9月, 2019年

“ジャニーズ事務所”&“吉本興業”&“TV業界”のきしみ

2019-09-06

ジャニーズ事務所の「関ジャニ∞」メンバーの錦戸亮氏が9月30日をもってグループを脱退、事務所からも退所することが公表された。吉本興業に所属する「EXIT」兼近大樹氏の過去を暴く記事が文春に掲載され、謝罪コメントが出された。その一方で吉本興業は文春を相手取り、訴訟も辞さない対決姿勢を鮮明にした。テレビ朝日は局内のチーフプロデューサーをセクハラ行為により排除する決断を下した。ここ数日の間に“ジャニーズ事務所”、“吉本興業”、“TV業界内”で、それぞれに起こった“小さなきしみ”である。決して今の段階では“大きなきしみ”ではない。確かに、それぞれの問題は、それぞれ“別個”の事柄であるように一般的には受け止められている。けれども、本当はそうではない。「令和」の時代になって、TVを中心とする“芸能界全般”に微妙な亀裂というか、変革が生じ始めている“表れ=その前兆”なのだ。「平成」の時代、TVを中心にした芸能界は、ジャニーズ事務所、吉本興業、大物TV各局プロデューサーの三者が、その勢力を拡大し“動かして来た”ような面が大きい。もちろん、それ以外の芸能事務所、TV局関係者、マスコミも存在するが、世間に対して最も大きい影響力を発揮してきたのは、まぎれもなく三者なのだ。その結果、さまざまな部分で芸能界に“歪み”が生じることになってしまった。ジャニーズ事務所を辞めたらTVには出られないとか、吉本興業にたてついたら芸人枠を減らされるとか、大物TVプロデューサーの好み一つで出演者を入れ替えられるとか…暗黙のルールのようなものが世間一般にさえ知られている。どう考えたって、それはおかしい。政治問題にはあれこれもの言う人も、この“三者”に関することになると途端に口が重くなる。要するに、それらの力が働いているのが芸能界であり、TV業界だということだ。もし私がTVに頻繁に出ているような占い師なら、やはり忖度をしてこの種の問題には触れないかもしれない。私の場合は、どこにも所属はしていないので、あらゆる場合に自由にモノが言える。例えば「ジャニーズ」という企業の社長の葬儀を、なぜTV各局は長々と流すのか。別にタレントでも何でもない企業家の葬式など、本来であれば20秒も流せば十分であろう。吉本興業にしたって、前回の騒動はまだ本当の解決には至っていない。TV局の大物プロデューサーはどの局にもいる。今回はたまたまセクハラの度が過ぎたので排除されたが、同じように各局を牛耳っているプロデューサーがもっと整理されて良い。そうして本当の実力や人気に裏付けられた芸能人たちが活躍できるTV各局になってほしい。

