4月, 2020年
2020-04-30
人間が「人類の歴史」の中で繰り返してきたことは、古代文明の時代から現代まで、基本的にはあまり変わっていない。一見、人間の科学は進歩して、地球を征服したかのような錯覚に陥っていたが、それはあくまでも“幻想”にすぎなかった。そのことを今回の“コロナ騒動”はものの見事に証明してくれた。結局、人は“大自然”に勝てない。勝てないどころか極めて脆弱である。そして、歴史を振り返ればわかることなのに、今更のように“大自然(の中の一つの現象=感染症)”に恐怖し、慌てふためく。おそらく、私が最初(1月半ば)に「防ぎようのない自然災害」に怖れた時、ほとんどの人達は「この人は何を言っているんだろう」と思っていたに違いない。そして次に、私が最初に先行きの“日本経済の危うさ”について書いた2月にも、ほとんどの人達には意味が分からず「何を言っているんだろう」という反応であったに違いない。占い師は「先を予測する」のが仕事である。だから、多くの人たちにとって、まだ“見えないもの”を観て、“聴こえないもの”を聴いて、今の段階で「どうすべきか」アドバイスしていることが多い。少なくとも私はそうなのだ。だから、例えば私が“書く”ことの中には、多くの人たちにとって理解に苦しむようなことを書いてしまうようなこともある。例えば、私は二日前、芸人・岡村隆史氏の発言を多少、擁護するようなことを書いた。そして放送局が公式に「謝罪文を掲載するようなことだろうか」と疑問を呈した。この点に関して、誤解されている方がいるかもしれないので、改めて書く。私は、近年における「一方向の正義」を怖れるのだ。「一方向の正義」とは、一つの考え方、一つの観方、一つの生き方、一つの正しさしか「正しくない」とする捉え方のことである。それ以外は、世の中から「一掃すべきだ」という判断の仕方である。日本が最終的に太平洋戦争に突き進んだのも、この「一方向の正義」からだった。何が“正義”かは、時代の後にならなければ解からないことも多い。「それでも地球はまわっている」という言葉を残して“火あぶり”にされた人物もいるが、その当時では「まわっていない」方が“正義”だった。つまり、時代における“正義”だから“真実”だとは限らないのだ。常に「真実はどこにあるのか」という一点で、私は書く。今後も、もしかしたら世間的に観ると「おかしいのでは…」と思うようなことを書く時があるかもしれないが、私の視点は、常に同一なのだ。
2020-04-29
私の大好きな「オスマン帝国外伝・Ⅲ」が始まった。BSの昼間の時間帯なので録画をして朝に観る。1500年代の歴史物語だが、日本でいう“大奥”のことを中心にしていて、だから歴史物語とはいうものの多分にフィクションが含まれる。女性同士の“権力争い”や“愛憎表現”が随所に出て来て、なかなかに濃厚である。最近の日本のドラマは“奥行き”が乏しい。漫画的にストーリーを追うので、出来事としてはそれなりにいろいろ“見せ場”はつくられているが、いかにも“つくりもの”として強引に当て嵌めた感が否めない。だから共感することが出来ず、そのドラマの中に十分に入りきれない。そこへ行くと、このトルコドラマは確かな歴史背景を下敷きにしながら、それぞれの主要な登場人物の性格をものの見事に“描き分けている”ので、多少、おかしな出来事であっても納得させられてしまう。ドラマ作りで一番大切なのは、個々の人物の性格が観ている内に解かって来て、その人物ならこういう時にこういう風に行動するだろうと納得できることである。ところが最近の日本のドラマは、どの人物でも同じことをする。その人なら絶対にしないようなことをする。筋立て優先だから、してしまうのだ。だから、その人を“二重人格”とでも理解しなければわからなくなる。共感できなくなってしまうのだ。その点、このドラマでは個々の性格の違いが事件の中で浮き彫りにされる。だから、リアリティがあり入り込みやすい。