通販の読後書評のところで、その内容に関して褒め称えたものもあったが、見当違いの批評もあった。その見当違いの批評が、ほとんど同じ内容で2名掲載されているので、もしかしたら同一人が名を変えて投稿しているのかもしれないが、書評としてふさわしくないので、ここで反論させていただく。

簡単に言えば、その書評とは私の書いた『古代エジプト守護神占星術』が勝手な暴論であり、学術的に正当なエジプトの占星術ではないので、信ずるに値しない、あんなものは本として価値がない…というような内容である。そして、★五段階評価の最低1を与えている。まず、私が言いたいのは、この人は本当に私の本を読んだのだろうか…ということである。なぜなら、この本で私が各36星座に配当している「守護神」に関しては、その第1章の中で、きちんと「古代エジプトにおける正確な守護神配当は現在も確定していないこと」「その一部は同じ守護神がいくつもの星座に配当されていること」「読者の混乱と占いとしての統一性を図るため1星座=1守護神としてあること」等につき、きちんと著述している。決して、私が発表したものが古代エジプト時代そのままの占星術である…など一言も言及していない。実は本の帯封に書かれているリード文が若干それらしき印象を持たれやすい内容なのだが、これは私が書いたものではなく出版社側が宣伝用として書いたもので、短いために誤解されやすい書き方にはなっているが、本文をきちんと読めばその誤解は解けるはずなのである。

いや仮に、その部分が学術的な観点から見て多少、問題があったとしても、批評では「正当なエジプトの占星術」とは違っている…と頭から決めつけているのだが、元々「正当なエジプトの占星術」と呼べるもの自体が、少なくとも現在までのところ、正規のエジプト学上―考古学・歴史学・古代科学史―きちんとした形で発表されたことはない。一部研究家が発表した考古学的史料はあるが、公式のものではないし、学術的に整理されて記述されたものでもない。しかも、どこまでが古代の天文学で、どこからが古代の占星術で、どこからが神話伝承なのか、それすらも判然としていないのが現状なのだ。このような中で先ず「正当な古代のエジプト占星術」を語ること自体、慎重であらねばならないはずなのだ。しかも、私は何度も言うように、私の発表するものが学術的に正当な古代エジプトの占星術である…とは一言も述べてはいない。あくまでも私が36デカン星座にふさわしい守護神を当てはめた―と記述しているのだ。何一つ嘘など記してはいない。「デカン」と呼ばれる36の星座区分が存在したこと自体は誰もが認めるところであるし、それに対して古代エジプトにおける「種々な守護神」を当てはめていたことも考古学的史料から確実なのである。ところが、あの書評だけ読むと、まるで上記の歴史的事実自体さえもが、私の勝手な創作であるかのごとく記述されている。

多分、この書評されている人物は、学術的な立場にない私が「エジプト占星術」を歴史を交えて語ったことが許せないのかもしれないが、そんなことは欧米の古代文明に関してのノンフィクション・ミステリーや宇宙考古学仮説では当たり前に行われていることで、日本でも雑誌『ムー』等では常に行われている。海外では『神々の遺産』や『創世の守護神』や『ダヴィンチコード』等、この種の書き方でベストセラーとなっている書籍も多い。日本では残念ながら、この種の書き手が不足していてスケールの大きな物語を構成できない傾向がみられる。

とにかく本書の場合は“占いの書物”であるから、本来、学術的に正しいかどうかを追及すること自体がおかしいのである。“占いの書物”において唯一追求する論点があるとすれば、その占い内容が的中しているかどうかだが、これは主観によって異なることなのだから、追求自体がばかげている。仮に“古来の正当なエジプト占星術”が実際に完全判明しているのであれば、その内容から見てどうこう言う批評なら解からないでもない。ところが先にも述べたように、そのような判断方法も記述も史料も、何一つ存在していないのだ。批評した人物の書き方だと、明らかにそれが判明していて、それとの比較から違っているかのような印象を与える。考古学的にも歴史学的にも科学史上からも、現在までそのような知識は皆無なのである。なぜ、それなのに「正当なエジプト占星術」等という言葉が飛び出すのか、全く理解に苦しむ。私は、この点についてアマゾンの書評管理担当者にも問い合わせたがなしのつぶてだった。

実は、占いにおいての「正しい」「正しくない」は昔から種々あった問題なのだが、本来、理論的に優れている・劣っている―という違いはあっても、それ以上の優劣は無いし、正邪を付けることも極めて難しい。たとえば、古代から継承されてきているから正しいという人がいるが、それはあくまで歴史的に見て正しいということであって、占いとして正しいかどうかは別問題なのである。また統計的に見て正しいなどという人がいるが、これも怪しい話で、正規の統計学というのは単純に数値が多いというだけでは通らない。科学的に正しいというのも同じで、これまで巷に知れ渡っている占いには、自然科学的に正しいと証明できている占いなど何一つ存在していないのである。というか、自然科学的に証明するということ自体、不可能に近い種々の問題を抱えているのが実態なのだ。

例えばホロスコープや四柱命式から「成功者」の特徴を判別しようとする。これを自然科学的に証明しようとすると何万・何十万というデータを必要とする。実際、そういう意図から証明を試みた科学者もいるが、結局中途半端なデータしか得られていない。しかも、それは既存の占い法則から外れた実証データだったのだ。その結果、科学者からも批判が出て、占い師の方からも批判が出て、結局なにがなんだか解からない結論となってしまった。

私は、これまで種々な占いに対して、波木星龍にしかできない解釈とか判断とか、研究材料を占いの世界に提供してきた。今後もその姿勢を崩すつもりはないが、占いというものに対して未知の人々にとっては、俗にいう「権威者」が「波木星龍の占いは自分勝手なお遊び占いに過ぎない」といえば、その言葉の方が正しいかに思えてしまうに違いない状況にある。そうではないということを理解させるためにも、少しオーソドックスな占いを発表する機会を持たなければ…と考えている。