12月, 2016年

2017年1月の運勢

2016-12-31

「正解」は“潜在意識”が知っている

2016-12-30

人生には誰でも“すぐに回答が出せる問題”と、本当の“答え”がどこにあるのか中々つかみにくい問題とがある。その“回答の難しい問題”を与えられた人は、人生の一時期を、その問題で懊悩し続ける。時には人生の多くが“その問題”に費やされていく。しかも、実際には“誰にも解けない問題”であることもあれば、“答えが幾通りもある”ケースも存在している。多くの人は懊悩しながらも、漠然と“これは自分の人生に与えられた課題なのだ”と察知する。自分以外に“答え”を求めても、すっきりとした回答を得られにくいことを、本能的に知っている。そこまではたいていの人が辿り着く。問題は、そこからなのだ。人は“ふたて”に分かれる。つまり“正解など見つけられない”と投げ出してしまうタイプと、一歩、一歩、“正解に近づいていこう”とくらいついていくタイプだ。実は、その回答を知っている「唯一の人」がいる。それは誰あろう“自分自身”だ。自分自身の“潜在意識”こそ、唯一の“正解”の持ち主なのだ。われわれは普段“顕在意識”と共に暮らしている。それは“自覚している自分”という意味であり、“左脳的な自分”と表現しても良い。けれども、本当は“そこだけ”で暮らしているわけではない。時に“無意識の…”と表現される、或いは“本能的な…”と表現される「もう一人の自分」と一緒に生きている。厳密に言えば、あまり“一緒に居る”感覚を持たないのだが、それでも“本当は一体化している”ことを何となく自覚している。“顕在意識”を使って暮らしているときには、ほぼ“眠ったような状態”で、表に出てこないのが“潜在意識”なのである。けれども、本当に眠っているのかというと、実はそうではない。必要な時には“不意に表に現れる”正義の味方なのだ。絶体絶命のピンチになった時、われわれは“本能的な行動”をとる。それによって“窮地から逃れる”ケースは多い。この“本能的な行動”こそ“潜在意識の正体”なのだ。だから、どうしても“正解”に辿り着きたいときには、日常的な意識を捨てて“本能にゆだねる”のが一番なのだ。この“ゆだねる”という感覚に至った時、おのずと“正しい答え”が見えてくる。

「残業」を“美徳”とする最悪な慣習

2016-12-29

私が“会社勤め”から離れて三十年以上が経った。だから現在の一般的な企業に対して、私の体験や記憶が当てはまるかどうかは分からない。けれども見聞きする限り、日本の企業体質はそれほど変化したようには見えない。日本の企業、及び日本人サラリーマンの「残業」に対する捉え方に、納得しがたいところが私には最初からあった。だから、私は余程のことがない限り残業をしなかった。もちろん、上司や同僚は“白い眼”で見た。その代わり、極力、残業しなくても良いように勤務時間中は“休まず”働いた。それが私の“会社勤め”に対する考え方であり、“白い眼”で見られようと、なんと言われようと、それを押し通した。「それは日本のサラリーマンの考え方じゃないよ」ともよく言われた。けれども、結局、そういう日本人の「残業」を“一種の美徳”とするような奇妙な慣習が、今回の電通のような“残業自殺”を引き起こし、“労働基準法違反”と“社長の引責辞任”へと行きついたのだ。日本企業の多くは“自分のところじゃない”と高をくくっているが、実際にはほとんど同じような働き方が当たり前のように行われている。しかも「サービス残業」という信じがたい言葉まで使われている。本来なら「残業」そのものに対する“考え方”を変えなければいけないのに、そこには“目を瞑ったまま”なのだ。本来、企業は通常の勤務時間で処理しきれない仕事が続いた場合は、新たな人手を求めなければならない。改めて言うまでもないことだ。もちろん、仕事内容によっては、夕方になって忙しくなるとか、緊急に処理しなければならない仕事が多いとか、その人でなければ扱えない業務だとか、単純に“人を増やせば済む”というケースばかりでないのは理解できる。ただ、明らかに一日では処理しきれない量の仕事を扱わせる企業を、放置しておく労働基準監督署の在り方にも問題がある。もっと明確に罰して、そういう企業を減らすよう仕向けなければならない。まあ、今は“外資系”という手もある。とにかく「残業」は“美徳”などではない。

「カジノ法案」が“依存症”の人達を救う?