出演者が多いので最初こそ誰が誰だかわからないが、徐々にわかって来る。丁度、大きな会社に入社した時、初めは誰が誰だかわからなくて戸惑うが、徐々にわかって来ると、親しみを感じて来るのと似ている。さらにもう一つ、俳優たちの演技が実に上手い。その世界に入りきっているからだと思うが、涙をポロポロと流す。何度でも流す。さて実際の歴史の方は、世界各国から集められた「妾(そばめ)」と呼ばれた3000人(⁉)もの女性達が別宮殿の中で暮らしていたらしい。日本の“大奥”は100人にも達していなかったはずだから、その規模の違いが分かろうというものである。したがって実際の帝国別宮殿においても、そこにさまざまなドラマが生まれていただろうことは間違いがない。これは歴史ドラマなのだが、同時に今日のように、それぞれの国家が“自国を防御”するため必死になる時、このドラマが教えてくれるところは大きい。過去の歴史は「鏡」なのだ。
2020-04-28
タレント・芸人の岡村隆史氏のラジオ深夜放送での発言が問題視されている。放送自体は23日の深夜で「岡村隆史のオールナイトニッポン」というラジオ放送だ。この番組の中で岡村氏は今回の“コロナ騒動”で収入が激減した女性達が、収入を得るため一時的に風俗系アルバイトをするのではないか…といった発言をしたらしい。確かに、いろいろな点で問題のある発言だが、深夜のラジオ番組である。もっと言えば「芸人」の発言である。この程度の発言で、放送局の番組公式ページで「女性の尊厳と職業への配慮に欠ける発言をした」として謝罪文を27日に掲載したのだが、本当に必要なことだったのであろうか。もちろん、彼自身の中に多少なりとも「女性」や「風俗」に対する偏見的な観方があるのは事実だ。けれども、そういう偏見は彼に限ったことではなく、多くの男性達にもある。いや、肝心の女性自身にも「風俗」に対して偏見を持っている人は多い。実際には男性ばかりではないのだ。そこに、この問題の“根深さ”や“普遍性”がある。近年、女性の中には、この種の問題に対して“過敏に反応”する人たちがいる。あらゆることに対して「男女平等」であることが“絶対条件”であるかのようなことを主張してやまない人達がいる。けれども、大昔から、男女は不平等であり、不平等で良いものなのだ。なぜなら、女性でも大昔から“権力を握る人”が居るし、“財力を掴む人”もいる。逆に男性でも女性に“かしずいている人”もいるし、女性から“飼われているような人”もいる。どの時代でも、どの文明でも、そういう人達はいる。確か瀬戸内寂聴氏だったと思うが、よくタクシーの運転手やホテルの従業員が荷物を運んでくれようとするとき、それを拒否して自ら運ぼうとする人がいる。あれほど迷惑をかける行為はないと言っていた。つまり、彼らはそれを運ぶことが仕事なのに、それを“奪おうとする行為”は親切でも何でもなく、屈辱を与える行為でしかない、というのだ。実際、その通りで、人にはそれぞれの“役割り”とか“生きがい”とか“立場”とかあって、何でも「平等」にしてしまえば良いというものではない。例えば「占い師」という職業に対しての“捉え方”は実に千差万別である。「天使」に近いような評価を与える人もいれば「詐欺師」に近いような評価を抱く人もいる。それを“一律にしろ”といっても、多分無理なのだ。大昔、十代の頃、私はよくラジオの深夜放送を聴いた。さまざまなパーソナリティーが好き勝手なことを言っていた。それが楽しかった。その方が自然だし、それで好い。深夜放送まで規制をかけると、ますます“つまらない考え方”しか出来ない人間がはびこっていく。
2020-04-27
