元衆院議員の三宅雪子氏が12月27日以降連絡を絶ち、自宅には遺書も残され、入水自殺らしき遺体姿で1月2日に発見された。彼女の場合、家を出る直前まで、ツイッターを更新していて、その内容からも“死を覚悟していた”と推測される。2009年に議員となっているので、ほぼ十年後になって“無念の最期”を遂げたと言えるかもしれない。彼女を含めて、その当時、小沢一郎氏の影響下で登場した女性議員たちは「小沢ガールズ」と呼ばれた。彼女以外には、青木愛氏、姫井由美子氏、田中美絵子氏、福井衣里子氏などがいた。けれども十年経って、そのほとんどは「政界」から消えた。いかに政治世界というものが、勢いだけでは続かないか、見た目だけでは続かないか、如実に示す結果となっている。青木愛氏はその後、実家の保育園が放火されるとか、小沢氏の秘書との不倫が取り沙汰されるとかした。姫井由美子氏は「姫の虎退治」という触れ込みで華々しく登場したが、愛人から暴露本が出て「ぶって姫」という名称に早変わりした。田中美絵子氏はピラミッドに登って逮捕され、キャリア官僚との不倫が発覚し、風俗ライターやヌード女優だった過去が暴かれた。福田衣里子氏の本当の夢は「パン屋さんになること」であったと明かされた。今回、“無念の最期”を遂げた三宅雪子氏も、自宅マンション4階から転落して“自殺未遂”だったのではないかと騒がれた過去がある。どう考えても、十年後の「小沢ガールズ」は“危ない人たち”で、まともな政治家としての“歩み”を残していない。一つには、日本ではどうしても“女性政治家”に対して、そのプライベートでの動きの方に注目が集まりがちな事情もある。もう少し、政治本来の“役割”をどれだけ果たしているか、そういう部分に切り替えないと、いつまでたっても本当の意味で女性政治家が活躍できない。ただ“政治の世界”は、勢いだけでは続かない。強い「信念」のようなものが根本的に必要なのだ。それがない女性は、かえって“不幸に巻き込まれやすい世界”として認識した方が良い。特に男性は、政治世界に足を踏み入れた女性を、守ってはくれないのだ。
昨年の“良い夫婦の日”に結婚されたタレントの壇蜜氏が、“新婚の年初の過ごし方”を問われ、1月5日時点で「まだ今年になって逢っていないんです」と答えたそうだ。元々この二人、仕事の関係で、すぐ一緒には暮らせないようで、夫である清野とおる氏の方が壇蜜氏の自宅に“逢いに行く形”の結婚生活らしい。俗にいう「通い婚」だが、昔は「別居婚」という言い方をした。そして昔多かったのは、夫側が“単身赴任”等で期間限定で海外などに出張するような場合だった。最近は必ずしも、そういうような事情ばかりではなく、互いの生活事情とか、仕事事情とか、経済事情とか、家族関係とかいろいろなものが背景として出て来て、結婚はしたいが“一緒には住めない”というケースも多くなってきているよう感じられる。そのせいか、壇蜜氏のように新婚の新年で1月5日で「まだ逢っていない」という返答も、さほど違和感なく受け入れられる世の中になった。おそらく、今後、こういう「夫婦の形」は増えていくことはあっても減ることはないのではないだろうか。特に日本の場合、家族関係が極めて“濃密な家族”と、逆に“希薄な家族”が双方とも増えて来て、完全に二派に分かれつつあるような傾向がみられる。“濃密な家族”にとっては、節目、節目の“大切な日”は一緒に過ごすのが当たり前で、離れているなど考えられない…ということになるし、その一方“希薄な家族”の方は、むしろ直接“顔を合わせない”ことの方が家族間が上手くいく…という法則のようなものが働きだしている。「通い婚」という形も、或る意味では互いに“都合の良い形”で、いったんこれが定着してしまうと、今度は一緒に暮らし出すタイミングがなかなかに難しい。新婚の場合、最初は「通い婚」でも一年以内くらいに一緒に暮らし出さないと、そのままずるずる「通い婚」が続いていく可能性が強い。「シェアハウス」がいつの間にか“おひとり様”の新しいライフスタイルの一つとして定着したように、「通い婚」というのも新しいライフスタイルの形として“市民権”を得ていくような気がする。
科学誌というのは、時として“科学”とは思えないようなことを報告する。1月2日にアメリカの科学誌「カレント・バイオロジー」に掲載された日本の研究者たちによるショウジョウバエによる実験データが興味深い。名古屋大の上川内あづさ教授等によれば、ショウジョウバエはオスがメスに対して求愛し、最初はそれをメスが拒絶するのだが、何度か求愛を繰り返すことによって、メスの“拒絶する”神経細胞は弱められ、やがて“受け入れる”ように変わっていくらしい。つまり、最初は拒絶する神経細胞が活発に働いて、逃げたり、払いのけたりするのだが、やがて“拒絶を抑え込む”神経細胞が働きを強めて、ついには“受け入れ態勢”が整えられていくのだという。それはあくまでも脳の働きによるもので、その脳の神経細胞の個々の違いと役割をショウジョウバエの実験データから証明したというのだ。この実験データが、そのまま人間に当て嵌まるかは微妙だが、少なくとも動物には“そういう要素”が神経細胞の働きによって先天的に組み込まれている。