2016-12-28

世の中、何が“最終的な救い”になるのか、わからないこともある。国会で大揉めの末“カジノ法案”が通過した。それによって“依存症対策”がクローズアップされ、昨日初めて“ギャンブル依存症対策推進本部”なるものの第一回の会合が開かれたそうだ。そして、当然のことながら本格的な実態調査に乗り出すことが合意されたらしい。あれ? なんか、おかしい。確か、皆さん「依存症になる人が出て来るから反対!」とか言っていたような気がするけど、まだ“その実態”もつかめていなかった? そうすると、もし、この法案が通っていなかったら、“実態調査”も“対策”も何一つなされず、放っておかれたってこと…なのか。あれだけ、声高に反対していた人たちは、実は“その実態”など全く知らず、その“対策”にも興味などなく、実際には“依存症になりそうな人たち”のために反対していたわけではない…という解らないことになってしまう。つまり、本当は今現在の“パチンコ依存症”や“競馬依存症”等の人達に対しては、何ら興味のない“冷たい人たち”だったということになる。“カジノ法案”が通っていなければ、彼らは“放っておかれた”に違いないのだ。今現在“依存症の人達”は、そういう点からいえば、この法案を通してくれた与党の人達に感謝しなければいけない。国を挙げて“対策”を講じてくれるからである。実際、どの依存症でも、依存症の人達は“規制をかけてくれた”方がそれを止められる。自主規制が利かないから“依存症”という病なのだ。ただ問題は、どこからが“依存症”で、どこからが“ギリギリセーフ”か見極めが難しいことである。何しろ、ギャンブルは“負ける”だけでなく“勝つ”こともある。もしも、3回に1回くらいの割で勝っていれば、仮に毎日のように通ったとしても、それで生活に窮することはない。その人にとっては“ギャンブルなしの人生は考えられない”という状態でも、勝率が高ければ生活が崩壊してしまうことはない。その場合、“依存症”ではあるが“生活は成り立つ”という奇妙なことが起こり、趣味や職業として何ら支障なく人生が送れることになる。つまり、最初から「救い」など、必要としていない“依存症”の人達もいるのだ。

「マナー」も大切だが「対策」も必要

2016-12-27

このところ新千歳空港はホテルのようなありさまで、のべ1万1600人が空港内で寝泊まりする羽目になったらしい。そこで、どうしてもこういう問題が起こる。飛行機が欠航するということに怒って、中国人客たち100人ほどが騒ぎ出し、ゲートを勝手に潜り抜けるものも出て来て警察官と衝突し、一時、大騒ぎになったというのだ。実は前から、私はこういう事態がそのうち起こるのではないだろうか、と危ぶんでいた。というのも、今回は全国的にも大きく報道されたが、それほど大きく報道されていない“予想外の欠航”が新千歳空港では大変に多いのだ。つまり極端に“悪天候に弱い空港”なのである。今回もいくつかのコンサートなどが急きょ中止になったが、日本人は総じて「マナー」が良いので“抗議”しないが、客観的に観て抗議されても仕方がないようなケースが多い。つまり、こういうことは“今に始まったことではない”ということである。にも拘らず、その対策が一向に講じられていない。増えてきた訪日客にこたえるため、新千歳空港の拡張工事が行われることは知っているが、冬場に多く発生する「欠航」に対しての“対応策”は決して十分とは言えない。確かに毛布などを貸し出して、空港内を開放し、寝場所を与えて対応してはいるが、それはあくまで応急措置で、もっと根本的な対策が必要なのだ。なぜなら、ここは北海道で、いくら毛布を貸し出しても南国から来ている人たちには“寒い”に決まっているからだ。近隣にホテルでもあれば別だが、空港付近にはホテルがない。札幌でさえもホテルは不足している。“雪まつり”の時など、足りてはいないのだ。訪日観光客を取り込むのは良いが、その前に必要な対策を準備しておかなければ、今回のようなトラブルは再び起こる。それも、単なる“小競り合い”程度ではなく、もっと大掛かりな暴力事件とか空港施設の破壊とか、そういうことにまで発展する可能性だってないとは言えない。大きな事故が起こってからでは遅いのだが…。

“花田兄弟”を連想させる“浅田姉妹”

