女性雑誌には、時々“婚活”とか“結婚”に関してプロフェッショナルな立場からの意見が掲載される。或る雑誌に、現在「結婚相談所」を経営していて、婚活アドバイザーでもある植草美幸氏の話が掲載されていた。それを読んで「ナルホド」と思う部分もあるが、そうは思わない部分もある。ナルホドと思ったのは「本人にとって好きなタイプの相手が必ずしも良い結婚相手とは限らない」という意見。これはまったく、その通りであると思う。結婚相談所で“好きなタイプ”を見掛けから選んでいこうとすれば、失敗するに決まっている。結婚相談所は“恋愛相手を探す場”ではないからだ。次に、結婚相手を求めようとするときに“減点方式”で求めず、“加点方式”で求めるべきだという意見。これも適切なアドバイスで、結婚生活は“長い期間”になるものであることを想定するなら、減点方式の観方を継続すると、仮に結婚しても長続きできない可能性が強い。そういう意味でも“減点方式”で振り分けるべきではない。この二つが大いに共感する部分であった。ただ私は占い師であるので、婚活アドバイザーとは全く異なる“運命的な角度”からの観方も示唆しておきたい。運命家の立場から言うと、結婚には“四つのモノ”が関わっている。つまり、その人自身の“先天的な結婚運”、お相手となる人との“相性”、結婚にまでつながる“縁”、そして本人に備わっている“結婚期”としての時期、これらが絡み合うのが「結婚」というものなのだ。よく占い師の元を訪れ「相性を見て欲しい」という人がいるが、相性の“良い・悪い”だけで結婚は出来ない。恋愛は“相性”だけで成立するが、結婚は縁の“ある・なし”が関わって来るし、結婚にふさわしい個々の“婚期”というものが作用する。どんなに先天的な“結婚運”が悪くても、相手や時期を択べば結婚は出来る。但し、それが良い形で持続するという保証は出来ない。そういう意味では先天的に“結婚運”が良い人は、焦らなければ黙っていても相手が現れる。そして無理なく相応しい時期に結婚する。付き合っても、なかなか結婚できないのは、相性は良くても、相手との縁が乏しい場合だ。こういう場合は、結婚期さえ選べば結婚にこぎつけられる。これらの法則を活用しながら、上手に結婚相談所を利用すれば、もっともふさわしい相手と、もっとも相応しい時期に結婚ができるのだ。
テレビ朝日系で1月17日より「ハケン占い師アタル」というドラマが放映されるらしい。そのタイトルからも、何となく“占い師”という職業を“斜め”から捉えた漫画チックなドラマであることが窺われる。そのうち「ハケン宗教家オガミヤ」とか「ハケン政治家ドローン」とか、漫画的なドラマばかりが放映されるようになっていくのだろう。それを察知してのことなのか、北朝鮮では最近、占い師に対しての取り締まりが厳しくなって、迷信を流布した者は容赦なく“銃殺刑”か“強制所送り”にせよという通達が出されたらしい。実際に“公開処刑”された者もいると聴く。不吉な予言をする者を廃したい気持ちがわからないではない。死ぬまでに一度は観光してみたいと思っていた北朝鮮だが、着いてすぐ御用となって“銃殺刑”とか“強制所送り”となったのではたまらない。元々北朝鮮は中国に近く、占いは古代から盛んな地域性がある。共産圏はどこでもそうだが、基本的に“占い”のようなものは国家として認めていない。以前、ベトナムに行って書店を周った時、国家として“禁じている”筈の占い書籍が、書店中央近くの一角に大挙並べられていて驚いたことがある。しかも、それらはいずれも分厚くて、百科事典のような大判の書籍ばかりだった。世界いたるところ占い師もいれば、占い書籍も存在する。もしかすると北朝鮮でも、代々受け継がれてきた“特異な占術”などが眠っているかもしれない。もし“銃殺刑”になるなら、せめてそういう“占いの秘伝書”を見せて欲しいと懇願するかもしれない。そのためには金正恩氏の“変てこりんな髪型”でも、“ブタみたいなお腹”でも、“見えない部分”でも、何でも褒め称えるに違いない。「舐めろ」といわれれば、舐めるかもしれない。このくらい書いておくと、捕まらなくて済むだろうか。私が少年の頃憧れた手相家キロは、インドに行ってアーリア族の秘伝書を見せてもらったらしい。それは人間の肌に書き綴られた“手相図解”と解説で、古代から面々と一族に伝わってきたものであるという。ところが、この話、どうやら“眉唾もの”であるとアメリカの研究者が暴いている。世の中、何がホントで、何がウソなのか、未だに判らない。
