11月, 2013年

格差社会の若者たち

2013-11-05

一昔前の日本では「一億総中流」とか呼ばれて誰もが皆同じような境遇にあるかのような実感を持っている…とされていた。アンケートでも9割以上の人が自らを「中流」と認識している不可思議な国であった。「中流」表現のもとになったのは経済面だったのだが、そればかりではなく生活スタイルとか、外貌、性質、嗜好まで比較的似たような傾向を持っているのが日本国民だとされていた。実際、街を歩けば誰もが似たような服装をし、似たような髪型をし、似たような話題を口にし、似たような家族構成を持ち、似たような食生活をし、似たような背格好と顔立ちをしていた。それが私が青年時代に差し掛かった頃の日本列島なのであった。

あれから年月が経って、今や日本は誰も「総中流」等とは思わない。それは経済面だけでなく、あらゆる部分で「一つの型」に当てはめることが出来ない国に変わってしまった。良い意味でも悪い意味でも「多様性に富んだ国」が、我がJAPANなのだ。街を歩くと、昔のような「似たスタイル(服装・髪型・持ち物)」はほとんど見られない。それぞれが思い思いの格好で歩いている。それを誰も咎めない。背格好という点でも現代は身長・体重とも昔のように一定せず、極端に背の高い人、極端に背の低い人、極端に太っている人、極端に痩せている人、髪の色や髪型も様々、ファッションは千差万別…ここは何処の国だろうと思うくらいに統一性がない。

或る意味で日本は「世界一自由な国」になったのかもしれないし、それぞれの個性を尊重する国に変わったのかもしれない。そのこと自体は大いに喜ぶべきことなのだが、実際にはそうもいかない。そういう中で種々な「格差」が間違いなく蔓延していっている。

収入的な格差、勤労上の格差、生活環境の格差、能力的な格差、外貌上の格差、家族構成の格差、地域的な格差、世代的な格差等拾い上げればきりがない。自由な社会においては、格差はあってしかるべきなのだが、その中で虐げられる人たち、忘れ去られる人たち、切り捨てられていく人たちを見過ごしてはならない。例えば「過労」や「パワハラ」から「職場うつ」になる人たちが急速に増えていると言われるが、これは紛れもなく「勤労上の格差」が背景にある。現代のように再就職が難しいと、雇用環境が劣悪でもおいそれとその職場を辞めることが出来ない。雇用する側も、それが解かっているから過労させても悪いことだという認識が乏しい。同じ職種でも勤める企業とか、地域とか、経営体質によって、天地の開きが生まれ始めている。昔から労働条件が良くない職場というのはあったのだが、それは「同じような業種」に限られていて、今のようにあらゆる職種・仕事に及ぶものではなかった。現代はITを駆使している職種や職場も多く、神経的に短時間であっても疲れやすい仕事が多い。肉体は疲労しないとしても、神経は疲労するので休息が必要なのだ。それを体力的に大丈夫だと過信すると必ず弊害が出てくる。

私は以前から、IT関連の仕事は脳神経を酷使するので肉体労働と同等か、それ以上に休息をとらないと危険な職業だと思っている。脳神経が酷使されると肉体より精神面に影響が出る。その業種にもよるが、精神のバランスが崩れていってしまいがちなのだ。もちろん、今のようなIT社会で仕事にそれを持ち込むなと言っても無理なので、少なくとも通常の仕事時間を離れたなら、脳神経を休めるうえでもパソコンなどの電磁波から離れることが必要なのだ。それが出来ないほどの長時間労働は「職場うつ」を増やそうとしているようにしか思えない。世界的に若者の求人率が下がり、就職が難しい時代となって、いったん就職した仕事や職場を失いたくないという気持ちから、過労と解かっても耐え続けようとするのかもしれないが、命や人生(運命)を引き替えにすることは出来ない。一時期、処女を失いやすい女性たちに対して「もっと自分を大切にしなければ…」という表現が使われたが、同じように自分の人生をITによって奪われてしまうことのないよう警告を発したい。