どのような世界であっても「使命感」の中で生きている人達は、それぞれに“美しい”ものです。もちろん、これは外見的なことではなくて、“生き方としての美しさ”です。その人なりが滲み出てくるような“人間としての美しさ”です。さて、その「使命感」ですが、決して“特別な人”だけに与えられているものなどではありません。特別すぐれた能力があるとか、特別恵まれた地位・立場にあるとか、そういうものではなくて、自分自身の役割を自覚し、それに没頭、精勤している人達を言うのです。ですから例えば「親の介護」でも、それを自分に課せられた役割と意識し、それだけに“自らの後半生を捧げている人”は、立派な使命感に燃えながら生きている、と言えるでしょう。但し、それを嫌々ながらもやっているとか、仕方がないからやっている、というのでは「使命感」にはなりません。「使命感」の重要なところは、自らが意図して“運命的な役割”を感じ、それを使命と自覚して続けていくところにあるのです。言葉の“響き良さ”はあるものの実収入を約束するようなものではないため、必ずといって良いほど苦労が付きまとい、難しい局面に出くわすことが何度も起こります。けれども、最終的には「使命感」に支えられ乗り越えていくことが出来るケースが多いのが特徴です。もちろん、最期まで使命を達成できず「未完」になってしまうこともあります。それでも「使命感」に支えられた生き方は、人間が“運命の道を歩んでいく”一つの典型としては「完成系」であって、その「結果」よりも「過程」において、もっとも“敬虔な生き方”と言えるかもしれません。
人間は最終的に自らが「運命の舞台」を開拓していかなければいけません。先日、マッキンリーに消えた登山家・植村直己氏の足跡をTVで報道していました。冬季単独登頂を達成したのち、消息を絶ったまま未だ遺体は発見されていません。数々の“世界記録を打ち立てた”植村氏ですが、私が特に強調したいのは、高校生まではごくごく平凡で“目立たない”普通の少年だったことです。特別な能力も、功績も、素質を感じさせるようなエピソードも全くないことです。むしろ明治大学の山岳部に入った後、彼は一人だけ山頂に進めなくなって、みんなに“迷惑をかけた存在”だったのです。つまり登山そのものでさえも、何ら特別な素質や能力が備わっていたのではなく、むしろ“劣っていた”方に属するという点です。世界的な大記録を次々と打ち立てていった彼にしても、高校生までは何ら“抜きん出たところのない”凡庸な少年だったのです。ここが重要なのです。「運命」を信じる多くの人は、先天的な能力とか素質とかを過大に受け止めがちです。つまり偉大な功績を残す人物は、最初からその素質を“与えられて生まれてきている”かのよう誤解しがちなのです。もちろん、そういうケースもあります。私などがホロスコープや四柱命式を一目見て「運命的な人生」や「輝かしい成功」を読み取れる人物もいます。けれども、そういうケースは三割くらいで、後の七割は“凡庸なもの”です。特別“輝かしい素質”など見いだせないのが普通です。そして、そういう人達の中から「偉大なる人物」が出現するのです。当然、そこには人一倍の努力や環境・時代の変化、運命的ともいえる出逢いが存在していることもあります。運命の激変や潜在能力の開花は、凡庸な人物から「偉大なる人物」を誕生させる秘密ともいえそうです。したがってホロスコープや四柱命式を知って、或いは手相や人相を知って、自分の“凡庸さ”を悟ったとしても、それを現状への言い訳にすることはできないのです。ホロスコープや四柱命式を知れば知るほど、その凡庸さから“飛び抜け”、偉大なる足跡を刻んだ人たちが大勢いることに気付かされるからです。
人は自らに「使命」を課すと“強くなれる”ものです。不思議と普段以上に“素質や能力”が引き出されるものです。「使命感」には、弱い心を“強くする”力と、普段持ち合わせない“素質や能力”を引き出す力が備わっているのです。しかも、冒頭で述べたように、その生き方は“美しい”のです。誰にも迷惑は掛かりません。お金も掛かりません。ただ“自覚する”だけで良いのです。もし、すぐ気持ちが折れそうだったら“書き出して壁に貼る”昔ながらの方でも良いし、毎日お腹から“声を出して独白する”自らに言い聞かせる方法をとっても良いでしょう。こうして毎日それを潜在意識に働きかけるのが良いのです。時々では駄目で、毎日が鉄則です。「潜在意識」はコンピュータと同じで“繰り返し作業に弱い”のです。繰り返されていると、そういう風に“思い込み”、そういう風な“働きを強めていく”ようできているのです。この性質を利用・活用することによって、凡庸な人から「偉大なる人」へと生まれ変わっていけば良いのです。「運命を変える」のは、そんなに難しいことではない、という事実に気付くべきです。