以前から述べているように「姓名」の吉・凶は、多くの占い師が血眼になる“画数”にあるのではない。ただ“画数”はともかくとして、姓名が“個々の運命”に対して不可思議な作用を持っていることは事実で、その典型のようなケースが26日に公表された。それは三菱UFJファイナンシャル・グループの交代人事で、来年4月1日から現・社長が会長へと退き、新たに現・三菱UFJ銀行頭取である「三毛兼承(みけ・かねつぐ)」氏が、新たな社長として就くことになったからである。この人、なかなか“珍しい名前”をしている。パッと見だと、どこまでが“姓”で、どこからが“名”なのか判別しにくい。また読み方も「みけ・かねつぐ」とすんなり読みにくい。こういう名前は、だから最初は困惑するが、いったん憶えると忘れない。そこで本題なのだが「三毛」とは文字通り“三本の毛”であろう。もう少し言えば“三毛猫などのように異なった三色の毛”という原意となる。だが実際には、人間は毛の色が異なることはないので“三つの血統を引く”という解釈の方が真実に近いだろう。つまりは元々そういう家系なのに違いない。そして名の方は「かねつぐ」である。これは当て嵌める漢字を換えれば「金継」となって“金銭を扱う後継者”の意となる。彼は初代の社長ではなく、現社長から引き継ぎの社長である。現頭取という役職も、初代ではなく引き継いだ形で就任している。三菱UFJファイナンシャル・グループという企業は、当然グループ会社で元々は“東京三菱銀行”&“日本信託銀行”&“UFJホールディングス”という別々の銀行が一体化して出来上がった企業である。つまり“三つの血統”を引き継いで誕生した企業なのだ。もちろん、三毛氏は“三つの血統”を引き継ぐ企業に就職したわけではない。彼が役職に就くような時代になって変貌したのだ。そして、今回も、元々彼は社長と頭取を“兼務”していたわけではない。結果的になぜか来年4月からは“兼務する”形となった。そして名は「兼承(かねつぐ)」である。兼務することが義務付けられている名前だ。そして「承」には“継承”の意がある。つまり、彼は自らの後任に対しても、そういう形(兼務する形)を受け継がせることだろう。こうして“三つの血統”を引き継いで誕生した会社を、それも「金銭(かね)」を扱う会社を次期社長として“受け継ぎ”、さらに“頭取”と“社長”の二刀流を後任にも“受け継がせていく”役割として、まるで前世から備わっていたかのような形で、彼は誕生し、命名されたのだ。
私は時々、何が正しいのか、わからなくなることがある。「サンタクロースの正体」に関しては、今もそうだ。私は幼い頃、サンタクロースの“存在”を信じ切っていた。だから、いつもクリスマスが近づくと、サンタクロースさんに“願い事”を書いて靴下に忍ばせ、それを吊るしていた。母親は時々「じゃあ、サンタクロースさんにお願いしてみようか」といっていたからだ。そして指折り数えて眠ったが、なぜかサンタクロースさんは私の願いを聞き入れてはくれなかった。「ちゃんと書いたのになぁ」不満そうな私の顔を視て、母親は辛そうな顔をしていた。それでも母親は、私の枕元に、必ず“サンタクロースのプレゼント”を置いた。それはささやかなもので、決して私の“望んだもの”ではなかったのだが、それでも一応、毎年、サンタクロースはやって来た。私は、いつ頃「真実」を知ったのだろう。9歳前後だったような気がする。だから大人になった時、自分の子供の“願い事”は極力叶えてあげようと誓ったものだ。そして、そうしていたのだが、娘が9歳になった時、私は前妻と離婚した。その離婚の時に、私はどうしても子供に話しておかなければ…と思うことがあった。私は娘とふたりきりになって「サンタクロースの正体」を話した。そうしないと、毎年、娘に向けて書いていた「サンタクロースさんからのお便り」が無くなって、哀しい想いをするに違いないからだ。枕元に“プレゼントを置く”ことは出来ても、“なりきりの手紙”は書かないだろうことを察知していたからだ。娘は身じろぎもせず黙ったまま聞いていた。今年、アメリカのトランプ大統領は“サンタクロースの質問”をしてきた7歳の少女に対し「まだサンタクロースを信じているのか」と揶揄して、多くの大人たちから批判された。日本のワイドショーでも、コメンテーターとして出ていた奥山佳恵氏が「父親がサンタクロースだった」と明かし、幼い児と一緒に見ていた人たちから批判された。こうして、子供たちは或る日突然“夢の世界”から放り出される。スペインでは18年間にわたってカトリック教会の司祭として勤めていた人物が、実は司祭としての資格を持たず偽造書類であったことが発覚し、18年間に及ぶ“贖罪を許す秘跡”は無効である旨が信徒たちに通知された。神は“罪を許していなかった”というのだ。それにしても、偽りの司祭ミゲル・イバラ氏は自らの罪をどういう形で償うのだろうか。
