3月, 2016年

「そこそこ」こそ最高の生き方

2016-03-08

どのような世界にも「トップクラス」で順位を競うような人たちがいる。誰もが“注目する人達”で、誰もが“知っている人達”だ。別にその「業界」ではないのに、名前だけはどこかで“聞いたことがある”とか、顔だけは何かで“見たことがある”というような人たちだ。けれども、当然ながら、そういう人たちだけが“その世界”に居るわけではない。むしろ圧倒的に“多くの人達”は、その世界に居ながら一般的には“あまり知られていない人達”だ。世の中とは“そういう風な形”で成り立っている。ただ一般の人達は知らないが、その業界の人であれば一応「名前だけは知っている」ような人たちもいる。つまり、その業界では「そこそこの実力を持っている」とか、特殊な分野では「それなりの評価を得ている」とか、有名ではないが「長年にわたる功績がある」などの人達だ。実はどの分野でも「トップクラス」で順位を争うような人たちには、一時的な“脚光を浴びる”が、その後に「どん底」を経験している人達も多い。良く言えばドラマチックだが、悪く言えば「安定感に乏しい」人生も多い。また「敵も多い」のが特徴だ。「そこそこ」の人達は、特別“華やかさ”には欠けるが、安定感があり、敵が少ないのも特徴だ。

問いかける「ガウディ」

2016-03-07

TVで「サグラダファミリア(聖家族贖罪教会)」の建築で有名なアントニ・ガウディの生涯について特集していました。なんとなく「知っている」と思っていたガウディやサグラダファミリアでしたが、知らないことがいっぱいで改めて「神の存在性」について考えさせられました。まず彼が少年時代からリウマチを患っていたこと。その結果として自由に動けず、植物や自然を観察し、描写する子供時代を送ったこと。建築学校の卒業時、学長に「私は狂人に卒業証書を渡しているのか、天才に卒業証書を渡しているのか」と言わしめたこと。その晩年は全財産をサグラダファミリアに投じ、その地下室に暮らしたこと。そして日課であった教会に出向く途中で電車にはねられ亡くなったこと。すぐ手当すれば命を取り留めたのに、ぼろの衣装から浮浪者に間違われ、病院への到着が遅れて亡くなったこと。通常「聖家族教会」と訳されるが「贖罪教会」が正しいこと。通称「ロザリオの間」には、悪魔から爆薬を渡され掴みかけている少年と、悪魔から札束を渡され拒んでいる少女が、左右に彫像されていること。

客観視するための尺度

2016-03-06

普段はどんなに冷静で理知的な人でも、何かしら大きな問題や困難に遭遇すると、周りが見えなくなるとか、本来の自分らしさを失うとか、単純なミスを犯すとかしがちになるものです。そして、そういうことが何度か続くと、やがて自信を失い、自分の“無力さ”や“至らなさ”を過度に捉えて、一歩も前に進めなくなってしまったりします。周りがどんなに励ましても、いったん失われてしまった自信は容易に回復せず、本来の“軌道”から外れていくケースが少なくありません。人間は元々“ひ弱”に出来ているからです。そういう時「等身大の姿」を客観的な視点から、物語ってくれるのが「正しい占い」であり、真摯な占い師です。全くの他人である“占い師”や“占いの書物”は、第三者的な視点から自分を“客観視するための尺度”として、きわめて有効なものです。自分が“見えなくなってしまった”状態や、本来の自分を“忘れてしまった”状態では、不安や恐怖だけが拡大し、前に踏み出せなくなるのは当然だからです。「未来への道しるべ」も同伴した形の“占いの声”に耳を傾けることで、自分自身が“目隠し”した素質や能力に気付くように「神」は無言のまま古代の人々に「占い」を与えたのです。

ネット社会に横行する「仮面舞踏会」

2016-03-05

近年はインターネットの普及で「画像」や「映像」が一瞬のうちに“世界に配信”される。それは本来だったら“社会の片隅”でひっそり生きてきたはずの人を、予期せぬ形で“表舞台”へ押し上げることもある。けれども無名だった多くの人の場合、注目を浴びるのは“普段の姿”ではなく、ネット上だけの、或いはイベント上だけの“世を忍ぶ仮の姿”である。本名で出ている人は少なく、普段とは異なる「もう一人の自分」が活躍しているケースが多い。時には“それ”にスポンサーがつくこともあり、思いがけぬ“収入”をもたらすこともある。その代表はアニメの“コスプレスター”や着ぐるみを“全身に纏ったキャラクター”たちで、中には既に“商品化”している場合すらある。“プロと素人の間”に位置する歌手・タレント・芸人などの“セミプロ芸”や、各種の「芸術作品」の“発表会”と化しているサイトもある。「コミケ」と呼ばれる漫画即売会では何十万人もが列を作る。云ってみれば、世を上げて「仮面舞踏会」を行っているようなものなのだ。「ありのままでない自分」が、“そこ”だけで輝く。

