日本を「観光立国にしたい」或いは「縄文遺跡を世界に広く認めさせたい」という気持ちがわからないではない。けれども、今回ばかりはあまりにも“寄せ集め”の感がぬぐえない。国の文化審議会が30日、2021年のユネスコの世界文化遺産登録を目指して「北海道・北東北の縄文遺跡群」を推薦すると決定した。これによって、来年2月までに国としての正式な推薦書を作成し、2021年5月頃までにユネスコの調査機関が審議して最終決定を下す。それぞれの専門家たちが集まって決めたことであるから、推薦をすること自体が悪いとは言わない。けれども、今回の遺跡群はどう見ても“一つの文化遺産”という気が私にはしない。まず、遺跡の数が“17箇所”と異様に多いのだ。また、その地域も北海道から東北まで“広い範囲”に渡っていて、時代的にも本当に“一時代”と限定できるのかはなはだ疑問である。もちろん、縄文時代そのものが長期にわたっている。その文化圏も各地に分散している。「仕方がないではないか」という声が聴こえて来そうだ。けれども、例えばエジプトの「王家の谷」のような比較的広い地域に分散している場合でも、或いは年代的には長期に及んでいるとしても、完全に“まとまりのある遺跡群”であれば、誰も異をはさまない。17か所の遺跡には何の統一性もない。ただ、その時代の人々が営んでいた“生活の一端が推しはかれる”というに過ぎない。もし、それでも“一つの文化遺産”だというなら、世界中のあらゆるところに、そういう場所は存在しているのではないか。もちろん、実際にそういうところの何ヶ所もが「世界文化遺産」に認定されてきた。現在、ユネスコが認定する「世界文化遺産」は800箇所以上もある。「世界自然遺産」は200箇所以上もある。毎年、どんどん増えていく。そのこと自体がおかしい。“三ツ星レストラン”ではないのだ。本来「世界遺産」と呼べるほどのものであれば、そんなに生産できるはずがない。「自然遺産」など地球上に“数十か所”もあればよいところで、それ以上増やしていくのは価値が薄れるだけでしかない。「文化遺産」にしても、各地域で尊重していくべきではあるが、世界に認めさせるようなものなど“100選”くらいに留めておくべきだった。あれもこれもというのでは世界史における“本当の遺産”ともいうべきものが可哀想である。もちろん、私は縄文遺跡を否定しているわけではない。縄文土器から発せられる“生命力”や“情熱”は素晴らしいと思う。ただ「文化遺産」が“観光事業”や“金儲けの材料”として使われることに何かが違うと感じてならないのだ。
通常、ブーツというのは「一足」「二足」と数えるのではなかったか。なのに、その靴は「1号2号」の“呼び名”を使った。その正式名は「ロンドンブーツ1号2号」。そして今、その「1号」「2号」は、それぞれ別の道を歩み始めようとしている。もちろんまだ正式に退社が決まったわけではない。何んとも、中途半端な状態のまま“謝罪会見”後も謹慎状態が継続しているのが田村亮氏である。その彼が都内の介護付き高級老人ホームで秘かに「介護福祉士」の勉強を始めているらしい。これまで相方の田村淳氏の方ばかりが注目されてきただけに、今回の騒動は、特に謝罪会見は田村亮氏の“存在感”を浮き立たせた。そんな亮氏だが、私は以前から気になっていることがある。彼は実にクッキリとした法令線の持ち主である。こういう人は自分の職務に忠実である。そして必ず自分の職務(責務)を全うしようとする。彼は多分、人一倍、今回のことで自分が「芸人には向いていない」と実感したことであろう。そして誰よりも、自分自身の「嘘」に傷つき、惨めな想いを味わったに違いない。そして、その贖罪を「生涯をかけ果たしていこう」と誓ったに違いない。その想いが「介護福祉士」の勉強につながったのだと思われる。それがボランティア的なものに終わるか、職業化されるかはわからない。けれども、もし本格化していけば、きっと後々「あの失敗があったから今がある」と胸を張れる人生となるのに違いない。