昨日一日の間に“日経平均”は1010円下がった。一日で1000円以上も下がったのだから、ニュースでも大きく取り上げるのは当然である。けれども、あまりニュースでは取り上げられなかったが、実はここ何日もの間、日経平均はずっと下がり続けている。もう少し前から見ても、世界的に株価は下落し続けている。今年10月初めに27000ドルのピークを付けたアメリカのダウは、何の前触れもなく一気に下げ始めた。確かに昨年からダウは異様なほど“上昇”し続けていて、何となく奇妙な印象はあった。10月からの下落幅はダウの場合、大まかに言えば5200ドルである。この数字だけを見れば「日経平均と変わらないではないか」と多くの人は思う。なぜならその間、同じように日経平均は5300円ほど下がったからだ。ところが、長期的に見ると、そうではないことに気が付く。実は下落後の日経平均は2015年頃の株価水準に戻っているのだ。つまり3年分の株価上昇分が、この2カ月で一気に失われてしまったのだ。一方、アメリカはどうなのかといえば、昨年9月の株価水準に戻っただけである。この価格というのは、2015年頃に比べると4000ドルも上昇している。つまり、日本は2カ月で3年間の上昇分を失ったが、アメリカの場合は、2015年頃と比べて4000ドル上昇した付近に差し掛かった状態ということだ。しかも、日本株の場合は、何かしら日本国内に問題が起きて株価が急落したのではない。アメリカと中国との“貿易戦争”に巻き込まれた形で急落した。アメリカと日本の“二国間交渉”は実質的に来年始まるのだ。しかも、10月からの“急落の真相”がよく解からない。色々と理由を付けて解説されるが、ことごとく後付けである。私は以前、日本株の“急上昇”を予測し、それは見事に外れたが、全部が外れたのではない。その時、私は“急上昇”する条件として、“ドル円相場”と“原油価格”を指摘した。つまり、ドル円が117円くらいまで上昇し、原油価格が60~80ドルの間で安定していることを条件とした。ところが、その後、この二つの“条件”は完全に逆方向へと動き出した。ドル円は“ドル安方向”に動き、現在は110円台となってしまった。原油価格も60ドルを大きく割り込み、現在は42ドル付近にある。その時も書いたが、日本株は50ドルを割り込むと“欧州勢の資金”がいっせいに引いていく。だから急落するのだ。つまり、日本株が元に戻るためには、アメリカ株の上昇はもちろんだが、原油価格が早く60ドル台へと戻ること、そしてドル円相場で1ドル113円台に戻すこと、この二つが絶対条件となる。
占いを好む多くの人達は「先天運」というものを必要以上に“重く”捉えている。つまり、自分が“生まれ持った運”というのは、そう簡単に変えられないのではないか…という思い込みである。確かに、そういう部分もある。そして、そういう人達もいる。けれども、そういう人達ばかりではない。「先天運」をものの見事に跳ね返している人、少なくとも跳ね返そうと努力し続けている人もいる。「高部知子」という名前を聴いて、すぐに想い出せる人がどのくらいいるだろう。想い出せたとしても「わらべ」の一人で、“ニャンニャン事件”か何かで世間からバッシングを受けた女優…というような記憶が多くの人達の反応かも知れない。先日、私が何気なく購入した『エコノミスト』という雑誌の最新号に、その高部知子氏の連載エッセイが出ていた。書籍に関しての感想などを記したもので、元々が経済誌であるから、どちらかと言えば“硬い内容”の読書記録だ。そこには顔写真も掲載されていたが、正に「精神福祉士」らしい容貌の写真であった。その文章、その写真とも、歌手や女優の面影はなく、むしろ文化人というか、研究者というか、それこそ“病める人たちに向き合うエリート女医”のような印象を受けた。