人間は「蚊」とそれほど違わない⁉

2019-09-05

確かに大自然は人間世界の“小ささ”を実感させてくれる時がある。大自然は、あらゆることに動じず“永遠の営み”を繰り返している。もっとも、そう感じるのは一瞬で、日々のあわただしさの中で、そう感じたことさえもどんどん遠のいていく。けれども、無人島に暮らしていると、それは常に実感することらしく、世間的な出来事とか人間社会の変化そのものも“ちっぽけなこと”として過ぎていくらしい。無人島に暮らして28年のマウロ・モランディ氏によれば大自然から見た人間は「蚊とそれほど違わない存在」であるらしい。彼は1989年に偶然この島を訪れた。正確にいうと、訪れたのではなく、船のエンジンが故障して漂流し、強風にもあおられ、いつの間にか打ち上げられた陸地がイタリアの西にあるブデッリ島だったのだ。この島は無人島であったが、国の管理下に置かれていた。そこで、時折、管理人がくる。その管理人男性と島で出逢ったのだ。そこでモランディ氏は、自ら乗ってきた船をその男性に譲る代わりに“管理人業務”を自分に引き受けさせて欲しいと願い出た。交渉は見事成立して、その時からモランディ氏はその島の管理人となったのだ。元々、都会暮らしに疲れていた彼は、誰もいない孤島で黙って海だけを見つめて暮らす生活にすぐ馴染んだ。そうやって日々過ごしている内に、大自然の悠久の営みに比べれば、人間世界の出来事すべてはちっぽけすぎ「蚊と違わない存在なのだ」と理解するようになった。実は一時的に、彼が無人島に住み続けていることが問題視された時期があった。けれども、大勢の人たちが署名してくれたおかげで追い出されずに済んだのである。確かに水平線を見つめ続けると、人間はどんなに頑張ったところで“大自然”には勝てない。悠久の営みを変えることは出来ない。人間はしょせん“地球生命体”にへばりつく「蚊」のような存在でしかない。地球上の征服者のように勘違いしているが、実は“地球という掌”で上手く転がされている命と意識すべきかもしれない。それでも、大自然にも時々寂しい時があって、意図せずして無人島に辿り着いたモランディ氏は唯一“友達”として引き寄せられたに違いない“大自然の玩具”なのだ。

「エスパー」がエスパーでなくなった時

2019-09-04

「エスパー=超能力者」と聞いて、あなたは誰を思い出すだろう。大昔、ユリ・ゲラーという名の「エスパー」もいたが、それよりも多くの方は「エスパー伊東」氏の方を思い出すのに違いない。ボストンバッグに自らの身体を潜り込ませて顔だけ出す…というエスパーぶり(?)で一時期人気を集めた。その伊東氏だが、2018年末に「芸能界休業」を公表した。思うようにパフォーマンスが出来なくなったからであるという。実はそれ以前から彼の身体には支障が生じていた。右変形性股関節症という病気で、パフォーマンスどころか日常生活も困難になっていたのだった。通常、芸能人のような生活に保障の無い仕事の場合、そういう場合には身内のお世話になるケースが多いのだが、彼の場合は折り合いが悪かったらしく、2018年3月に移った新しい事務所社長が“身内替わり”となった。そうして今年2月に“人工関節を入れる”手術を行い、とりあえず“痛み”だけは何んとか取り除けたようだ。ただ意思通りに身体が動かない軽い脳梗塞も患っていて、その治療も合わせてリハビリ中なのだが、実質的には“車いす生活”に変っていて、今後も本来のパフォーマンス復帰は不可能となった。それでも彼は何らかの形で“仕事復帰したい”と望んでいるようで、頑張ってはいるらしい。ただ「エスパー」がエスパーではなくなったことで、昔の芸人仲間とも連絡を絶っているようで、今は「誰とも会いたくない」と言っているらしい。超能力(?)で石油を掘り当て、大富豪となったユリ・ゲラー氏とは大きく異なる。身体を張った仕事というのは何でも、ちょっとしたところから綻びが出やすい。格闘家の高山善廣氏や曙氏のように闘病生活が続いている人もいるし、水泳の若きエース池江璃花子氏のようなケースもある。身体に負担が掛かり過ぎると、予期せぬ所から危険信号が点滅し始めるのだ。運命の中でも「生命」や「事故・病気」はもっとも見通しが難しい。それはおそらく“眼に見えない何か”が作用していて、そこから先は「占い」の領域ではなく、多分「神仏」の領域なのだ。それが“人生・運命”の変化に重なり合う時、急に病魔や災難として表に出てきたり、なぜか急速に病魔が消失してしまったりするからだ。