人はさまざまなことがきっかけで“新たなる居場所”を発見するからだ。特に福祉関係の仕事の場合、その過去に“贖罪の意識”を抱えている人の方が奉仕的に働き続ける傾向がみられる。仮に、それがボランティアで終わったとしても、彼には得るものが大きいような気がする。元々「ロンドンブーツ」はコンビでの仕事は少ないし、亮氏自身の存在感が乏しい。そういう意味では、その“存在感”を謝罪会見で示せたのは良かった。そして、もし将来「介護福祉士」としてTV番組に出ることがあれば、きっと活き活きと輝いているに違いない。そして、相方の淳氏の方だが「れいわ新選組」から衆議院選挙に打って出るという“噂”がある。元々“野心”旺盛な淳氏は「政治家を目指す」気持ちが強いに違いない。性格的にも“正反対”だった二人の「ブーツ」は、それぞれに“新たな道”を歩み始める。
子供というのは時々、大人が疑問には思わないようなことを疑問として訊いてくる。その時、どう対応しているかで、その人の素性が垣間見えることがある。俳優・大泉洋氏と言えば、今や日本を代表する俳優の一人だが、彼とは20年くらい前にTV番組の中で“その描いた絵”を風水的な角度から占ったことがある。けれども大昔のことで、しかも、その時、私は番組の趣旨をよく解かっていなくて、急に「絵」を持ってこられて「風水的な角度から、どういう絵であるか占って欲しい」と言われ、かなり面食らった思い出がある。だから正直、あまり良い印象は持っていなかった。けれども、その彼が最近TV番組の中で自分の娘とのやり取りを語った。その話は妙に微笑ましくて、この人物の“善い父親ぶり”を見せてくれた。彼は自分の娘から「どうして女の人には男の人が必要なの?」と訊かれたらしい。彼は、娘の真剣さに応えようと「女の人だけでは生きていけないんだよ。女の人は男の人に助けてもらって一緒に楽しく生きていけるんだ。男の人も女の人と一緒に居て初めて楽しくやっていけるんだ」と説明し「パパとママだってそうでしょ。一人だけだったらうまくいかないんだよ」と教えてあげたというのだ。一人の父親として、或る意味では“模範解答”のような気がする。ところが、数日後、また娘が彼の元にやってきて「ママに訊いたんだけど、男なんていらないよって、特に必要じゃないって、言ってた」と伝えて去っていったらしい。大泉氏は、もしかしたら“面白エピソード”として紹介したかっただけかもしれない。けれども、ここには「男」と「女」の本質が隠れている。女の子は、幼い頃から、こうして大人になっていくのだ。同じ年齢の男の子は、多分、同じような質問はしない。そこに男女の根本的な違いがある。さらに、大泉氏の良いところは“リアリティーある奥様の言葉”を正直に明かしている。これまた大人になってからの「男」と「女」の“勘違いの根本”を見事に捉えている。この“勘違い”が適度な状態の場合には“愛”が保たれ、“勘違い”が進みすぎると、男女間での“悲劇”が生まれるのだ。
吉本興業が「反社の闇営業」に出演した芸人11名に対し“謹慎処分”を下した翌日、私は《“切り捨て”すれば企業としてOKなのか》と、ここに書いた。一企業としての問題点を指摘したのだ。あの時点では、今日のような“大問題”にまで発展していくとは誰も予想しなかった。もし、あの時点で私が述べたように、会長、社長、副社長の会社役員と後ろに関与した芸人11名を並べて「謝罪会見」を開いていれば、少なくともその後になって“企業体質”を問われることはなかったような気がする。マスコミ各社へのファックス一枚で“終わらせようとした”結果が、逆に、企業としての問題点を次々と曝け出すことになってしまった。どのような組織でも、その組織が持つ運命には、それを率いる人物がもつ「才能・性質・運勢」が反映される。そういう意味で、どんな組織であっても“トップ”というのは重要なのだ。そういう点で大いに参考となるのがプロ野球・中日ドラゴンズの監督である。