おそらく、彼女のことを知らない世代の方が読まれたなら、そういう風に受け止めたに違いない。実際、その名前自体が“硬い印象”の名前だ。だから「女優」よりも「精神福祉士」の方が、その名前からも相応しい。そのホロスコープや四柱命式はどうかといえば、“エリート女医”よりは“芸術家崩れ”とでも表現したいような星の配置である。つまり「積木くずし」で“不良少女役”を演じたが、正に実生活においても、それに近い要素が感じられるホロスコープや四柱命式なのだ。したがって、その後の彼女の人生、つまり“ニャンニャン写真”が撮られて「わらべ」ではいられなくなり、芸能界を去り、結婚して2児の母となり、コンビニ経営で失敗し、離婚し、再び結婚し、離婚し…と繰り返した。そこから「局部ピアス」の“全裸写真集”で芸能界に復帰する。まさに、このあたりが彼女の“先天運”としての“無理のない生きざま”なのだ。ところがである。ここから彼女は180度、自分の人生を切り替えるのだ。通信教育で慶応義塾大学を卒業し、さらに大学に入りなおして“国家資格”を習得する。やがて“薬物依存”の人達や“認知症”の人達に寄り添う「精神保健福祉士」としてのエキスパートに変わっていく。「先天運」に依存して生きようとする多くの人達に、それを“乗り越えた生き方”があることを、彼女は身をもって教えようとしている。
確かに“法律”がある以上、それには従わなければならない。異性との交遊関係で「現行犯逮捕」に踏み切るのはどういう時なのか。今回の場合、26歳の女性は、恋愛相手となった16歳の男子高校生を自宅に泊めていただけなのだが、たとえそれが“双方の合意”であっても「未成年者誘拐の罪」で逮捕されたのである。何しろ、警察が二人の寝床に踏み込んで来たのだ。う~ん、それってありなのか。もちろん、“あり”である。なぜなら学校にも行かなくなって外泊ばかり繰り返している息子を心配した母親が、何度か警察に相談していたからだ。その日も母親から連絡を受けた警察が、現行犯なら「未成年者誘拐」を適用できるとして、二人が愛し合っているところに踏み込んだのだ。おそらく、警察は何度も母親から詰め寄られて、重い腰を上げたに違いない。こうして10歳も年下の高校生を熱愛してしまった女性は逮捕され「俺は自分の意志で泊まったんだよ」と説明しても訊いて貰えなかった高校生は自宅に戻され、一見、落着したかのような事件となってはいるが、果たしてそうなのだろうか。この場合、法律的解釈では“16歳の少年”はまだ“親の保護下”にある。したがって、親の方が「息子が誘拐された」と主張すれば、そちらの主張を優先する。確かに、26歳の女性は“親の許可”を取って、少年を泊めていたわけではない。早い話、双方とも好きになって、一時も離れていたくなくて、半同棲し始めていた…というのが実情だろう。これが男女が逆で、男が26歳、女が16歳高校生というのなら、週刊誌も飛びつくのだが、今回の場合は何かが違う。母親の“息子愛”と、女性の“恋人愛”の綱引きのようで、いまいち本物の“誘拐事件”のような切迫感がない。それでも女性は「未成年者誘拐」の罪を背負うことになる。母親は、26歳の女から愛する息子を奪い取ったのだ。息子の方は、愛する女性を母親によって“犯罪者”に仕立てられてしまった。その困惑や屈辱や記憶を、どう消していけば良いのだろう。もう学校に戻っても“笑いもの”になるだけである。母親は確かに女性から息子を奪ったが、息子の“心”や“カラダ”まで奪えないことに気付くのはこれからなのだ。
昔「当たり屋」という“商売?”があった。自分から車にぶつかっていって「怪我をしたから金を払え」と要求する詐欺の一種だ。今は「防犯カメラ」というものがあり、自らぶつかっていったなら、すぐにばれる。だから「当たり屋」の方達は商売できなくなった。メデタシ。メデタシ。ところが、別な形の「当たり屋」が出て来た。事故そのものが起きたのは3年近くも前なのだが、今月初めに「和解」が成立した事件だ。もっとも、この事故は“故意”に行ったものではない。言ってみれば“偶然の事故”だ。偶然ではあるが、本人にとっては“怒り”をどこにぶつけて良いかわからない事故だ。被害者女性は大阪から京都へ出掛けようとしていた。たまたま二階建て車両の階下に備え付けの補助席に座っていたのだ。