攻めるのは強いが守りは弱い「N党」⁉

2019-09-03

最近マスコミで「N党」=「NHKから国民を守る党」に関連したニュースが取り上げられることが多くなった。そして、あちこちで“バトル”が展開されるようにもなった。昨日、新宿区選挙管理委員会は、今年4月に「N党」から立候補して当選した松田美樹氏に対し、5月に区民から「異議申し立て」があって調査した結果として、届け出のあった住所には“居住実態がない”として「当選無効」の判断を下した。これに対して松田氏は早速記者会見を開き「不服申し立て」をすると宣言した。なぜ、居住実態がないと判断されたかというと、2カ月にわたって水道料金が0円だったからだ。う~ん、これはどう考えても「暮らしていた」とは言えない。トイレにも入らなかったのだろうか。電気料金も、ガス料金も、極めて少額で、生活できるような金額に達していなかったらしい。本人によれば「夫の居る練馬区の家に帰ることはあったが、それらの料金だけで判断するのはおかしい」と、ちょっと苦しい言い訳。彼女は自分が、どの党から立候補したのかを忘れている。「N党」というのは、そもそもが「NHKの放送を見ていないのに、その受信料を採られるのはおかしい」というところから出発している「党」なのだ。それであるなら、その「区」に生活していないのに、その区の「区議会議員になるのはおかしい」と意義を出されるのは極めて自然。これまで、どちらかと言えば“攻める側”だった「N党」は“まともな政党”とみなされていなかったので、多少、問題はあってもスルーしてもらえることが多かった。けれども、今年、国会議員を2名輩出した政党となったことで、国民の「眼」も厳しく変わりつつある。何しろ、国民の税金が“支払われる党”となったのだ。極端なことを言えば、何一つ政治家らしいことをしなかったとしても、年間、何千万もが税金の中から支払われるのだ。これまで“攻める側”だった「N党」は“守る側”に鞍替えしてしまったのだ。だから、そういう意味では“身綺麗”にしておかなければならない。矛盾があってはならないのだ。私自身もNHKの徴収料金は高いと思うが、それだけで「N党」を政党として応援できるかは疑問なのだ。おそらく多くの人達が同じような考えを持っていると思う。だからこそ「N党」はこれからが政党として“真価が問われる時”で、議員の矛盾は許されないのだ。

なぜ「イスラム原理主義」は危険なのか

2019-09-02

「残党」という言葉があるが、この言葉が“不気味な響き”のままシリアには残っていた。いや、今でも完全に消え去ったわけではない。「イスラム国(IS)」の残党たちのことだ。そういう中で8月31日、ISの主要メンバーでシリアのラッカで“100人以上を断首”したとされるアヌアル・アドゥシ容疑者が、今年3月に拘束されていたことが明らかとなった。確定はしていないが、彼は2015年に起きたパリの“コンサートホール襲撃事件”、及び2016年3月に起きたブリュッセルの“連続自爆事件”にも関与しているとみられている。どちらも多数の死傷者を出した事件で、それ以降「ヨーロッパも安全ではない」とわれわれは感じ出したものだ。そのアドゥシ容疑者だが元々ベルギー出身でヨーロッパのキリスト教徒を標的にテロや断首を繰り返した可能性が強い。日本人は当然のことだが“ヨーロッパ人”でも“キリスト教徒”でもない場合がほとんどだが、“それを支持する人々”とみなされていて、だからテロでは標的になる。まあ、ヨーロッパの教会などを観光して歩く日本人は、確かに教会で熱心に祈りを捧げている人も多い。普段は日本の神社に行き、日本のお寺に行き、手を合わせるのだが、そういう時には同じように教会でイエスやマリアに向かって手を合わせる。それが「イスラム原理主義者」からすれば“仲間”に映ってしまうのだ。イスラム原理主義では「偶像」を極端に嫌う。だから“仏像”も含めて、彫像となっている神々は破壊しなければ気が済まない。もし本当に「神」が“見えないもの”だと思うのなら、偶像など放っておくはずだが、なぜか“魂が宿っている”とでも感じさせるように徹底的に破壊する。大体、古代のヨーロッパや中東に発生した宗教は、いずれも“民族宗教”である。だから自分たちの民族に“味方してくれる神”であり“敵を滅ぼしてくれる神”なのだ。だから、そこには基本的に“博愛”などの精神はない。そういう点ではキリスト教はヨーロッパ発では異色の宗教だが、それでも敵対する民族に同情することはない。中南米を征服した時にも、現地宗教を徹底的に破壊した。なぜならイエス・キリスト自体は“博愛主義”だったがキリスト教徒は『旧約聖書』も経典としている。その旧約聖書には「異民族をやっつける神」として描かれているからだ。つまりは、どの神様も“先祖様”のような役割で、地元にだけ優しいのだ。その極端な教えが「イスラム原理主義」で、だから同じ国であっても原理主義の宗派に属さなければ「敵」となる。日本人から見ると、なぜ同じイスラム教同士でも“戦う”のか不思議だが、古代の教えに忠実なら「博愛」などあり得ないのだ。そして、イスラム原理主義の“捌き方”の第一は「断首」である。痛いだろうなあ…なんて思うようでは原理主義には入れないのだ。