「立春」を過ぎて「春分」が近づくにつれ、早朝の空が徐々に「明るさ」を増してきている。私が暮らす北海道の場合、“2月の終わり”でも“冬の終わり”ではなく、気温の実感としてはまだまだ“冬の後半”でしかない。高層階の窓から見える風景も「白一色」でどこにも「緑」はなく、“溶け出す雪”と“降り積もる雪”とが見事にせめぎ合っている。ただ「空」だけが、季節を先取りするかのように青くなって、“春色”としての「青」になって、地上の植物たちに“先んじて”いる。そういう風に、われわれの「運命」にも、実際の生活に先行して訪れる「予兆」と呼ばれる現象がある。多くの人達は“それ”を見逃すのだが、そういうものは確実にあって、特に「不幸の真っただ中」に居て苦悶し続けている時、“微かな光明”を感じさせる現象が起こる。それは多く「幻覚」のように起こる。ただ単に「花々が美しい」とか、「人々がやさしい」とか、「空気がおいしい」とか、そんな些細な“一瞬の出来事”なのだが、その一瞬の感覚こそ正に「予兆」であって、それからほどなくして“実際の生活”の中にも、苦境を脱出する“決定的な出来事”がもたらされてくるものなのである。
多くの人は、自分のことは自分が誰よりも解っている、と思っています。けれども、人生の途中から「大きく変貌していった人たち」多数の“足取り”を調べてみると、本人自身も途中までは“そのように変わっていく”とは予想していなかったケースが圧倒的です。つまり人間には、本人も予測できないような「自分」が“潜在意識下に潜んでいる”場合が多いのです。今現在の自分は「自分の一部分にすぎない」ということです。近年「本当の自分」「ありのままの自分」を曝け出せることを望む方が多いのですが、それはあくまで「今現在の自分」にすぎず、潜在意識下に眠っている「本当の自分」の“一断面”をそのように誤解しているだけで、実際には「未知の自分」「見知らぬ自分」が息を潜め“広大に広がっている”のだと認識すべきです。もちろん、比較的“変わらぬまま”生涯を終えていく人たちもいます。何かが、眠っていた「自分」を引き摺りだして“生まれ変わらせていく”のだとすれば「寝た子を起こす」のは、本人なのか、それとも「運命」と呼ぶ“大きな力”なのか…。
アメリカのベンチャー企業が、雪山を登っていく“人間型”ロボットを開発した。身長・体重とも成人男性とほぼ同じくらいで完全に“二足歩行をする”人型ロボットだ。ただ惜しむらくは顔面部分が機械的で“人間的”ではない。それでも、すべる雪山を転びそうになりながらも上体を立て直し、一人で黙々と登っていく様子は遠くから見れば妙に“人間的”で応援したくなるほどだ。まだ“実験段階”らしいが、仮に倒れても一人で起き上がり、ドアも自分の手で開くなど、日本のロボットよりもはるかに手肢の動きが“人間的”なのだ。多分、これに「人間の顔」が加われば完璧で、やがては“空想の世界”だった「サイボーグ人間」が実際に登場することになるのだろう。戦争などに使われるのは困るが、“介護の世界”とか、“災害現場”とか、“救急医療”とか、必要とする分野は多数ある。もっとも、一つだけ問題なのは「サイボーグ人間」が“進化しすぎ”人間が制御できなくなる場合で、SFの世界が実現しそうで怖い。
近年、シングルマザーが増えたことや非正規雇用が増えたことで「貧困児童」が増えてきている。食べることもままならない環境におかれた“日本の貧しい子供たち”だ。おかしい。何かが違っている。日本は“豊かな国”ではなかったのか。戦後の日本は著しい経済発展を遂げ「先進国」となって世界をリードしてきたのではなかったのか。私は幼い頃「貧しい家庭」で育ったが、それは特別なことでもなかった。近所には“そういう子どもたち”も何人かいて、我が家だけが特別貧しいわけでもなかった。確かに「雨漏りのする家」だったし、ちょっと大雨が降れば「床下浸水する家」だったが、それは長屋全体がそうだったので、常に周りには“仲間たち”がいた。けれども現代は違う。「貧困児童」は“時代から取り残された子供たち”だ。周りとの経済格差が大きく“孤立している”のだ。時代が進み、街全体が豊かになったことで、かえって“貧困が際立つ”社会に変わった。平等を目指したはずなのに、近年、格差がますます目立っている。「時代」から取り残された子供たちが、ひたすら“我慢”を強いられている。
「恋人」「夫婦」「親子」「兄弟」…世の中には、良くも悪くも“離れがたい組み合わせ”というものがあります。どうしても“片方だけでは語れない”組み合わせの二人がいます。当人同士もそれを深く感じ“遁れがたい宿命”に捉われている二人がいます。そこには“一言では言い尽くせない”二人だけの「歴史」が潜んでいる場合が多いものです。もちろん、二人だけの世界が作り出す歴史で、世間的には何の価値もありません。表面上だけ辿れば“普通の関係”にはとどまらないけれど、だからと言って“特別な関係”と一言で片づけられるか…には疑問が残ります。二人だけにしか解らない“愛憎、“衝動”、“葛藤”が繰り広げられてきた関係だからです。当人たちにとっては単なる“過去の出来事”とか“昔からの関係性”という表現ではしっくりこない、正に「二人だけの歴史」と表現した方が“ぴったりくる”他の誰にも本当のところは理解しがたい人生の根幹にある“結びつき”なのです。