そうしたら酒に酔った男性が乗車してきた。その加害者男性は二階に上がっていったのだが、その途中で滑って転落してきたのだ。その結果、当たられた女性は首の骨が折れ、半年間入院する重傷となった。半身にマヒが残り、職場も退職せざるを得なくなり、現在は日常でも介護を必要とする身となった。当然、被害者女性は、ぶつかって来た男性に対して「2億3700万円の賠償金」を請求訴訟した。最初は京阪電鉄も訴えたのだが、因果関係の立証が難しいということで、こちらの方は取り下げた。この事故をきっかけに、補助椅子は撤去された。さて、裁判の方だが、2億3700万円という金額は“要求額”としては正当なのだが、実質的には支払いの難しい金額である。そこで裁判所は「9000万円の支払い義務」で“和解”することを勧め、双方ともそれに応じたので“和解”が成立した。但し、実際には加害者の“支払い能力”がそれに達せず、現在の支払い可能額「510万円」を12月中に振り込み、残りは全額免除という“大甘な結果”で結審したのだ。まさに「不運」としか言いようのない結末である。電車や大型バスに乗る時、どこに座るかは、その後の人生を大きく左右することがあるのだ。それにしても不運な方なので仕方がないが、頼んだ弁護士が、あまりに無能過ぎた。
人生はとかく理不尽である。信じられないような出来事が時々起こる。予期せぬ災難が、自分に降りかかって来ないという保証は誰にもないのだ。彼女の場合、それまでも決して“順調な人生”だったわけではない。出生した時から、既に“批難”と“憎悪”は始まっていた。親戚の中には「殺してしまうべきだ」と主張する者もいた。けれども、祖母がそれを制して、彼女は命拾いをした。理由は先天性の“病気”だったからだ。遺伝子疾患である「アルビノ」メラニン色素を作る機能が損なわれている病気だ。その結果、黒人であっても“白い肌”で産れる。日本人でもいるのだが発症率は少ない。アフリカ人の場合には、日本人の十倍以上の発症率を持つ。先天性の病気だが、黒人の中の“白人”で目立ちやすい。そして“災いの元凶”という迷信が抜けない。さらに、その身体の一部を使って呪術を行うと“願い事が成就する”という迷信がアフリカ全土にはびこっている。したがって、その身体の一部は闇市場で“高額取引”の対象となる。その結果、集団で襲われる事件が後を絶たないのだ。今年11月、東京で行われた“アルビニズム会議”に出席したタンザニアのマリアム・スタンフォード氏もアルビノの一人だ。彼女の場合、25歳の時に、呪術師を含む6人の集団に深夜襲われ、両腕を失った。その当時2歳の息子がいたのだが、その子の目の前で両腕を切り落とされたのだ。それが欧米にも報道され、彼女には無償で“両腕(義手)”がプレゼントされた。世界が“味方”してくれるように変わった。それによって、生きる希望を見出した彼女は編み物をおぼえ、セーターやスカーフを縫って生活ができるよう頑張っている。今年10月にはアフリカの最高峰キリマンジャロにも登頂した。両腕を切り落とした犯人たちも捕まったが、彼女は恨まない。「彼らを許したい」という。許さなければ、いつまでも“心の平和”を取り戻すことが出来ないからだ。ここが一番重要なところで、理不尽なことに出逢った時、多くの人は「死ぬまで許さない」と思う。その気持ちは痛いほど解かるが、それでは時計が止まってしまう。だから、無理にでも“忘れる”か“許す”しかないのだ。そうすることによって、人は“未来”に向かって歩みだすことが出来る。もし、彼女が後ろを向いたままだったなら、東京へは来れない。編み物で商売をしようとはしない。キリマンジャロなど登るわけがない。彼女は、自分のような人が一人でも減ることを願って、世界のいろいろなところに出向き、大勢の前で体験的人生を話そうとする。両腕を切り落とされても、希望を持って生きていくことは可能なのだ。