2019年9月の運勢

2019-09-01

“予期せぬ事件”に巻き込まれた二人

2019-09-01

海外の邦人に関するニュースは、よほど大きな事件とか事故とかでない限り、持続的な報道はしない。おそらく今回も“新展開”でも出て来ない限り「そういえば、そういうことがあったな」というような感じで過ぎてゆくかもしれない。8月31日、南米アルゼンチンの北部ウマワカ渓谷のホテルから一人の日本人女性が“行方不明”となっていることが明らかとなった。亀掛川俊子氏(60歳)は一人旅でそのホテルに訪れ、24日から滞在していた。そして26日の朝に衣類やパスポートなどを部屋に残したまま一人で外出し、そのまま姿を消してしまった。ウルトラマラソンを趣味としている女性で、見掛け上は60歳には見えない。おそらく海外の一人旅もなれているに違いない。けれども、人けの少ない地域で早朝に一人で外出するのはあまりにも危険である。もしかしたら毎日の習慣で、ホテルの近くを走って廻ろうとしたのかもしれない。事故か事件かは解からないが、予期せぬ何かに巻き込まれたのは間違いがない。同じように事故か事件に巻き込まれたと思われるのがフィリピンに滞在している日本人の奥村信司氏(52歳)である。彼は現地で働いている人物だが、マニラ近郊の会社を出た23日の午後5時以降の足取りがつかめていない。真面目な人物で一度も休んだことがなかったのに、休み明けになっても出社してこないところから、現地警察の方に27日捜索願いが出た。昔と比べれば、多少、治安は良くなったかもしれないが、フィリピンにしろ、アルゼンチンにしろ、元来がそれほど“安全な地域”ではない。海外の場合、大都市の中心部と観光地の中心部とは比較的安全である。それ以外のところでは“気を許せない”。特に言葉が“通じない地域”と“道路が整備させていない地域”は要注意なのだ。日本なら外国人が田舎に行ってまごついていても、それを標的に集まってくる輩などいないが、海外の場合は必ずと言ってよいほど“怪しい人物”が近寄ってきたりする。大昔、フィリピンに行った時、大きな劇場から出た直後、子供達に取り囲まれたことがある。何か解からないが口々に物言いながら手を差し出すのだ。10人くらいの子たちが当然でもあるかのように手を出し詰め寄って来ると、言い知れぬ恐怖が襲ってきた。現地女性が一括し、子供達が離れたすきに急いで車に乗るよう指示された。イギリスの郊外でも、集団で6名くらいの人物に後ろから付き纏われた。海外では私のように“無防備な者”は狙われやすい。そこでバッグなど持たずに街を歩くようになって以降は、そういう経験をしなくなった。ポケットにそのまま財布を入れて持ち歩いた方が、バッグを肩にかけるより狙われずに済むのだ。

Newer Entries »