何年も、時には何十年も会うことなく過ごしていた人と、予期せぬ形から“出逢う”とか、“縁が結ばれる”ことがあります。時にはマスコミ報道やインターネットを通じて“発見する”こともあります。そして、その変貌に驚かされることがあります。外見的な変貌の場合もあれば、社会的な変貌の場合もあれば、性格的な変貌の場合もあります。時にはその三つが同時に行われ、別人のように変貌していることもあります。その一方、夢の中に登場する「人物」はどういうわけか時間が止まっていて、“大昔のまま”であるのが普通です。記憶された人物像は“その時代”に留まっていて、当時の印象を変えていません。二人の間には「空白」があって、その空白だけが“真実を知っている”のです。埋めることのできない「空白」は、それぞれが歩んだ“運命の違い”を無言のうちに表わしているものです。
人は物事を合理的に考えたがるものです。例えば「愛の別れ」が来た時に、なぜこうなってしまったのか、と自問自答しがちです。「不慮の事故」に遭ったようなときにも、なぜあの道を通ってしまったのか、と理由を見つけようとするのです。けれども、多くの場合、本当に納得できる理由などは見つかりません。自分の生活を変えた人生上の「大きな出来事」は“避けがたかったのかもしれない”と…或る日、なんとなく心に浮かぶことがあります。自分を納得させようと必死になっている時には考えもしなかった結論です。けれども、その「結論」は妙に説得力を持っていて、理由もなく、納得してしまうのです。そういう経験を誰でもしているから「運命」という言葉を誰も否定できないのです。
当然のことながら「今日」という日は、いつかは“記憶の片隅”に追いやられて「過去」となります。どんなに大きな悩みがあっても、どんなに苦しい状況にあっても、どんなに辛い立場であっても、いつかはその「呪縛」から遁れて、そういう日々もあったと懐かしく“振り返る”時期がやってくるものです。しかも、人間には「忘れる」という機能が備わっていて、自分の“困難や苦悩や悲惨”な状況は他の記憶よりも早くに遠くへと追いやられていくので、結果的に「懐かしい」感情だけが強く“その時の記憶”を支配するようになります。人間の記憶力は平等ではないのです。けれどもそのお蔭で、われわれは“さまざまな逆境”を乗り越えて、人一倍“輝いて見える”幸せな時間に辿り着くことが出来ることを、無言のうちに神様は教えようとしているのかもしれません。
私たちは誰でも何かに入会するときとか、大きなローンを組む時とか、仕事上の取引を行う時とかに「規約書」や「誓約書」にサインをさせられます。そこには万一アクシデントが生じたときなどの注意事項が記されているのが普通です。つまりはサインによって双方の「約束事」が成立しているのです。もっとも「規約書」や「誓約書」というのは一応の決まり事なので、それをいちいちチェックすることはめったにありません。九割方は“不必要な約束”に署名していることになります。けれども署名しているので「公的な約束」として“法的な拘束力”を持っています。ところが家族とか親友とは何の「約束事」も取り交わしていません。つまり公的には、仮にアクシデントが生じたとしても、何らの責任も負担も生じることはありません。そうはいっても実際には双方に「見えない約束」があって、それは“署名した約束事”よりもはるかに強くて、ただの一度も「指切り」など交わしていないのに、絶対に「破られることのない約束」が双方を結び付けているものです。
情報が飛び交う今日、われわれはどうしても“さまざまな情報”に振り回されがちです。自分の中で「これをやり抜こう」と決心しても、日々“新たな情報”を耳にし、周囲の“状況も変化していく”中で、“初心を貫徹していく”ことは容易なことではありません。時に、もっと簡単な方法があるとか、先回りできる道が見つかったとか、このままでは駄目かもしれないとか、もう限界に達しつつあるとか…当初の目標とか、目的とか、決意とかが揺らいでしまうケースが少なくありません。俗に「魔がさす」と呼ばれる状況に直面するのです。ここで“初心に立ち返る”ことが出来る人は「魔を蹴散らす」ことが出来るのですが、“情報に振り回され”やすい人は、初心を貫徹できなくなってしまうのです。意志の強さと忍耐強さは、何事においても成功の重要な条件です。
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