「定年後は海外で暮らす」と夢見る人たちは多い。実際、その言葉をそのまま実行している人たちも多い。確かに地域にもよるが、同じ“年金生活”でも、国内に居るのと、海外で暮らすのとでは経済面で雲泥の差がある。インドネシアのバリ島は、そういう人たちに人気のエリアだ。けれども、海外生活には当然のことながらリスクも付き纏う。中でも“言葉の問題”と“治安の問題”は見逃せない部分だ。街中では英語が通じる国であっても、ちょっと郊外に入ると通用しなくなる国もある。同じく“治安”も街中なら一応安心でも、ちょっと街から離れると保証できなくなる。インドネシアなど、そういう意味で正にドンピシャの国なのだ。バリ島は道路が狭く信号のついていない場所も多い。街中以外では、急に襲って来るスコールから身を守ることも大変である。島の人達は、総体的に日本人には親切だが、観光で成り立っている地域だけに、大金を持ち歩くのは危険な場合も多い。そのバリ島のジンバランで移住していた70代の日本人夫妻が殺害された。彼らには48歳の養子男性が居て、その男性からの通報で二階寝室から遺体が発見された。住宅火災での通報だったのだが、どうやら殺された後に火が放たれたらしい。遺体解剖の結果、首と背中に刺し傷があり、浴室から引き摺られて二階に運ばれた形跡も存在した。明らかに手の込んだ計画的殺人のようである。近所に住む日本人によると、殺害された夫妻は近隣の人達との交流がなく、ひっそりと暮らしていたらしい。「海外移住」は、どの国で暮らすにせよ、近隣住民たちとの交流を抜きに生きていくのは危険である。外国人が嫌なら、現地に住む日本人たちとでも良い。交流は何かが起こった時の“情報”や“協力”を得るうえで欠かせないものだからだ。極端なことを言えば、そういう交流を好まないなら、海外移住はしない方が良い。どうも殺害された夫妻は、孤立していたような気が私にはするのだ。そして、だから“狙われた”ような気がするのだ。元々「海外移住」が向いていないのに、海外で暮らそうとしたような気がする。ひっそりと暮らしたい人は“年金生活”になって地元から大きく離れるのは“危険がいっぱい”なのだ。
プロレスラー高山善廣氏が頸椎損傷により救急搬送されたのは今年5月4日のことである。以前にも試合で脳梗塞を発症し、その後、回復した経緯があるだけに今回も期待されたが、事務所を通じて“回復の可能性がない”見通しであると報道された。要するに「首」から下の感覚がないらしいのだ。親友・鈴木みのる氏が号泣するほどの状態なのだろう。格闘技はどれも「怪我」と背中合わせの職業である。おそらく全く怪我をせずに仕事を続けている方はほとんどいないのではないだろうか。怪我だけなら、まだ良い。時には「命」さえも失われる。日本では、プラム麻里子、門恵美子、三沢光晴などの諸氏が試合直後に死亡している。安川悪斗さんは顔面をボコボコにされ、ハヤブサ氏は半身不随となり、本間朋晃氏は脊髄損傷して現在も治療中である。このような職業を選ぶからには、よほど体力や腕力に自信がある人達なのだろうと思いがちだが、意外にもひ弱だった人が多い。高山氏も物心ついた時から小児喘息で、そのために子供の時から体を鍛えようとしたらしい。喘息は大人になって一時期治まったが、プロレスラーとなってストレスが溜まって再び発症するようになった。だから吸入器が欠かせない。一時期は脳梗塞にもなって、この人、病気には弱いようだ。そのホロスコープを見ても太陽と土星とが180度で向かい合っている。土星は「悪魔の星」で“悪役”向きではあるが、持病を持ちやすい配置なのだ。とてもプロレスラーは勧められる職業ではない。四柱命式で見ても「七殺」が強い。その生涯において、手術を伴う大きな病気や怪我などの多い人につく星である。しかも、今年は、その七殺の年なのだ。“不死身のレスラー”は、もう一度、奇跡を起こして蘇ることが出来るだろうか。