昨日、敗れて8連敗となった。それも、8連勝した後の8連敗なのだ。詳しく調べていないからわからないけれでも、この奇妙な8連勝8連敗という記録が、それまでに存在しているとはとても思えない。他の球団でもだ。なぜなら、8連勝するということは当たり前の話だが“強い”ということである。5連勝くらいまでなら、ツキがあって勝ち続けることが出来た、という場合もあるだろう。けれども、8連勝となるとそうはいかない。それなりの実力が伴っていないと不可能な連勝なのだ。そして、そこからまさかの8連敗となる。これもまた“弱すぎ”なければ達成できない。たまにはツキがあって勝ってしまったりするからだ。だから本当に“弱い”のだということになる。さて、8連勝して8連敗したのだから、考えようによっては「振り出し」に戻ったともいえるが、こういう結果となったのは選手よりも監督の方に責任がある。なぜなら、8連勝するだけの“実力”はチームに備わっているからだ。一番の問題は、8連勝していた時に「どうして勝ち続けているのか」をきちんと研究していなかったからだ。それまでは“負け数”の方が多かったのだから、勝ち続けているということは、それまでとは“何か”に違いが出て来たから勝ち続けている。それを知ることで、それを保つことで、“負けないチーム”になることが出来る。名監督であれば、そのように捉えて、勝ち続けている時に“それ”を把握しておかなければならない。それが出来れば、今度は多少負けても、どうすればよいか、選手たちに指示することが出来る。勝ち続けている時のデータから説得するのだから、選手たちも聞き入れやすい。現在、中日は依田監督が率いているが、果たしてもう一度“8連勝”を達成出来るか、その手腕が注目される。
正直に言うと“知らないIT企業”からインタビュー取材を受けた。何でも「占いテラス」というサイトも運営しているらしい。それで「インタビュー記事を載せたいのですが協力して頂けるでしょうか」という依頼だった。よく解からないままOKした。私は基本的に“取材的なもの”に関しては余程“怪しいもの”ではない限り引き受ける。何でもそうなのだが、自分から出掛けていく講演やイベントはおっくうなので好きではないが、向こうから来てくれる取材やインタビューは面倒がないので受けるのだ。若い女性が取材に来た。1時間ほど色々な質問を受けた。この手の取材にしては、珍しい質問が多かった。その後、個人鑑定をしてほしいというので、本来なら昼休みを採る時間だが、インタビューが楽しかったのでOKしてしまった。そして出来上がったインタビュー記事がhttps://uranai-terrace.com/namikiseiryu-interviewとして公開されたので興味ある人は読んで欲しい。正直、こんなに“生な形”で載るとは思わなかった。それに個人鑑定も、そのままの形で載せていたのには驚いた。私は正直言って、あまり昔のことを話す方ではないが、訊き方が上手かったのか、思い出話を話すような感じで“若い頃”を回想した。そうして、或る種の“なつかしさ”に浸った。今でこそ、若い人たちを診ることは少なくなったが、二十代、三十代の頃は若い人たちが客の大半だった。それも“片想い”とか“出逢い”とか“復活愛”とか“不倫”とか…そういう話や相談が圧倒的だった。そういう中で、たまに真摯な“生きていく上での悩み”、“イジメ”、“就職”、“転職”、“原因不明の病気”などが加わるようになった。40年以上、この仕事を続けてきたのだから、多分、向いているのだろう。ただ私は、本来は人と会うのはあまり好きではない。他人と会話すること自体が本来は好きな方ではない。一応、占いも“接客業”に属するが、人を相手に“サービスをする”ということ自体もあまり好きではない。要するに「占い師」という職業自体が、本当に向いているのかどうかよくわからない。それでも、今は或る程度慣れたので、それなりの会話術も身に着いたが、若い頃は無口だった。