ちょっとショッキングな数字が公表された。エヌエヌ生命保険が全国の中小企業経営者に行ったアンケート調査によると、回答して頂いた経営者の60%が、今年の6月までに「新型コロナ感染」が終息してくれなければ、企業として存続できない状態になるとの見解を伝えた。日本は、その約9割までもが中小企業によって成り立っている国である。名の知れた大企業など、ほんの1割程度なのだ。その中小の6割までが崩壊するのでは「日本国」そのものが成り立ってゆかない。私は正確な数字を知らないが、日本の中小の経営者、零細企業の経営者たちの半数以上が「ギブアップ」寸前の状態にある。だいぶ前にも「どうする日本」と書いたが、その時には共感しなかった方達も、今ならしてもらえるのではないか。私は大昔、日本列島を席巻した「日本沈没」の小説や映画を想い出す。謂わずと知れた小松左京氏のベストセラーだが、1973年に小説を発表して、その年の内に映画も作られた。あっという間の仕事。すごいエネルギーだ。小説の方は200万部を売り、映画の方は880万人を動員した。どちらも“すごい数字”である。実は、あの年、“狂乱物価”と呼ばれるようなインフレ状態が起こり、オイルショックによる“トイレットペーパー騒動”が起こった。つまり、今の世相と、妙な形で似ているのだ。だから、人々は「日本沈没」を単なる“絵空事”には思えなかったのだ。したがって、不謹慎だが、もし今“似たような小説”を発表すれば、爆発的に売れるかもしれない。人は、不安に駆られると、その“先の出来事”が知りたくなるように出来ているからだ。ただ私は「どうする日本」を書いた前後に、こういう一方向に流れる“世間の関心事”というのは、そんなに長期間続かない、とも書いている。せいぜい4カ月程度なのだとも書いている。2月に始まった日本の“新型コロナ騒動”は、そういう意味から言えば5月までで、一応、鎮まっていく計算になる。もちろん、現実は不確定だが、少なくとも大方の人々の“関心”はそこから遠ざかる。そうなっていくのが“正常な世の中”なのだが…。
2020-04-26
人はときどき「奇跡」に賭ける。その奇跡は、ほとんどの場合“生じない”で終わる。けれども、稀に、その奇跡が実現することがある。あきらめかけた時に実現することがある。鈴木順子氏の母親の場合もそうだった。娘は2005年4月25日に起きた尼崎JR脱線事故で、へし折れた2両目の車両に乗車していたが、意識不明の状態で救出された。その時、医師から告げられたのが「99%助からないと思います」という言葉だった。その後で、一応、それでも治療を続けるかどうかを選択を迫られた。「娘はまだ生きている」とても投げ出すことなど出来なかった。母親の意志で治療は継続されたが、意識の戻らないまま一か月が経過した。「植物人間」状態のまま治療費だけがかさんでいった。それでも、母親は「奇跡」に賭けていた。そして、その願いが通じたかのように、間もなく、娘は目を覚ました。けれども、目を覚ましたのだが、呼びかけても反応はなかった。そのまま4カ月が経過した。毎日、母親は呼びかけを続けた。その結果、5カ月目になって言葉を発するようになった。日に日に、こちらからの呼びかけに、ハッキリ応えられるようになっていった。こうして、入院から11カ月後になって、めでたく退院することが出来た。但し、身体は下半身不随で全身にマヒが残り、車椅子姿だった。それでも、母娘は、あきらめなかった。事故当時30歳だった順子氏はさまざまなリハビリを懸命に続けた。こうして昨日で15年が経った。現在、鈴木順子氏は45歳になっていた。マヒを克服して、書道や“ちぎり絵”の製作に余念がない。“ちぎり絵”はマヒのリハビリを兼ねているのだが、元々デザインを学んでいた彼女には、そういう分野にはセンスと素質があった。だからリハビリのためというよりも、自己表現の場になった。創作活動の場になった。“ちぎり絵”の中で、自分というものを表していきたい、自分の“生きている証”を表現していきたい。そういう気持ちが強くなった。人の助けを借りれば、歩くことだって出来るようになった。あの事故ですべてを失ったが、少しだけ神様は優しくて、“ちぎり絵”の悦びを与えてくれたのだった。
2020-04-25