2016-12-26

ふと、懐かしい映像を思い出す。相撲の世界で“若貴兄弟(花田兄弟)”が絶頂期にあった頃の“仲睦まじく見えた兄弟”の姿である。あの頃、まさか“憎しみ合う兄弟”になるなど、誰が想像しただろう。人生はわからない。もちろん、“浅田姉妹”とは“阿佐ヶ谷姉妹”ではなく、フィギュアスケートの“浅田真央・浅田舞”の姉妹のことである。つまり、私には“若い頃の相撲兄弟”と“若い頃のフィギュア姉妹”とが、重なって見えるのだ。もちろん、それは“今現在”を指して言っているのではなく、将来の姿を幻視して言っているのだ。そして、そうならないことを祈るばかりである。この二組の兄弟には“共通項”が多すぎる。十代半ばから、“とびぬけた才能”と“可愛らしい笑顔”とがあり、華やかな栄光と人気を得ていた。“理想的な兄弟”のように、世間には見えた。けれども、本人たちには比較的早くから確執があった。弟や妹の方が“絶対王者”であり、兄や姉の“本当の興味”は他にあった。性格的にも、明らかに違っていた。さて、浅田姉妹の方は、今後、どうなっていくのであろうか。もちろん、浅田真央選手は一応“現役続行”するだろうが、落ちていくばかりである。そんなことは本人だって知っている。けれども、CM契約が残っているから、今すぐ止めるわけにはいかないのだ。それに“妹”はスケートが好きなのだ。“姉”のようにはなりたくないのだ。その“姉”は麻薬Gメンからマークされている。元々、真面目に練習するよりも、夜の“世界探訪”の方が、姉は好きだったのだ。「普段はノーパンです」と公言する姉は、妹にとっては“一緒にされたくない相手”であるに違いない。けれども、世間は“別々の女性”とは見ない。なぜなら、十代の頃を誰もが知っているからだ。十代半ばから、世界の“檜舞台”に登場することは、“幸運な人生”といえることなのであろうか。

「ナザレのイエス」という男

2016-12-25

手相には「神秘十字形」と呼ばれる“十字”の形状が出現することがある。私自身にも“それ”はある。通常、キリスト教のシンボルとして「十字架」が描かれる。掌のほぼ中央に出現する“十字”の印は、けれども、キリスト教やユダヤ教には何の関係もない。宗教には“無縁の十字”である。私自身も“キリスト教徒”ではない。ただ、この“神秘十字形”を持っている人の多くは、“宗教”や“占い”や“心霊”に何らか関係のある人生を歩む。そういう風に出来ている。多分、だから「神秘十字形」なのだ。クリスマスは伝承的には「イエス・キリストの誕生祭」ということになっている。実際には、この日に産まれたという保証はないが、その当時「ナザレのイエス」と呼ばれた男がいたのは事実である。なぜ、そう呼ばれたかというと、ナザレの街に育った大工職人が「イエス」という名だったからだ。ごく平凡な名として「イエス」はあった。つまり「札幌の太郎さん」と呼ぶのと同じような呼び方で「ナザレのイエス」と呼ばれていただけの話である。そのイエスが、30代前半で“政治犯”として捕まり、布教活動の中で“民衆を扇動した”ということで“十字架刑”に処せられた。この十字架刑も、当時としては“特異な刑”ではない。角材に“磔となったイエス”は、多くの民衆から罵倒された。薄れゆく意識の中で、イエスは力なく叫んだ「我が神、我が神、どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか」それは『詩編』の一説の朗誦だったが、死が近づいたイエスが、神に“恨み事”を叫んでいるようにも見えた。生前“イエスの奇跡”など何もなかったが、裏切った弟子たちは、彼の死後、自責の念に駆られて、彼の真摯な教えを広めようとした。それだけの話だった。パンは、いきなり増えたりはしなかったが、彼はいつでも、それを“平等に分けようと”努力していた。

「クリスマス」の形が変わっていく

2016-12-24

私が若い頃、クリスマス・イヴというのは“特別な日”だった。少なくとも当時の日本では“愛を育む日”として定着し、街は“男女のカップル”であふれていた。ほとんどの若者は、即席も含めて“男女カップル”を成立させていて、それが出来ない若者は“白い眼”で見られた。だから、若者たちはクリスマスまでには何とか“相手を得たい”と願ったものである。ところが、今や事情は全く異なる。クリスマス・イヴだからと言って“カップルでなければ…”などという意識は消え、平然とした“おひとりさま型クリスマス”が増えているらしい。アンケート調査によると、実に20~30代の若者たちのうち半分以上に当たる52%が「一人ぼっちのクリスマス」なのだそうだ。“男女カップル”で過ごすクリスマスは25%にしか過ぎない。確かに半数以上が“ひとり”なら、何も焦る必要はないわけだ。それに“白い眼”で見られることもない。実は“クリスマス商戦”も、そういう若者たちをターゲットにすべく様変わりしつつあるのだという。街全体が「一人ぼっちにやさしいクリスマス」へと変化したのだ。クリスマス・プレゼントも“自分へのご褒美”に変わりつつある。それは、それで“寂しい”ような気がするのは、私だけなのであろうか。小さな子供たちへの「サンタクロースからのプレゼント」だけが、あの頃と同じように引き継がれている。私は娘が小さかった時、いつも枕元にプレゼントと“サンタからのメッセージ”を置いた。娘は“サンタクロースの存在”をずっと信じていた。娘が9歳の時、私は最初の妻と離婚したが、娘にはその時初めて“サンタクロースの秘密”を明かした。「だから、もう、今年からはサンタクロースは来ない」娘は何も言わなかった。ただ、ずっと私の眼を見ていた。