だから、その前に行っていた会社員として、技術者としての仕事の方がはるかに楽だった。それなのに「占い師」を辞めなかったのは多分「占い」が好きだったからである。だから私は必ず「占い師になれるでしょうか」と訊いてくる人には「占いが好きであればなれます」と答える。実際、本当に占いが好きではない人は、最初「占い師」として活躍していても、いつの間にか“そうではない職業”に変わっていたりする。本当に好きな人は、いったん、別な仕事に変わっても、また最終的に「占い」に戻って来るのだ。「占いの神」が、その人を“占いの世界”に引き戻すのだ。
勝負事には「運」がつきものである。その「運」を持っていれば実力以上の勝利を得たり、栄誉を勝ち取ったりする。もし「運」を持っていなければ、誰もがその実力を認めながらも、栄光を手に出来ずに終わったりする。そういう点で気になったのが、今年の“ドラフトの目玉”と期待されている大船渡高校の佐々木朗希投手だ。前日、準決勝で15三振を奪って完封勝利を達成して挑んだ決勝ではベンチでの“控え選手”となったのだ。その結果、大船渡高校は大敗し、結局、佐々木投手は負けていないのに“甲子園出場”は夢と消えた。彼自身は「監督が決めたことですから」と自分が“控え”に回ったことを悔やむ風はない。けれども、自分が出ていれば「勝てたかもしれない」という想いは卒業まで引き摺ることだろう。もちろん監督は“将来の大器”に無理をさせたくない、という気持ちだったのかもしれない。けれども、過去の甲子園出場校では連日の投球は、当然のことのように行われてきた。ここ数年、将来のことをおもんばかる風潮が出て来て、連投させないような高校も出てきている。本来、甲子園の高校野球は、あくまで“高校生の全国大会”で「プロ採用テスト」の大会ではない。他の競技などでは連日“エース”を投入するのは当たり前のこととなっている。高校野球だけが“プロ予備軍”のような扱い方をすることには違和感を覚える。それはともかく佐々木投手の「夏」は終わった。当然のことながら、甲子園には出場できなくても、彼には“ドラフト指名”が掛かることだろう。けれども、考えようによっては佐々木投手には「栄冠」がない。現在、米大リーグで活躍している田中将大投手は、そういう点で“奇妙な運”を持っていた。彼は「駒大苫小牧高校」のエースだったが、元々は兵庫の出身で北海道の生れではない。兵庫の高校ではエースとなれたかはなはだ疑問なのだ。北海道に来たことで2年生からエースとなった。そして3年連続甲子園での決勝進出という偉業の立役者となった。それまで、この高校は決勝進出はおろか甲子園出場さえ一度しかなかったのだ。しかも初戦で大敗して帰っている。つまり田中将大氏が入ったことで急に「勝ち運」に恵まれだした。そして2年連続で甲子園優勝を果たした。実際、彼が卒業した後は“昔の勝てない高校”に戻っている。プロ入り後も、彼の“強運”はついてまわった。思わず当時の野村監督が「マー君、神の子、奇跡の子」という名言を口走ったように、彼がいる間「楽天」というチームそのものが強くなった。そのような点から考えると、自らは準決勝で2安打15奪三振完封で勝利したのに、結局、決勝戦では“控え選手”に回ってチームは大敗し、甲子園さえも出られなかった投手には“先天的な勝ち運”というものが乏しいような気がするのだ。実際、プロに入っても、味方チームが打ってくれないため実力の割に“勝てない投手”というのがいる。彼がそうならないためにも「運」を与えるチームが獲得するよう願っている。
