5月, 2016年

島田秀平君、大丈夫?

2016-05-08

私は普段ほとんど他の占い師の動向などは読まない。というか興味がない。ところが、今日、たまたま“手相芸人”として一世を風靡した島田秀平氏の記事をネットで読んで仰天した。彼が「本気でそんな風に思っている」ということが信じられなかったのだ。彼は13年間交際してきた歯科技工士の女性と入籍したらしい。そのこと自体はとても良いことで心から「おめでとう」と祝福したい。それは良いのだが、問題は彼の“手相発言”(ブログ上の記事なのか、雑誌インタビュー記事なのか)にある。つまり、彼は自分自身と彼女の手相に関して発言しているのだが、その中で「結婚線に入るフィッシュは結婚が近づくと現れます」と述べているのだ。自分自身の結婚に関連して述べているのだから、本気で話していることは間違いないだろう。しかも、自分も彼女の手相も「フィッシュが現れた」などと述べている。この「フィッシュ」というのは“魚の形”ということだが、日本的に表現すると“二本の楕円曲線が交錯することで出現する”形状で、一般的には“島型”とか“目型”として知られている形状の先が“割れている形”を指すものである。その「フィッシュ」を“結婚が近づくことで出現する形状”と、彼は解していることになる。私は世界各国の手相書をコレクションしているが、そのようなことを述べている手相書は一冊もない。もちろん、日本の研究者からも、そのような発言は聞いたことがない。私自身、これまで何千、何万の手相を見てきたが、そういう事象に巡り合ったことは一度もない。結婚線に出現する“島型”も“先端の分岐”も“不吉な相”で、だからこそ私は「島田君、大丈夫か!」と言いたくなるのだ。

「運」って、妖しい

2016-05-07

多くの人は知らないんだよ。「運」がどれだけ妖しいかを…。多くの人は知っているんだよ。「運」がどれだけ妖しいかを…。だけど、誰も言わないのさ。怖いから言えないのさ。「運」って、怖いよね。ほんとうは誰でも知らないふりして通り過ぎたいんだ。だけど、そこまで来ると足が止まって、何か言いたくて、でも何も言えなくて、“お願いだからこっちを見ないで…”って、普通のふりして一生懸命静かに歩いて、触れないように気を付けて、ちょっと何か感じただけでも「運」じゃないことを祈ってる。あの妖しさは尋常じゃない。きっと、見えてるんだよ。そう、見えてるにきまってる。絶対、見えてるにきまってる。でなけりゃ、あの妖しさはないよね。「凍りつくような炎」って、そんな表現なかったっけ? とにかく、そんな感じだよ。あの「眼」が、どんなに妖しいか、言葉で表現するのはとても難しくて、ただ“怖い”から、そして“見ている”から、そして…だけど…やさしいときもあるから、ちょっとだけ薄目を開けて、見てしまいたくて、覗きたくて、知りたくなって、抱いてほしくて…だけど、やっぱり怖いから「運」にお願いするんだ。もう少し、もう少しだけで良いから“怖くしないで、”もう少しだけで良いから“一緒に居て”、もう少しだけで良いから“妖しくて良いから”、この背中を温めてほしい…と。

「いけにえ」を必要とする神事

2016-05-06

長野・諏訪大社の「御柱祭(正式には式年造営御柱大祭)」で、今回も犠牲者が出た。御柱祭のハイライトである「建御柱」が行われ、柱が垂直に立った直後、その柱の綱を外していた氏子の一人が足を滑らし落下したのだ。一応、建て終わって気が抜けたのかもしれない。彼はまもなく亡くなった。こうして、今回も犠牲者が出た。この祭りは「寅」と「申」の年にのみ行われる。6年ごとの神事だ。その起源は古く、諸説がある。社殿の四隅にあるモミの大木を建て替える祭りだが、祭りの在り方から言って、御柱そのものを「神」に見立てていると思われる。「寅」と「申」の方位は、俗にいう“鬼門”と“裏鬼門”だが、その方位に建てるので「鬼門の神」とも見ることが出来る。元々「申」という甲骨文字は“稲光の象形”から来ていて「神」という文字にも、その象形が含まれている。2010年の前回は4人が落下し、その内の2人が死亡した。実は毎回のように犠牲者が出ている神事なのだ。もっとも犠牲者が多かった年は7名が亡くなっている。古代日本では、死者を「柱」に見立てて、その御柱の“日影の角度”で明示された地点に剣を刺し、それを「座」として祭ったともされている。したがって、四柱を建てるのは“四人の御祭神”がいるからとも解される。4人が落下した前回の翌年、東日本大震災が起こった。御柱祭はまだ終わっていない。今回は犠牲者が一人で済むことを祈るばかりである。

