4月, 2014年

「そこのみにて光り輝く」という映画

2014-04-26

最近久しぶりで心揺さぶられる映画を見た。「そこのみにて光り輝く」という映画(呉美保監督・綾野剛主演)で函館を舞台にした同名小説が映画化された作品だ。正直に言うと、私自身はそんなに観たいと望んで観た映画ではない。誘われ何となく観た映画で、だれが監督で、どんな原作で、だれが出ているのかも知らなかった。観賞した映画館も函館のマンションのような建物の一階部分で、場所も判り難くて、狭く小さな上映館だった。

私は最初、見ている内に寝てしまうかもしれないと…それを怖れていた。何しろ小さな映画館で、寝てしまうと確実に周りの人達に気付かれてしまう。そういう感じの映画館なのだ。だが、実際に始まると私の予想を裏切って、その内容に引寄せられた。まず第一に“生活感”がある。妙な生活感がある。だから映画に入り込みやすい。俳優が優れているのか、撮り方が良いのか、ストーリー展開に無理がないからか、観る者を自然にその映画の中に引き込んでいく。こういう映画をしばらく見ていなかった。“土臭い生活感”が茫洋と漂ってくる映画だ。

説明くさい描写がないのも良い。近年の日本映画は説明が多い。説明が多すぎて、その映画に入り込めない。だから私は眠くなるのだ。TVドラマなど特にそうだが、無駄に説明し過ぎるストーリーが多い。だからすぐ結末が判って少しも愉しめない。そのドラマとの間に距離感が生れる。どうして日本の映画・ドラマは説明しすぎるのだろう。みんなに解かってもらいたいからだろうか…みんなが理解できて、みんなが共感できる内容などあろうはずがない。そのこと自体に気付かないのは“偽善な平等感”を持っているからだ。そもそも世の中に「真の平等」などはあり得ない。韓国で船が沈み、多数の犠牲者が出たが、そういう時期だから公務員の旅行は自粛すべきという意見が大勢だという韓国は「偽善の仮面」を被った人種としか言いようがない。なぜ国民全員が悲嘆し続けなければいけないのか…もちろん、その事故を哀しむこと、その犠牲者に哀悼の意を捧げること、そういう事故を起こさぬよう注意喚起すべきは同国民として当然の行為である。けれども、だからと言って個々が旅行するとか、物を購入するとかは別次元の話で、仮にそれを自粛したからと云って犠牲者が戻るわけもなく悦ぶわけもない。我々の身の回りには不測の災難、事故、病気、悲劇が山ほど起こりうる。自分自身に起こることもあれば家族とか親戚、恋人、親友、仲間、同僚など関わりある人達が巻き込まれる不幸なケースも多い。そういう時、身近な人達は確かに悲しみを共有するが、それも一時である。本人やその身内だけが辛く苦しい想いをいつまでも引き摺りながら生きていく。忘れようとしても忘れることが出来ず生きていく。「運命」は元々不平等、不公平に出来ている。見せかけの優しさだけで“倖せだった日々”は戻らない。予期せぬという点で云えば、さまざまな哀しみが不測の形で訪れてくる。そして最終的に、その悲しみを乗り越えられるかどうかは、自身の“心の在り方”以外の何物でもない。

例えば東日本大震災のような不測の事態で、家族も、仕事も、お金も、家も、すべて失ったとしても、そこから不屈の勇気で起ち上がる人もいれば、すべての気力を失って退廃的生活にのめり込む人もいる。最終的には誰も助けてはくれない。どんなに辛くても自ら“死に物狂い”で起ち上がれば、神はその人を見捨てないものだ。

確かに世の中は不平等なのだが、少なくとも「運命」の神は“微かなチャンス”を与えてくれるように出来ている。不平等ではあるがチャンスは与える――これが私を運命学の研究に駆り立てる唯一の救いなのである。

少し遅くなったが、私は二十数年ぶりに手相の本『江戸JAPAN極秘手相術』(八幡書店刊・1800円+税)を出した。この本の中には多数の実例を載せていて、通常の本のように「幸運な人」「成功者」ばかりでなく、種々な形での不運な人々、辛い状況にある方、苦労して生きてこられた方々の手指も載せている。そうすることが今現在不遇な人達への励みになると思ったし、或る種の救いにもなると信じるからだ。しかも、今現在の幸運や成功が長く続くとは限らないように、今現在の不幸や苦悩を跳ね返していく人も出て来るのに違いない。云ってみれば『極秘手相術』に出てくる実在の手指は、無言のうちに“生きていることの証し”として本書の中で蘇えったのである。

実は、小説『そこのみにて光り輝く』の著者・佐藤泰志は41歳の若さで自殺している。芥川賞候補に四度なりながら、三島由紀夫賞候補に一度なりながら、輝かしい賞を受賞することなく、闇の中に消えていった作家なのだ。どちらかと言えば一般的には無名の作家で死後になって再評価された作品群がある。そうして、その中でも死の前年に発表したこの小説には“無言の輝き”がある。その無言の輝きを、主演の綾野剛が見事に演じきった。激しさとひ弱さが垣間見える最高の作品である。