イギリスに「眠れる芸術家」と呼ばれる41歳のアーティストがいる。彼は医師からは「夢遊病の一種」と認定されている。何しろ、夜中に起き上って暗闇の中で絵を描き出し、描きあげたならまた寝るのだが、その間の記憶はなく、夢遊病として認定されているのだ。それは幼い頃かららしく、母親が心配して病院に連れて行ったが、特別な治療法もなかったようだ。その後、十代後半から近隣で有名となり、図書館に展示などされて、いつの間にか高値がつくようにもなった。もちろん、普段の彼は「絵」がヘタクソで興味もないらしい。現在、彼は「眠れる芸術家」の名称で“プロ画家”として生活している。彼リー・ハドウィン氏の絵画画像を見てみたが、正直言って特別うまいというほどではない。それに彼の「絵」には写実的なものもあれば、抽象的なものもある。あまり統一がとれていない。ただ背中に羽の生えた“妖精”を描いたと思われる絵が比較的多い。もしかすると、このことと“眠りながら描く”こととが関係しているのかもしれない。人間には、普段は使われていない才能が脳の中で“眠り続けている”ことは確かで、そういう点では誰もが“そういう能力”を持っている。ただ持ってはいるのだが、それはほとんどの場合、眠り続けたままで死んでいく。かつて「眠れる予言者」としてエドガー・ケーシー氏が脚光を浴びた。彼は睡眠中に、自分の病気の原因や処置法を語り出し、それが見事に成功して一躍注目されるようになった。その時、彼の“睡眠中の言葉”を引き出したのはプロの催眠術師だった。そこで、もしかしたら、ケーシー氏には自分自身の病気だけでなく、他人の病気の原因や化処置法に関しても、読み取れる能力が眠っているのではないかと考えたのだ。それは見事に成功し、次々と“難病”の原因や処置法を語り始めたのである。もちろん、催眠中にであって、本人は何も憶えてはいない。処置法には時々、高度な専門用語が出てきた。医学的な知識や技術がなければ、知りえないようなことを語り始めるのだ。しかも、患者は目の前に居る時だけではなくて、遠方に居て逢ったこともない人物でも同様だった。こうしてケーシーの治療は評判を呼び、世界各国から依頼が届くようになった。やがて病気治療だけではなくて、過去世などの質問を問いただしてくる依頼も多くなった。彼はそれに対しても依頼を断らなかった。ただ、自らを催眠状態にして解決していく方法には一つだけ問題があった。催眠から目覚めると、ケーシー氏自身がひどく疲れるのだ。やがて彼はやせて行って、比較的若くして亡くなってしまった。それ以降、エドガー・ケーシー氏のような「眠れる予言者」は出現していない。
日産自動車が主力であった北米での販売不振にあえいでいる。前期比57.3%減というから並みの“落ち込み”ではない。そればかりではなく、カルロス・ゴーン失脚以降あちこちでほころびが見え始めている。経営の立て直しが急務として、今期中に1万人規模の人員削減を計画していることが発覚した。2020年3月期も大幅減益の見通しで、大胆な構造改革を実施せざるを得ないのだ。現在、経営トップである西川廣人CEOが苦渋の決断を下したらしい。それにしても、日産という企業は「ゴーン」と共にあった。あまりにもカリスマ性が強すぎて、結果的に“個人商店”のようになってしまい、会社のお金も、自分のお金も一緒くたになったところから悲劇が生まれた。その結果、尻拭いをさせられることになったのが西川社長だった。ただ、この人にも問題はあった。なぜならカルロス・ゴーンが逮捕される前年から彼は社長だったのだ。決して、逮捕されて後、急きょ社長になったわけではない。本来なら、社長になってすぐ、ゴーンを告発し、経営刷新を行っていれば、ここまで傷口は深くならなかった。ところが、実際にはゴーン会長が実権を握り、西川社長は“お飾り”だった。だから、実質的には最後までゴーンが仕切っていたのが日産自動車だった。実際、報道などでも、新車の発表会ではマスコミは社長に訊くのではなく、会長に訊いていた。まあ、その方が一般の人たちにも浸透しやすいのだから仕方がなかった。結局、カリスマは逮捕直前まで、カリスマだった。日産はゴーンのものだったのだ。さて、カリスマが逮捕されたことで、西川社長は本当の社長になった。けれども、本当の社長になった途端に、マスコミや株主や取引先から総攻撃を受ける。