「やすらぐ」ということの幸福

2016-05-05

何かで常に“頭を悩ませている”とか、何かで常に“不安を抱いている”とかいうような日々が続いている場合、ほっと一息つくことが出来て、一時的ではあったとしても“安らぐ気持ち”でベッドに横たわるとき、それだけで人は「倖せ」を感じることが出来たりするものです。通常なら“何も感じず”、当たり前のこととしてベッドにもぐり込むだけの時なのです。それなのに、日々“悩み続けている”状態とか、日々“不安から遁れられない”状態の時には、その“苦悶”から一時的に解き放たれた“安らぐベッド”が、まるで「天国」でもあるかのように“幸福をもたらしてくれる”ものなのです。つまり、人が「倖せ」というものを、より実感できるのは“心が休まらない状態”が続いてきた時が一番なのです。心が休まらず、心の底から“ゆっくりと安心して眠る”ということが出来ない状態の中では、人は決して「倖せ」にはなれないのです。どんなに金品あふれた生活をしていたとしても、心の大半を“悩み”や“不安”が占めている中では、本当に“やすらぐ”ことが出来ないので「安眠」できないからです。ただベッドに入って、ただ「安心して眠る」というそれだけのことなのに、実は“それ”こそが、何よりも「倖せ」と直結しているのです。

占い不要の「相性」の基準

2016-05-04

「占い」など信じていない人であっても「相性」については、その“存在性”を認めている場合が多い。実際、さまざまな場面で「相性」としか言いようのない“結果”に遭遇する。恋愛・結婚相手はもちろん、取引相手との関係でも、親子・兄弟の関係でも、仲間・同僚との関係でも、上司・部下の間でも、「相性」としか呼びようのない状態や結末はあまりに多い。その「相性」について「占い」など用いなくても、事前に察知する方法がある。「相性」が良い人達というのは、その“ファッション”と“飲食”と“音楽”の好みに共通性を持っている。つまり、これらの“趣味・嗜好”に共通性があれば、間違いなく仲良くなれるし、一緒にいて楽しく、互いに相乗効果があり、その付き合いには永続性が認められる。その髪型も含めてのファッションは“生活感覚の一致”で、同じことをしていても違和感を持たず、自然に協力し合う傾向になる。同じ“飲食物”を欲するのは“肉体感覚の一致”で、男女間では“性的相性”と深く関わっている。男女間以外では“行動面で一致”するので、仲間として一緒に仕事をしていくのに大変有効となる。“音楽的な趣味”が一致するのは“思想・感性の一致”で、生活していくうえでの対応や方向性に一致点があり、考え方に違和感を持たない。つまり、相手の日常を何気なく観察していれば、その人との相性が良いかどうか、占いに等頼らなくても、解ってしまうようにできているのだ。