私は基本的にあまり“好き嫌い”の強い方ではない。ただ時々その言動に“拒絶反応”してしまう人物というのがいる。この人に関しては、最初“強い拒絶反応”から入った。何に対しての発言だったか忘れてしまったが「どうしてこんなことが言えるのか?」と驚いてしまった。あまりにも配慮を欠いた発言だったからだ。それがコメンテーターとしてTV番組に出ていた社会学者・古市憲寿氏への第一印象だった。彼が多くの人達から、その発言が問題視され、炎上しがちであることを後から知った。最初、私はどうしてこんな配慮を欠く人物をコメンテーターになどするのだろう…と不思議だった。けれども、その後、いろいろな番組で彼を見聞きする内に、ナルホドと思うことも時々言っていることに気付いた。「10」の内「7」くらいは拒絶反応を持つが「3」くらいは共感できる。そして「3」くらいは共感は出来ないが、発想として“面白い”とは思うようになった。その古市氏が「ナカイの窓」という番組内で、NHKの「紅白歌合戦」の“勝ち負け”に対して「あんな茶番ないじゃないですか」と中居正広氏に向かって発言したらしい。その他にも中居氏に対して、配慮を欠いた「SMAP」という言葉も使った。だが、これらの発言は、確かに“配慮”は欠いているのだが、誰もが感じている“真実”を突いていた。特に「紅白」に関しては、どうして“男女混合グループ”まで「紅」「白」に分け、しかも何を基準としているのか全く分からない「勝ち」「負け」を付けさせるのか。しかも勝ったからといって“賞金”を渡すわけでもなく、勝者側も敗者側も誰ひとりその“勝敗を気にする風でもない。”正に「茶番」以外の何物でもないことを延々と継続している。しかも、専門外のタレント審査員まで借り出して行う。どこかで上沼恵美子氏の“審査”に関しての発言が問題となったが、そういう意味で言えば、この“審査基準”など“好き嫌い”以外の何があるのだろう。みんな一流のプロだから出場できる“歌合戦”なのだ。審査をすること自体がおかしい。審査をしたいなら、NHKの“素人のど自慢”で好成績を残した人物たちを集めて、一般投票も含めて審査し、プロデビューをさせる場として“別枠”を組み込めば良い。大体、公平を謳うNHKなら、絶対に“男・女分け”をするこの番組は、性的少数者たちに対して公平ではない。性的少数者たちが増えていく昨今「紅」と「白」の中間色である「桃」を加えるのが、今日的な「紅・桃・白の歌合戦」のはずなのだ。
「月」に行って生活するとか「火星」に移住して生活するとか、SF的な要素の強い“未来物語”のために労力や財産を使っている人たちがいる。その一方で、古代の探索に能力や財力をつぎ込んでいる人たちもいる。先日、エジプト考古省から新たなる遺跡の発見が公表された。近年、地味ではあるが、エジプトでは次々と新しい遺跡が発掘されている。あまり大きなニュースにならないのは「新たな王墓」ではないからだ。今回も、王墓ではないが王の側近として仕えた「高位聖職者の墓」であることは確実だった。古代エジプトの第5王朝第3代ネフェリルカラー王(4400年以上前)に仕えた聖職者である。これまでに発掘された墓と違うのは、大変に保存状態が良く、24体の彫像も傷ついたり、ひび割れたりしていないことだ。内部のレリーフも当時のまま彩色が遺されている。エジプトでは最近、発見が続いていて、11月にも6000年前の石棺が発見されたばかりだ。6000年前とか、4400年前とか言えば、日本ではまだ縄文式土器がつくられていた時代で、古代文明と言えるほどの生活様式にはなっていない。ところが古代エジプトでは、既に今日の日本とさして変わらないような生活が始まっていたのだ。例えば、王家の子供たちは学校で厳しく指導されて文字を覚え、ゲームに熱中した。王家の女性達はアイシャドウを塗り、耳にピアスを着け、指先には金のネイル、首にはネックレスを巻いた。透き通るドレスを纏い、舞台の歌や踊りを見ながら、ビールやワインを飲んだ。なんという“優雅な生活”であったことか。しかも、古代エジプトでは既に“同性愛が盛んだった”という衝撃的な報告もある。「今の若い者たちは…」という表現は、古代エジプトの次の時代、古代ギリシャの物語の中で登場している。結局、人というのは何千年前でも、おそらく何千年後でも、基本的には変わらないのだ。時代が進んだからといって“悩み”が無くなるわけではない。そういう点から言えば、古代エジプトは3000年間にわたって続いた驚異の王朝である。一時的には他国の王に支配された時期もあるが、その間もずっと“同じ文明様式”を維持した。太陽を主神とし、八百万の神々を祀る点でも日本とは共通性が多い。繁栄に満ちた長寿国を目指すなら、古代エジプト王国に学ぶのが一番なのだ。
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