「東京都知事」という名の“崖”

2016-12-23

憶えているだろうか。都知事の小池百合子氏は都知事選の出馬にあたって「崖から飛び降りる覚悟で出馬した」とおっしゃっていたのを…。そして、その報道が流れた7月8日に私は「どうして誰も止めないのだろう。怪我をするではないか」と記した。崖から飛び降りれば、誰もが怪我をする。実際、猪瀬氏が怪我をし、舛添氏が怪我をした。就任当時、小池氏は輝いて見えた。けれども、ここに来て、どうも旗色が良くない。そういえば、小池氏は次期五輪開催都市の代表としてリオに行ったが、晴れ着は雨で濡れそぼっていた。築地移転の問題と言い、五輪費用や競技会場の問題と言い、どうも年末が近づいて来て、焦りの色が隠せない。まあ“崖から飛び降りた”のだから仕方がない。強力な“助っ人”がいれば良いのだが、どうもこの人、パラシュートを付けずに飛び降りたらしい。だから「怪我をする」と言ったではないか。「小池塾」の方も、講師として出るはずだった橋下氏がキャンセルするなど今一つ滑り出しが良くない。男性陣からの“厚化粧発言”で、逆に女性たちからの支持を一気に集めて当選した小池氏だが、元々“実務”の方は苦手なのかもしれない。そうであればなおのこと“助っ人”が必要だ。そうでないと、来年になって焦りと苛立ちが“予期せぬ怪我”を引き起こすことになりやすい。せっかく日本でも「女性王国」を出現させたのだから、永年「女性王国」を務めてきた北海道知事にでも学ぶと良い。かつての長野県・田中氏、大阪府・橋下氏が、小池氏と同じような“対決型”の知事だった。マスコミを味方につけているうちは良いのだが、マスコミの関心が薄れた時、必ず、苦境に立たされる。それをどう乗り越えるか、エジプトのエール大学を出ている小池氏は「イシス女神」に祈るしかない。

“自由を奪う社会”に進みつつある現代

2016-12-22

久しぶりにBSで放映していた昔の映画『眠狂四郎女妖剣』の録画を見た。市川雷蔵主演の時代劇だ。この映画に限らず、最近、昔の作品を放映する時、頻繁に出て来るのが「作品中、差別的な言葉や表現が出て来ますが、当時の原作を重んじそのまま放映します」といったテロップである。観終わっても、何が差別的なのか、本来は相応しくない表現なのか、よくわからない。とにかく近年は“差別用語”、“虐待シーン”、“殺害シーン”、“全裸シーン”、“個人情報保護”、“環境保護”など、ありとあらゆるものに規制が掛かっていて、自由に表現できなくなっている。つい最近も「魚のスケートリンク」が中止に追い込まれた。魚たちの“虐待”や“イジメ”だというのだが、どこが“虐待”なのか、私には分からない。札幌雪祭りでも、既に20年以上にわたって「魚たちの氷詰め」を展示してきていたのだが、来年からは規模を縮小して継続するそうだ。大体、20年間も誰ひとり異議を唱えなかったということは、誰も“そういう意識を持っていなかった”ということで、その方が自然な発想だからだ。もし、それを“虐待”というなら、魚そのものを食さなければ良い。大体、今でこそ少なくなったが、昔の夫人たちは“平気で魚を殺し”調理していた。“虐待”というより“殺害”で、さらには“生きていたもの”をすぐに食する刺身など、残酷以外の何物でもない。もともと“新鮮なものを食する”といって、虫も殺さぬ顔した女性たちは“野菜”という植物の命を“生きたまま食する”ではないか、私はだから“火を通して死んでいる”野菜の方が好きなのだ。ともかく、現代はあまりにも規制が掛かりすぎている。だから映画にしろ、TVドラマにしろ、小説にしろ、舞台にしろ、不自然で表現力の乏しい作品しか作れない。作品中、眠狂四郎は「バテレンなど信じるから、そういうことになる」といった。もしかすると、これが“差別用語”なのかもしれない。けれども、江戸時代において武士がそう思うのは当然なことで、もし武士が“キリシタン”を擁護したとしたなら、その方が当時としては不自然な行為だ。もっとも、眠狂四郎はその“バテレンの血”を引いた剣士なのだが…。 