綱渡りの社長であった。人相的にも、ゴーンとはあまりにも対照的だった。押しの強いゴーンは、その睨みで、反論は黙らせることが出来た。西川社長には無理だった。あっという間に「日産王国」は崩壊し始めている。現在、日産の従業員は14万人もいる。これらの人々を率いていくには、良くも悪くも強烈なリーダーシップが必要なのだ。とりあえず、人員を減らさなければ…というのが、手っ取り早く“打てる手”なのかもしれない。カリスマ的な社長が率いてきた会社というのは、往々にしてこのような道を歩む。規模を相当に縮小でもしなければ、カリスマ性乏しい西川社長に巨大企業を率いるのは難しいかもしれない。
シンガポールと言えば、さまざまな人種・民族の人達が寄り集まって暮らしていることで知られる。そして国家としてのシンガポールと言えば、何となく「お金持ちの国」「風水の国」という印象を私などは受ける。そのシンガポールで、来年3月までに「お掃除ロボット」が300台投入されるらしい。どういう場所に投入されるのかというと、ホテルとか、商業施設、庁舎などだ。シンガポールというのは地域としては狭いので、そういった所だけ300代も投入されるといやでも目立つような気がする。つまり、あちこちに出掛けた時に偶然ロボットと出くわすようなことが考えられる。もちろん「お掃除ロボット」だから、いつでもお掃除をしている。日本の「ルンバ」などと違いちょっと大型で、一応「顔」があり「眼」も付いている。そういうロボットが掃除をしてくれているのだ。単純なゴミの吸引だけではない。モップ掛けとか、壁や床の研磨とかまでする。中々に本格的なロボットなのだ。さらに、このロボット、いかにもシンガポールの企業が造ったらしい特徴がいくつかある。もし、行く手をふさぐ人がいる場合は、もう少し脇に寄ってくれるようお願いをする。そして余裕が出て来ると歌を歌ったりもするのだ。確かに鼻歌を歌っている清掃員は多いけど…。時に“冗談を言う”機能までついている。それって必要なのだろうか。それに、ロボットから冗談を言われたとしても、中々返しづらい。同調して笑ってあげるのが良いのだろうか。無反応だと、もう一度言ってきたりして…笑えなくてゴメンネというしかない。英語だけでなく、マレー語、中国語、タルミ語、それに日本語まで話すらしい。ますます無視できないではないか。さて、この「お掃除ロボット」だが14種類もあるのだという。メイド服を着ているロボットがあるかどうかは知らない。そのレンタル料は月額10万円からということで、それほど高額ではない。考えてみれば、清掃員を一人雇ったと思えば、むしろ安いかもしれないくらいだ。ただ真夜中に、お掃除ロボットがビルの中で歌を歌いながら掃除し続けている姿を想像すると「ちょっと怖い」と感じるのは私だけだろうか。いや、考えようによっては「お掃除ロボット」と「接待ロボット」と“三人暮らし”という家族構成が、徐々に広がっていくのかもしれない。
今回の参院選で「維新」の比例区から出馬し当選した鈴木宗男氏はご存じのように別な政党である「新党大地」の代表である。その北海道の「新党大地」からではなく、関西本拠地の「維新」から出馬して見事当選した。私は鈴木氏が「維新から出馬」との報道が出てすぐ当選を見越して、彼の眼尻のシワはクッキリしているので、やがて維新の若手議員たちからも“厚く慕われる存在”になるだろうと予見した。眼尻に関しては、多くの観相学書には「異性運」に関係するシワと書かれていても、それ以外の記述はほとんどない。実は、このシワは「部下・後輩運」を表わすシワでもあるのだ。けれども、その言及はほとんどの観相家がしていない。というか、気付いていないというべきか。私はいつも思うのだが、永年、人相学に基づいて顔を的確に観察していれば、嫌でも“新たなる発見”をしていくものなのだが、そういう記述を新しい時代の観相書に見たことがない。手相・人相の研究者はいったいどこを見ているのだろう。