そういえば最近、多くなった。自動車内で暮らしている若者たちだ。もっとも、これは日本ではない。アメリカの話だ。現在18歳~35歳の世代の74%が賃貸住宅で暮らしているらしい。けれども、その賃貸住宅の価格が近年、高騰しているのだ。そうなると、どうなるかというと、高給取り以外は街中で暮らせなくなる。そこで登場してきたのが自分の車を住宅用に改造してしまい、そこを本格的な住居として暮らし始める方法だ。けれども、彼らは必ずしも、家賃が払えないから車で暮らすのではない。高い家賃を払うよりも、自分の趣味や旅行などにお金をかけた方が良い、という価値観の持ち主なだけだ。ホームレスとなったから車で暮らすのではなくて、車を改造して“自分の部屋”にしてしまったから、もう住居はいらない…という人達なのだ。だから低所得者層よりも、中産階級の「新住居形態」の一つとして“家を所有しない”という価値観が広がりを見せている。但し、そういう生活を十数年続けて、或る程度の年齢になって、賃貸マンションに戻っていく人たちもいる。だから、或る意味では「若者の新住居形態」と言い直した方が良いのかもしれない。アメリカの集合住宅そのものも、リーマンショック以降はシェアハウスが多くなり、或いは極小スペースのマンションが多くなっている。住居としての車内は、多くの場合はキャンピングカーとか、大型車の後部座席を改造したもので、日本製の“小さな車”は住居向きではない。そういう意味では、日本でもやがて“そういう人達”が増えていくかは微妙である。ただ「ミニマリズム(最小限主義)」という思想も加担していることは否めない。日本的にいえば「断捨離思想」だ。極力、必要なものを持たない“生き方”だが、これは誤解を招きやすい思想で、元々が“物質欲”や“独占欲”の強い人が行うと大変効果的な“生き方”なのだが、そういう欲求が強くない人にとっては“逆効果”で哀しい結果を招くこともあるから注意しなければならない。
私は「ユーチューブ」というものを滅多に見ない。だから、どういう人たちが活躍しているのか、どういう形で注目を集めているのか、ほとんど知らない。ただ彼らの中には芸能人顔負けの人気と収入を得ているものがいるらしいことは知っている。その代表的な日本のユーチューバーの一人が「ヒカル」だ。現在、チャンネル登録者数が240万人もいるらしい。それによって莫大な収入が入って来るのだという。ただ、この人物、最近、評判がよろしくない。「VA(仮想株式)」というものを上場し、それを“売り抜けた”疑惑がもたれているのだ。実際、売り抜けたことで何千万もの収益を得たので「詐欺罪に当たるのではないか」という指摘もある。本人は、意図的にだまそうとしたのではなく、注目されたかっただけだ…と否定している。その辺は微妙で、私には何とも言えない。ただ一気にメジャー化し、プロ化してきた「ユーチューバー」という妖しい職業の「闇」の部分に光が当たったことで、“ユーチューブ世界”が軌道修正されていくなら大変に望ましいことだと思う。大衆は流されやすい。世の中で一気に人気を集め、一気に大金が動くようになるものは、必ずと言って良いほど“逆回転”の時期が来る。「運」というのはよくしたもので、それが一気に訪れた流行色の強いモノであればあるほど、必ず「しっぺ返し」のような時期が来る。したがって流行に火がついて、一気に“人気”と“大金”を得た者は、それに浮かれることなく真摯な“生き方”をしていかないと、必ず、後で後悔するような“落とし穴”が待っているものだ。「人間万事塞翁が馬」と言う諺がある。要するに、幸運だと思ったことが災いを招いたり、逆に災いだと思ったことが幸運を呼ぶこともある、という中国の古典に由来した諺である。そして、そういう不可思議な真実があるからこそ、人生は素晴らしい。なにが「幸運な人生」かは誰にも言えないのだ。