操り人形となった「SMAP」と「日銀」

2016-05-03

「SMAP」と「日銀」を並べて、その共通性がすぐにピンとくる人は素晴らしい“感覚”の持ち主である。この両者がとった行動には共通点があるのだ。それは「国民みんなから好かれたい」という、八方美人的な“アイドル思考”である。けれども、所詮“みんなから好かれる”などということはありえないし、“大の大人”がそういう考え方をすること自体ちょっと“気持ち悪い”。けれども“アイドル”なら、それが許されるのだ。ただ「SMAP」も、もう“アイドル”として扱うには年齢が行き過ぎたし、「日銀」はなおのこと一番最初の“黒田バズーカ砲”の時だけで、“アイドル時代”は終わりを告げている。両者とも、もう「国民みんなから…」という発想を止めて、自立した“考え”や“生き方”を表さなければならない時期に来ている。もちろん、国民の中には未だに「アイドル」であってほしいと望む人たちもいる。“過去の幻影”に縋って生きている人達だ。けれども、世の中は日進月歩で移り変わっていて、その最前線にいるのが「TVタレント」であり「日銀」なのだ。「操り人形」は、遠くから見ると確かに美しい。けれども接近すると、常に黒子たちが右往左往していて慌ただしい。もうそろそろ独り立ちして、つまり“国民の顔色”など窺わないで、自立した思想で歩み始めても良いのではないか。自立に失敗した「SMAP」は、おそらく“二派”に分かれるだろうし、自立に失敗した「日銀」は、私がかつて予言した如く、“急激な円高”と“急落の株安”に見舞われた。そんなことは3月の時点で分かっていたはずなのに、“国民の顔色”を窺ったから失敗したのだ。

世にも恐ろしい「アルビノ」の呪術

2016-05-02

世の中にはさまざまな「呪術信仰」や「迷信」がある。アフリカ南東部一帯に存在している「アルビノ呪術」信仰もその一つだ。「アルビノ」とは、“先天性色素欠乏症”とも“先天性白皮症”とも呼ばれるメラニン色素が欠乏した病気で、アフリカで黒人から生まれているのに“白人のような肌・髪・眼球”として成長していく人々のことである。こういう生まれつき「色素の乏しい子供たち」が、例えばマラウイ国には1万人もいる。つまり黒人なのに“色が白い”のだ。“白髪”の場合もあり、“金髪”の場合もある。黒人社会において“白い肌”は目立つ。それは古代から“呪術の対象”となった。古代中国でも先天性の“奇形児”は“天の御使い”とされていた。同じような慣習が、アフリカ南東部にあったに違いない。タンザニア国の呪術師は、アルビノの手肢の骨と臓器と血液を調合して「お守り」をつくる。この「お守り」用として、アルビノの“手肢”が必要なのだ。近年、それは高騰し、高値で取引される。さまざまな地域で殺害事件が起こり、国連の調査チームが現地調査に赴いた。その矢先に21歳のアルビノ女性が男10人に襲われ、手足の骨8個を取り除いた後で袋詰めにされ、土に埋められた。その主犯格は彼女の叔父であった。アルビノ事件に関連して、警察は最近になって心霊治療師や予言者と称する輩225人を逮捕したケースもある。「アルビノの骨は大金をもたらす」という噂が無くならない限り、この種の事件は続いていくだろう。

「強固な目的」は“障害”や“失敗”を恐れない

2016-05-01

人は「これだけはどうしても成し遂げたい」という一途な思いを持った時には、あらゆる“障害”や“失敗”を恐れなくなるものです。どうしても成し遂げなければ“死ねない”というほどの「強固な目的」には、本人も気付いていないほどの“生命力”が潜んでいるからです。通常、考えれば「不可能」に思えるような状況でも、その思いが強固である場合は“何が何でも…”という意識の方が先に立つため、不可能という“選択肢”が最初から消えているのです。どうしても“やり遂げなければ…”という意識だけが“そこ”にはあって、それ以外の“未来”が見えないから途中であきらめることもなく、投げ出してしまうこともなく、這いつくばってでも“そこ”に辿り着こうとするだけです。周りがあっけにとられるほど積極的であり、がむしゃらであり、情熱的であり、忍耐強いのです。そうすると周りも次第に協力的になり、諸条件も変化してきて、閉ざされていた門も開くような状況へと変化していくのです。最初、客観的に見れば「不可能」でしかなかったことが「可能かもしれない」に変わり、やがては「達成」の二文字へと変わっていくのです。もっとも、その強固な目的は、その人にとって“掛け替えのないこと”であり、時には“命を投げ出す”ほどのことであり、どんなにお金や時間が掛かっても“後悔しない”ことであることが条件です。そういう「鉄のような意志」を持った“具体的な目的”は、あらゆる“障害”や“失敗”を恐れないし、最終的に突破して「目的」を達成するのです。

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