奇妙・奇天烈な名称を付けて“新しい線”や“観方”だと無邪気に喜んでいるエセ観相家は居ても、本当に新たなる観方、実占化できる独特の研究は発表されていない。だから、手相の方はともかく、人相の方はどんどん衰退していく。顔の法令線に関してもそうだ。「法令線」という名称は皮肉にも人相術で広まったわけではない。女性誌が顔の化粧法を解説する時に、もっとも的確な名称として人相で用いる「法令線」の名称を使用したことで急速に広まったのだ。だから現在では、どの線だと説明しなくても通用する名称となった。万一、知らない人がいたら困るので説明すると、鼻脇から口唇の両側に広がる線が法令線である。通常、この線は或る程度の年齢になって出現する。男性にも女性にも出現するが、男性の方がやや出現しやすい。但し、男性でも女性でも死ぬまで出現しない人もいる。また幼い頃から早くも出現する珍しい例もある。実はこの線は、その名称に「法令」とあるように、元々は自らが与えた「命令」が行き渡る範囲を表わした線なのである。したがって、クッキリと深く、広く刻まれている人は、それだけ自分の命令が“広く”“多くの人達”に浸透していくことを暗示しているのだ。但し、それは自らにも還って来る。確かに、法令線がクッキリと刻まれている人は、自分の命令を聴いてもらえるが、自らもその命令に相応しいよう行動しなければと、自身をも“規制”するようになる。だから基本的に法令線がクッキリとしている人たちは“働き者”である。時には“寝食を忘れて働く”ようなこともある。よく言えば責任感が強い。悪く言うと、仕事を取ったら何も遺らなくなる。女性で“法令線を消す”ことに躍起となっている人たちがいるが、それはそのまま“自分の役職を放棄したい”という気持ちの表れとなる。近年、法令線を美容外科医療で消す人たちもいる。そうすると、それまでどんなに仕事で成功していた女性であっても、急に仕事を放棄し始める。人気絶頂の女性歌手などが“引退”したりする。そういう意味で鈴木宗男氏の法令線は素晴らしく立派である。彼は「北方領土に命を懸けている」のだ。自分の身体よりも、自らの法令が行き届く領域が大切なのだ。だから命を削り「北方領土のために尽くした男」として名を遺すのであろう。
ここ数年、日本の世論が“一方に傾き過ぎる”ことに危機感を感じている。例えば、昨日、宮迫博之氏や田村亮氏が「謝罪会見」を開いた。その中で会社幹部のパワハラが暴露された。そうすると、今度は世論の非難がいっせいに“そっち”の方に向く。これまでスポーツ選手の「謝罪会見」などでも時折見られた光景だ。どうして、そういうことになるのかというと「誰かが悪い」という“収まりどころ”が欲しいからだ。つまり「善い人」「悪い人」或いは「善いこと」「悪いこと」をハッキリさせ、謝らせなければ気が済まないからだ。徹底的に非難し、謝らせ、その地位や名誉を剥奪する。或いは人気や収入を低落させる。日本社会が、徐々にそういう“蹴落とし社会”に変わりつつある。実際、そういう形で何人もの著名人たちが“表舞台”から消えた。日本人は他の人種や民族に比べ、潔癖感が強い。世の中が「ネット社会」に変わって、ニュースは一瞬で日本中を駆け巡る。それでなくても“世論操作”がされやすい時代になっている。周りの誰もが「あの人が悪い」と言えば、自分自身はそのことをよく知らなくても、そうなのかなということで一緒になって「あの人は悪い」と言い出す。潔癖感が強くて“流されやすい”日本人の性質が、ネット社会になってますます「善い・悪い」に敏感になっている。もし、心の中に余裕があれば、たとえ“悪い部分”があっても、ちょっとなら“もうダメだよ”と許してあげられるのだが、そういう「余裕」は今の日本人にはない。経済的にひっ迫する生活をしている人が多くなって、ヒトやモノの“落ち度”を許せるだけの寛容さが奪われてしまっている。ハッキリ言うと、お金に余裕のない日本人は心にも余裕がなくなりつつある。