暦の誕生は「冬至」から始まった

2016-12-21

われわれは誰でも、この季節になるとクリスマスとか正月とかを意識する。そして“今年一年”を振り返り、“来年”というものを漠然とではあるが意識する。奇妙なことに、時代が進んでも“一年の区切り”の意識は変わらない。なぜか、年間の区切りの時期は“夏”ではなく、“冬場”なのだ。この奇妙ともいえる“切り替えの意識”は、一つには“冬至の現象”によってもたらされる。「冬至」とは、24節気の一つで“一年中で最も日照時間の少ない日”のことを言う。今日が、その「冬至」である。誰もが感覚的に正月が近くなると「日が短くなったなぁ」と感じる。暗くなるのが早くなり、明るくなるのが遅くなる。それは毎年、必ず同じころに訪れる。そして、当たり前の話だが「冬至」が過ぎると徐々に日が長くなるので、“春に向かっていくような気分”になっていく。そこに「年始」が置かれているのは、中々合理的ではある。実際の季節は、これからが“冬本番”で、とても「春」などという感覚はないが、それでも“新春”と言い、“迎春”と言うのは、われわれが“気温”に反応しているのではなくて、“日照=光”に反応しているからに違いない。それは、古代人も同様であった。だから、古代人は“光で季節を区切った”のだ。「24節気暦」が誕生したのは、今から3000年位前になる。最初は“二至・二分”といって“冬至・夏至・春分・秋分”の4つだけが発見された。次が“四立”といって“立春・立夏・立秋・立冬”が定まった。この“二至・二分・四立”を「八節」ともいうが、これが24節気の基なのだ。だから、24節気というのは“太陽暦”の一種で、決して“太陰暦”でも“昔の暦”なのでもない。同じ日でも気温は毎年変化するが、光の時間は一定である。だから合理的な“季節の区分”は「節気暦」のほうにある。もし、気温で区分けするとしたなら、その年によって、或いは地域によって、季節が異なってきてしまう。光を基とすることで“科学的な季節分け”となるのだ。そう、古代人はわれわれよりも、ずっと“科学的な意識”の強い人たちだったのだ。

「覚せい剤入りのお茶?」という“捜査ミス”

2016-12-20

覚せい剤で逮捕されたはずのASKA容疑者が不起訴・無罪釈放となった。このニュースどうもおかしい。“陽性反応”が出た尿鑑定に対し、本人が「自分の尿ではない」と主張「お茶を入れたのだ」と言い張って、それを検察側が崩せなかったことで不起訴となってしまったらしい。彼は捜査員に対して、自宅での採尿であれば応じる…ということで自宅トイレで採尿したらしい。通常は、その場合でも不正がないか確認しながら行われるらしいのだが、今回は“その部分”が甘かったようなのだ。そうでもなければ「お茶を入れた」という不自然な言い訳がまかり通るわけがない。しかも、その“お茶”から陽性反応が出るなど誰が考えたっておかしい。“覚せい剤入りのお茶”が売られていて、それが自宅のトイレに置いてあって、おしっこの時に股間の下で注ぎ入れました…なんて面白すぎだろう。けれども、そんな“面白い話”でも、それを反証できなければ、不起訴にせざるを得ない。ASKA容疑者は「自分を信じてくれてありがとう」とファンに述べたようだが、本当に自宅で採尿をし、それから陽性反応が出て、それを“お茶”と主張しての釈放ならば“限りなく黒に近い灰色”で「信じる」などというレベルではない。そこで、もう一つ考えられるのは、彼は実際に自宅で採尿をしたが“陰性反応”だった場合だ。この場合なら「信じてくれてありがとう」は理屈が通っている。しかも、この場合は“誤認逮捕”ということになる。自宅などから“吸引機”などの証拠品が出て来ると期待しての逮捕が、実際には何も出てこなかった。そうなると“陽性反応”でなければ逮捕はできない。そこで“陽性反応”ということにしたが、彼がかたくなに“使用を認めなかった”ので、裁判に持ち込んだ場合、明らかに誤認逮捕だったことが問題となるので、今のうちに不起訴とした…どちらが真実なのだろう。

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