したがって、断られてもめげずに、一人の女性に何度も“求愛”を繰り返す男性は、少なくとも、一度だけですぐ諦めてしまう男性より、はるかに“求愛成功の確率”が高くなることだけは確かなようだ。但し、現代は、拒絶されてもしつこく何度でも求愛する男性は「ストーカー」とか「セクハラ」の容疑で告発される可能性もあるから、むやみに人間の女性で試みることはおススメできない。いったん「ストーカー」とか「セクハラ」の称号が与えられてしまった男性は、その後ずっとついてまわる。何度も求愛して成功するのは、相手の反応が“微妙な時”である。しばらく考えてから拒否するとか「今は…」と含みを持たせて拒否するとか、完全には嫌っていないことが“絶対条件”だ。ところが、ストーカーとなりがちなタイプの男性は、その違いを理解していない。嫌いだけど、相手を傷つけたくないとしてやんわり断られたのを「迷っているからだ」と勘違いする。女性の側も「嫌いなので、ごめんなさい」と言った方が、後になって事件に巻き込まれないのだ…と知っていてほしい。
正月用のTV番組を見ていて、私には釈然としないことが一つあった。深夜番組でもないのに、TVに“仮面をつけて”出ている占い師の居たことだ。なぜプロレスラーでもないのに仮面をつけているのか。そんなに顔を晒したくないなら、最初からTVになどでなければ良い。しかも、ごく“普通の主婦っぽい顔立ち”をしているから、なおのこと違和感がある。もう少し“ヤバい系”とか“濃いメリハリ系”の顔立ちなら、まだ“違和感”は薄れるのだが…。どうしてTV局というのは、こんな“小学校の学芸会もどき”のことをしたがるのだろう。勘違いされたくないので、一応言っておくが、私はTVに出たいからこんなことを言っているのではない。私はTVを見る時に、あくまで一視聴者として観る。占い師の側に立ってみるようなことはない。だから、むしろ“制作サイドの側”に立った時に、異論が出ないことが不思議で仕方がないのだ。もう一つ、誤解されるのも嫌なので、その仮面占い師というのは水晶玉子氏のことである。この人、元々顔の横幅が広い。だから仮面は似合わない。もし顔を出すのが嫌なら、最初から頭巾をかぶれば良かったのだ。ところが最初は“背面写し”でTVに出ていた。そこまでして顔を出したくないものを何故TV局は引っ張り出すのか。大体、この人が引っ張り出されたのは、同じく“仮面をつけている”ゲッターズ飯田氏が「尊敬している」と吹聴したからなのだが、大体、このゲッターズという人物自体が“吉本興業の回し者”で、吉本が束になって宣伝しているだけの人物でしかない。何度も言うが、私は自分がTVに出たいからこういうことを言うと思われるのが嫌なので、言うことを控えて来たのだが、もしTV局が“タレント的占い師”を望むのであれば、最初から完全に“タレント占い師”として養成すれば良い。昔は「銀座ジプシー」という文字通り“頭巾型占い師”が居た。それはそれで興味深かったものだ。蛇神様からのお告げを告げる“へんてこ占い師”もいた。かえって、そういう風に最初から“エセ占い師”として登場させた方が違和感を持たずに済む。中途半端な“当たる占い師”などとしてTVに出すのだけはスッキリしないので止めた方が良い。
カルロス・ゴーン容疑者の“逃亡劇”は、昨年末に飛び込んで来た“驚くべき事件”だが、日本人たちの反応はそれほど強くない。もしも、ゴーン容疑者がもう少し日本人たちから親しまれ、或いは尊敬されている人物であったなら、違った反応になるだろうに…と私は思う。まず、一つには彼の“強烈な外貌”が怖そうで、薄味好きの日本人からあまり好まれていなかった。彼はフランスから日本にやって来て、もう20年以上になるのに、ほとんど日本語を覚えようともしなかった。彼の書いた手記を読むと、いかに彼が“日本に貢献したか”については書かれているが、どれだけ日本に馴染んでいるか、日本を好んでいるか、日本人の友達については、まったくと言ってよいほど書かれていなかった。つまり、彼は確かに日本に来て、多くの仕事を成し遂げ、日産を“世界企業”に押し上げ莫大な財産を築いたが、日本では「孤独な人」だったような気がする。だからこそ、最後になって日産幹部は“検察”に彼を売ったのだ。彼自身が述べているように、本来であれば日本の幹部だって、特に西川前社長はゴーン容疑者と同じくサインしていて、或る意味では共謀者だった。それなのに「自分だけが逮捕されたのはおかしい」という彼の主張は、その部分だけで言えば正しい。けれども、彼は知らなかった。或いは“知らないふり”をしていた。日本人は、絶対的権限を持つ会長に逆らえるほど自己主張は強くない。だからサインするのだ。そういう日本人たちを上手に操って私腹を肥やした。強面のゴーンに、逆らえる者など居るはずがなかった。もう少し彼が日本と日本人を尊重して振舞っていたなら、自分の部下たちから検察に“売られる”こともなかっただろう。レバノンでは大人しくしていられるのだろうか。日本の“司法”と闘うことを晩年の目標とするのは、あまりにも寂しい。けれども、最期まで「容疑者」の十字架を背負って生きなければならない彼に“安息の日”はこない。
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