「神々」の住居と「先祖達」の住居

2016-03-04

日本の住宅内には「神々」が住むところと、「先祖達」が住むところとが奇妙な形で同居しています。もちろん“神々が住むところ”とは「神棚内」であり、“先祖達が住むところ”とは「仏壇」に他なりません。通常、日本の住宅ではこれらを備えているケースが多いものです。二つともある場合は“神々”も“先祖達”も、仲良く同居していることになります。但し、存在はしていても「扉を開いたことがない」とか「手を合わせたことがない」とか「供え物をしたことがない」というのでは、正に「宝の持ち腐れ」で、神々にも先祖達にも“生命”が宿らず、実質的には存在していないのと同様です。せめて毎日、一瞬だけでも手を合わせるとか、御水を備えるとかすれば、彼らと“命を通じ合う”ことが出来ます。別に“立派な神棚”や“立派な仏壇”を、彼らは要求していません。近年はケース入りの神棚や簡易の仏壇もあり、それでも毎日、手を合わせ、祝詞をあげ、読経し、供え物を繰り返していれば「命」が通って、彼らは感謝し、親しみを持って“住人”を守り、何かと人生を“手助け”してくれるようになるものです。

「魂」の残像

2016-03-03

人は誰でも齢(とし)を取り、いつかは亡くなっていきます。亡くなった後で何が残るのかというと、その人の大まかな「履歴」とか、その人の「想い出」だけが残ります。亡くなる方も、その最期には「人生上の主要な出来事」や「身近な人」「大切な人」の記憶だけを「あの世」へと運びます。そうして「人生劇場」の幕は閉じられるのです。つまり大まかな言い方をすれば、人間の「運命」とは、そういう「大枠」だけが最初からあって、そういう「大枠」だけが最初から決められていて、それ以外は「ない」ということです。よく“何から何まで”最初から決まっていて、どうにもならないものであるかのような「宿命観」を持っている方がいますが、それは間違いです。「大枠」だけが決まっているのです。しかも、その「大枠」も具体的なものではなく、きわめて「抽象的な大枠」なのです。その「抽象的な大枠」の範囲内であれば、人生上の変更は“自由自在”なのです。人間は「変幻自在」なのです。

「的」を絞ることの重要性

2016-03-02

現代は“情報があふれている”ので、いったん迷って“道しるべ”を失うと、何もかもが信じられなくなり、右往左往し続けて結局“自分自身をも見失って”しまうようなことになりがちなものです。古代の人々は“何も情報を持たなかった”ので、ひたすら自らの“本能”や“感覚”に頼って、手探りの中で“前に進む”しかありませんでした。「占い」は古代から現代に続く“知恵の集積”ですが、その多くは「古代の知恵」で“迷いに迷った末”に縋る「一本の命綱」として用意されているものです。したがって“ゲーム感覚”で飛びつくようなものでもないし、半信半疑で“矢継ぎ早に占う”ようなものでもありません。自分自身の中で或る程度「的」を絞り、けれども“最終判断が難しい”ような場合、占い師である前に“人間として信頼できる”真摯な占い師をもとを訪れ、祈るような気持ちの中で「古代の英知」に基づく“解決策”や“選択”に従うようにするのが本来の活用法です。

「眼」をそむけてはいけない仕事

2016-03-01

世の中にはさまざまな問題や状況から「眼」をそむけてはいけない仕事というものがあります。例えば医療関係の仕事、福祉関係の仕事、警察関係の仕事、児童関係の仕事、葬祭関係の仕事などです。リアルな現実と向き合わなければならず、時に“自分自身の無力さ”を噛みしめなければならない時があります。やや抽象的ではあっても、人間のさまざまな「運命」と向き合う「占い師(運命家)」にも同様のことが言えます。どんなに相談者の「力」になりたいと思っても、リアルな現実を前に“打つ手が乏しい”場合があるからです。理不尽な現状を理解しながらも「今は運気的に我慢の時なので…」としか言えない時があります。「方位」や「風水」による開運法や、「易の生卦法」による対処法にしても、状況によっては活用するのが難しいケースもあるからです。「的中すれば良い」などと割り切ることのできない私は、祈るような気持ちで“無力感”に打ちのめされながら、仕事を続けるしかないのです。 

Newer Entries »