「はとバス」といえば“東京観光”の定番として知られる。私も大昔、利用したことがある。その時は何となく“古めかしい”印象を持った。確かに東京の主要スポットを巡るので、効率は良いのだが今一つ盛り上がらない。個人で乗ったせいもあるのだろうが、車内もシーンとして“何かが違う”ような気持ちが最後まで抜けなかった。ところが、近年「はとバス」が見事に蘇ったと噂されている。実際、数字的にもバブル期並みの乗車人数なのだ。昨年は93万人が利用している。しかも、それは“外国人観光客”が利用しているからではない。日本人の観光客、或いは地元・東京に在住している人たちでさえ競って利用し始めているのだ。特に予約しなければ絶対無理なのが、午後7時からの2階建てで屋根がない「オー・ソラ・ミオ号」という「はとバス」である。夜のライトアップされた景色が、通常の窓だけでなく、頭上にも広がる。今まで“見たことがない光景”を疾風と共に体験することが出来る。ライトアップされた国会議事堂は異国の建物のような印象を与えるし、夜の東京タワーはすぐそばを通るだけに大迫力で迫るのだ。「灯台下暗し」という言葉があるが、日本人はとかく“身近な観光”を忘れがちになる。私など、地元の「札幌雪まつり」は歩いて行けるのに、ライトアップされた夜に出向いて観光したことがない。考えてみればもったいない話である。ただ造りかけの雪像の近くを通ったりするので、改めて見物する気になれないのかもしれない。「はとバス」観光は、東京在住の人が見ても感動するのだから今後ますます人気が高まっていくだろう。少なくともニューヨークの変なパフォーマンスのバスツアーより感動的である。そう東京は住むところではなく“観光するところ”として、日本人たちに「はとバスツアー」が異常人気となっている…と海外のマスコミに不思議がられる街と化していくべきだ。
よく「運命の出逢い」という言葉がドラマの世界などで語られる。そういうものは実際にあるのだろうか。私は自分の経験上からも、占い師としての経験上からも「ある」と断言する。極端なことを言えば「運命の出逢い」だらけである。もちろん、恋愛や結婚の出逢いだけではない。人と人との出逢いだけでもない。さまざまな場面で「運命」としか呼びようのない“出逢い”は存在する。そういう意味でも興味深い話題が海外にある。アメリカのケビン・ウォルシュ氏は13歳の夏、初めてサマーキャンプに参加した。そして、同じく初めて参加したブレイクさんと出逢った。参加している女の子の中で“一番かわいい”と思ったが、自分からは声を掛けられないでいた。ところが、そのブレイクさんの方から「あなたには黒がとっても似合っているわよ」と話しかけてきたのだ。二人はたまに連絡を取り合うようになった。ただ学校を卒業して、二人ともキャンプには参加しなくなって、いつの間にか連絡も途絶えてしまった。5年後、18歳になってケビン氏はうつ病となってしまった。世の中すべて無意味に思え、遺書を残し、自殺しようとした。そして手首を切ろうとしたその時、携帯電話が鳴った。躊躇していると電話は切れた。誰だろうと電話を入れると、ブレイクだった。実はブレイクの方は、自分から電話した記憶はない。ただ学校の帰りに電話が掛かってきて、その声が久しぶりのケビンだと知り、しかも「自殺しようとしていた」という告白を訊いて必死で思い止まらせた。それがきっかけになり彼らは再び連絡し合う仲となり、徐々に友情から愛情へと変わった。そして、ケビンが出張先のスイス迄来てくれたブレイクにプロポーズ、翌年、晴れて結婚した。ケビンは電話が来たので、折り返し電話してみたといい、ブレイクは自分からは電話していないというが、その記憶の違いは「キューピットの着信」だったからかもしれない。
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