窓の外は雪です。真っ白い雪です。雪が降って降り積もって、北国は“雪に隠れて”いくのです。今の日本は“情報化社会”で、次から次へと“眼”や“耳”に“新たな知識&情報”が飛び込んできます。大脳の中は、雪国のようにこんこんと降り積もっていく“知識&情報”の雪かきをするので精いっぱい、雪かきすらもできないで呆然と“知識&情報”に埋もれていく日々がやって来そうです。降り積もる知識や情報の街に生まれた幼子は、どうやって“雪だるまを作るのか”を知りません。“情報化社会”の幼子の手を引いて“雪だるまの作り方”を教えてあげましょう。
アラブの諺に「人は生まれ、人は悩み、人は死んでいった」というのがあります。誰でもみんな悩むのです。でも“悩んでなさそうな顔してる”だけなのです。本当はみんな孤独なのです。だから肩寄せ合って、疵口を舐め合って、身近な誰かの心に縋り付きながら、幼児のように甘えたい時もあるのです。誰でもみんな弱いのです。弱いから“強そうな顔してる”だけなのです。裸の姿を見られたくないから、他人に逢うのが怖くなって、“独り”になりたくなったりするのです。
人は誰しも「消えない過去」を持ちながら生きています。元オウムの菊池被告が“逆転無罪”の判決を受けました。彼女が世間に一番の衝撃を与えたのは、そのあまりの変貌ぶりからでした。つまり失踪当時の面影が、拘束時には100%消えていたからです。これほど“別人の容貌”に変化してしまっていたことが衝撃を与えたのです。それは「消えない過去」を背負って歩んだ人生を無言のうちに物語っていました。百の言葉よりも、その変貌ぶりが、どのような生活をしてきたか人相学を学ばない人達にも解ってしまう不思議な変身でした。
人は誰でも、自らの“価値観”にしたがって生きています。それが端的に表れるのは“お金の使い方”です。どこにお金をかけるか、お金を使っているのかは“価値観が左右している”のです。或る人から見れば「そんなところにお金を使って…」と眉をひそめるようなお金の使い方であっても、本人にとって“それが何より大切”で、“生きがいと思える部分”であれば、或いは“幸せを感じられる”なら、有効なお金のかけ方といえるでしょう。近年、占いにお金を使う人が減ってきているのは、多くの人達にとって「占い」の価値が下がっているからと考えられます。
ホテルの大きな窓から見る大平原の白い初雪はとても美しいものです。けれどもいったん外に出て、路上を歩くと、真冬の寒さと凍った路面で雪は見事に変身し、その冷たさと刃のような鋭さを突き付けてきます。幼いころ、雪は風と一緒に部屋まで入り込んできて、障子の桟のところに少し積もって朝を迎えたものです。綿帽子は結ぶのも紐をほどくのも難しく、小1の時、かじかんだ手でほどくことが出来ず学校で泣いてしまったことがあります。その時、さっとほどいてくれたのは悪ガキでしたが、私には天使に見えたものです。
人には誰でも「輝いている時」があります。或いは忘れ難い「運命の時」があります。そこから「人生の歯車」をぴたりと止めてしまう人がいます。まるで時間が止まってしまったかのように、そこから動こうとしない人がいます。けれども、駄々っ子がしゃがみこんでも誰もそれに手を貸すことがないように、結局は本人が泣きながら立ち上がって“母親を追いかける”幼児のように、気持ちを切り替えるしかないのです。戻らない過去を追いかけるより、未来に駆け上っていく勇気を持つのです。
或る人が文豪シェイクスピアに訊いたら、彼は笑って「ある。大いにある。そんな愚問を発しては困る」と云ったそうです。さすがシェイクスピアといったところです。だから昔から、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教とキリスト教は戦争ばかりしているのです。それに神々がたくさん出てくるギリシャ神話もエジプト神話も嫉妬深い神が多く、争い事ばかり出てきます。神様って意外に人間的かもって、妙に親しみを感じる私は、願い事を叶えてくれないとき蹴飛ばしたりします。
昨日デパートへ行ったら、中国語、韓国語、英語のアナウンスが聞こえてきて、ここは日本だろうか…と疑った。訪日客向けに内装一部も変貌し始めている。それが一番のお客様だから仕方がない。TVでも外国人・ハーフタレントが幅を利かせている。30年後くらいになったら「純粋な日本人」の比率がどんどん減って「あなたって純日本人でしょう」とか「私って純日本人だから」という会話が当然のように聞こえてくるようになるかもしれない。それにしても、タイ人の集団はおとなしい。
そう、だから未来なんて心配いらないのさ。誰が言った言葉だったか忘れてしまったのですが、なんだか目がさえて眠れない夜とか、不安で押しつぶされそうな夜とかには、最高のおまじないかも…? ところがです。そう思って夜中むっくり起きだして朝まで過ごすと、これが長い。中々朝はやってきません。まあ、そのお蔭で本が読めたり、書き物ができたりするのだけれど。
母親に手を引かれて歩く子の表情に“不安・迷い・ためらい”はありません。本能的に「悪いところに連れて行かれるはずがない」という安心感があるからです。それと同じ役割を「現在の運命学」は果たしているでしょうか。残念ですが果たしてはいません。多くの占術家は、占いを“完成された学・術”と勘違いしていますが、それ自体が“誤り”であり、“おごり”だからです。人類に寄与できるような“正しい運命学”の研究は始まったばかりであり、大きな成果を得られないまま今日に至っていることに早く気付かなければいけません。
この季節になると、たくさんの落ち葉が路に彩りを与えます。それは“季節の変わり目”を無言のうちに教えるだけでなく、人と街並みとが“仲良く生きている”証のようにも思えます。私が少年時代を過ごした室蘭は風が強く、すぐ落ち葉を吹き飛ばしてしまうので「落ち葉の舗道」を見たことがありませんでした。札幌に来て、秋が深まったことを知らせる落ち葉の舗道を歩くたび、この彩ある路に流れているメロディが聴こえてくるようで、ちょっとだけ詩人になって襟を立てたりしてみるのです。
またしてもフランスで「IS・イスラム国」のテロ行為によって多くの方が犠牲となりました。日本人がISのような“イスラム原理主義”と“一般のイスラム教”の違いを理解することはなかなか難しいのですが、丁度「密教」と呼ばれる“仏教の一形態”と“一般的な仏教(顕教)”のような違いといえば理解しやすいかもしれません。「密教」の荒行が“命の危険”があるように、“イスラム原理主義”の「聖戦」にも“命の危険”が付きまとうのです。問題は“反イスラムの人たちを犠牲とする”ことで、“神に仕えたことを証明できる”と本気で信じていることです。それゆえ「神の奴隷」として“自爆”することをいとわないのです。
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