だから、マスコミで叩かれる誰かを犠牲にして、そのストレスを発散しようとする。その根底には「私たちは朝から晩まで真面目に働き、それでもゆとりのない生活をしているのに…」という“叫び”が隠れている。もう一つ「善い人」「悪い人」を振り分けたがるのは、漫画の影響もある。活字離れの若者たちは「漫画」中心に育っている。漫画はその構成上、どうしても「善い人」「悪い人」をハッキリ分けて描かなければならない。ストーリーも解かりやすく、子供達に共感性の得られる構図が必要なのだ。その結果、それらを読んで育っている人たちには、単純な「善し・悪し」と「好き・嫌い」しかない。そのどちらにも属さなくて良い部分というのが、生活の大部分を占めていることを理解できない。漫画の中でなら、嫌なものや悪いものは“切り捨てて”かまわないのだが、現実の世の中は、そういう中で“調和的に生きていく”ことが賢い大人の選択なのだ。
日本人に比べて、欧米人の考え方は良くも悪くも“極端”な場合が多い。今回、或る写真に対して二つの考え方が“ガチンコ対決”しているのだが、正直、私はそのどちらにも賛同しかねるのだ。SNS上で論議の的となった写真とは、射殺されたライオンの後ろで、熱烈なキスを交わす男女の写真だ。これは「トロフィーハンティング」によって見事獲得した“戦利品”としてのライオンを前に記念撮影されたものであるという。つまり、釣り師が巨大な魚を釣り上げて一緒に記念撮影するのと同じような感覚で写したもので、英雄の証しとしての一枚だというのだ。それに対して動物愛護の団体などから一斉に非難の声が上がった。「ライオンを殺して何が嬉しいの。あなたたちの心は病んでいる」とか「トロフィーハンティングを犯罪にすべきだ」とか「ライオンとあなたたちの立場が逆転すれば良かったのに…背後から襲われて、その痛みを知るべき」とか、過激なものも多い。それに対して本人たちは「これは飼育されているライオンで野性のライオンではない。飼育されているライオンを殺して何が悪い。牛や羊と同じように、ライオンファームで飼育したハンティング用のライオンなんだ。貧しい南アフリカにはハンターが落としていくお金が必要なんだ。フェンスに囲まれた敷地内で行われるスポーツでしかない」と意に介さない。さて、どちらの言い分が正しいのか。或いは同感できるか。何度考えても、私には両方共に理解も共鳴も出来ない。まず、動物愛護派たちの意見は、少し極端である。他の動物たちの場合でもそうなのだが、あまりに“野生動物”を自分たちの飼うペットと同じような感覚でとらえすぎている。この人達には「人間」も「他の生き物」も“同等に扱うべき”という考え方が根底にあるようだが、それは違う。なぜなら、われわれは基本的に動物を食して生きている。一方で“動物愛護”を唱えながら、その一方で牛肉を食べ、豚肉を食べ、鶏肉を食べ、魚を食べている。それは太古から行われてきた“生きていくための知恵”であり、自然な食生活である。あらゆる動物たちも、自分たちに必要な動植物を食べて生きている。そういう循環の中で“生態系”というものは維持されていくのだ。確かに、ハンティングのためにライオンを飼育するのは良いことではない。けれども、だからと言って「立場が逆転すれば良かった」というのは言い過ぎである。一方、ハンターたちも、いくら戦利品と言っても、射殺したライオンの前で熱烈なキスをするのはやり過ぎである。それに「貧しい南アフリカにはハンターが落としていくお金が必要」と言っているが、もっと別な形で支援する方法はいくらでもある。要するに、両方ともに“豊かすぎる人たちの発想”なのだ。日々生活に追われていれば、過度の“動物愛護”に走ることもなく、ハンティングというスポーツに興じることもない。双方ともに“豊かすぎる生活”の中で培われた「いびつな思想」なのだ。
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