光と影を見た佐村河内氏と小保方氏

2014-04-26

人間の運勢には当然のことながら“良い時”と“悪い時”がある。極端に短命でない限り、良い時ばかりの人生もないし、悪い時ばかりの人生もない。奇妙なことには、どんなに「幸運な人生」を歩む人でも、必ず運気の良くない時期はあって、不運な出来事が続く時期や苦悶する日々はある。逆に、どんなに「不運な人生」を歩む人でも、それなりに光の当たる時期はあり、穏やかに流れる日々はある。

通常はそういうふうに時は流れていくのだが、時々短期間で“天国から地獄へ”“地獄から天国へ”運命の機械が故障したかのように暴走し始める時がある。作曲家の佐村河内氏と科学者の小保方氏を並べて評するのは異論のある方も多いだろう。けれども「運勢・運命」を語る上では時期的に並んだこともあって大方には頷いて頂けるに違いない。両者とも、或る意味では共通性を持っている。既にあらゆる形で報道された二人なので、それらの状況をここで蒸し返すことはしない。私が重視したいのは、運勢&運命に対する“世間・大衆の果たす役割”についてである。

この二人、共に一時期は「人気」があった。多くの人達がその作品(?)を通じて支持や声援を送った。その舞台を演出したのはマスコミであった。ところが予期せぬ形で仮面が剥がされる。

そうすると今度は激しいバッシングがマスコミから起こった。まるで芸能人のような“持ち上げ方”と“こき下ろし方”である。当然、人気は地に墜ちていく。一時期、時代の寵児かに思われた作曲家と科学者は光の外に追いやられ、輝かしい光の「影」を背負うことになる。本来、世間や大衆は直接彼らの人生と関わっているわけではない。けれどもマスコミが仲介することで、その人生の舞台に観客側として参加することになる。その個々のエネルギーや心情が無意識に彼らの運勢に影響を与える。実際に起こった事柄以上に、一度潜在意識下で繋がった潜在意識下の波動は、反発する場合も想像以上の大きなうねりとなって彼らの運勢を窮地に追いやるのだ。

つまり人間の運命・運勢はマスコミによって世間に知られている人ほど、本来は未知の“関係のない人々”の思惑とか心情とか意識とかが反映してしまう性質を持っている。そこで重要なのは“マスコミが与えたイメージ”なのである。もちろん実際に関わっているわけではないから、相手のことなど本当は何もわからない。ただTVとか雑誌とか新聞とかインターネットとか週刊誌などによって与えられたイメージは、身近に本人を知っているかのような錯覚を与える。それが個々の人達に身近で接しているかの感情を生じさせる。そして、それらが大衆意識として纏まると大きなうねりとなって本人の潜在意識に到達し、運勢的な吉凶を形作っていく。一度マスコミから徹底的にたたかれ、イメージが損なわれてしまった人が運勢を回復していくのが難しいのはこの点にある。

ところで彼らは単なる「虚言者」に過ぎず、音楽界や科学界を愚弄した罪の部分ばかりなのだろうか。私はそうは思わない。もちろん多くの人達を傷つけてしまった代償は払わなければならない。けれども、例えばクラシック音楽の世界にどれだけの人が精通しているだろうか。実際に音楽業界の人達が多数関わって製作したCDでありながら、誰もコピーの寄せ集め作品であることを見抜けなかった。十年以上もである。しかも多くの人々はその作品で感動を得たのだ。たとえ人物像のデフォルメがそれを助長していたとしても、それなりの心地良さを多くの人達に与えることが出来ていたのであれば、芸術作品としては及第点であろう。それに何よりも種々な事情が重なったせいで、クラシック音楽そのものに興味や関心を抱く人達が増えた。その中にはフィギュアスケート人気も加わって小学生とか中学生も若い人達も少なくなかったと思われる。佐村河内ニュースがきっかけで、将来クラシック音楽に携わる人物、特に作曲を目指す人物が出てこないとは言い切れない。

同じようなことは小保方ニュースにも言える。日本では元々理工科系を目指す女子は少ない。今回の出来事は“科学者を目指そうとする女子学生”誕生のきっかけを作り出す快挙であったとみることもできる。自然科学分野の発見には昔から種々の事件や失敗が付き物で、発明王エジソンなど“失敗の繰り返し”であったことを自ら認めている。ホロスコープから見ても、彼女に研究者としての素質は十分窺われるのだ。失敗は成功の基で、しかも人類の未来に「夢」を与えたのは必ずしも「罪」ばかりではない。学生時代、手相占いを趣味としていたらしい彼女は、もしかしたら研究心逞しい占い師として、やがて脚光を浴びる日が来るかもしれない。