全国で20店舗以上、高級カプセルホテルを展開してきた「ファーストキャビン」の破産申請が報道された。2006年創業のカプセルホテルだが、航空機の“ファーストクラスの座席”を意識した高級感が売り物で、女性客や訪日外国人客たちから人気があった。けれども、今回の“足止めウイルス”によって、完全にストップをかけられ、これ以上耐え難い状況に陥ったようである。考えてみれば「カプセルホテル」というのは“密閉空間”の代表的存在で、この騒動が一段落しないことには、内外からの客を呼び集めようがない。全国で20店舗も展開していれば、資金が底をつくのは時間の問題であった。この種の“時代”を味方につけた商売というのは、いったん風向きが変わると、あっという間に状況が逆転してしまう。そういう形で、いったい、どのくらいの業種・業態の職業が失われていったことだろう。そういえば、私はかなり前に「干支暦」上で「庚」の“年と月”とが重なる4月は、各企業の倒産・破綻ラッシュが起きやすいから注意しなければならない、と述べておいた。暦上の4月は、5月4日までが含まれるので、その間にもいくつかの企業がさらにギブアップすることだろう。今年を代表する「4月」は、そういう意味でも“不吉な一年”を象徴する月となりそうだ。ただ一つ良いことがあったとすれば、国民全員に“給付金”が与えられることになったことだ。各種の休業自粛分野の職業においても、各都道府県などから多少は補われる制度が次々と打ち出されている。4月にこれらが次々決まったということは、少なくとも行政は個々に対して「救いの手」を差し伸べる一年になるという“証し”でもある。私が新年の早くに予感した「防ぎようのない自然災害」は、当初予想したよりも大きく拡大して日本を覆ったが、インドのニューデリーで、中国の北京で都市封鎖によって“大気汚染が一掃された”というプラス効果ももたらしているように、やがては日本にも“素晴らしい功績”のいくつかを残していってくれることだろう。
2020-04-24
私がまだ十代だったころ「ベ平連」という活動組織があった。確か「ベトナムに平和をもたらす活動連合」といった感じの意味合いの組織で、作家の小田実氏が中心的存在だった。私個人は“デモ”のような行為はあまり好きではないが、小田実氏に対しては、その著作物から尊敬をしていた。その彼が、何かのインタビューで「あなたはなぜ日本人のための活動ではなく、ベトナムの人達のために活動しているのか」と問われて、そう質問した人物に「もし、あなたが日本人のために何かが必要だと思うなら、それを行動で表すのが良い。私はたまたま彼らと関わったから、彼らのために活動している。人間は自分が関わったものの中でしか世の中に貢献できない」と言った感じに答えていた。この言葉は人間の本質をついていて、人は最終的に自分に直接かかわることでしか世の中に貢献できない。あれこれと吟味し過ぎていると、結局、何もしないで過ぎてしまう。世の中に「貢献したい」と思っている人は多いのだが、何を始めて良いかわからない、という人達も多い。自分が直接かかわったものを始めるのが一番良い。それも、すぐ始める方が良い。「貢献」というのは、そのうちと思っていると、いつの間にか遠のいてしまう。そういう風に出来ているからだ。昨日、タレントの渡辺美奈代氏が自分がオフィシャルアドバイザーを務める中央建設に自ら発案し、東京の聖路加国際病院に対して医療マスク1300枚、防護服100着を寄付することを提案し、それが実現したことが報告された。彼女自身が「自分の命を投げ出して過酷な現場で日々奮闘されている医療従事者の方々に、微力ながらお役に立てればと、同社に相談をして実現することが出来ました」と語っている。芸能人など、著名人はさまざまな形で各種企業・団体から“名誉職”を与えられている場合が多い。或いはスポンサー企業となってもらっている場合が多い。医療従事者用のマスクとか防護服とかは、ただ単にお金を出せば作れるとか寄付できるというものではなく、それなりのルートが必要である。おそらく、この建設会社は特殊な作業着などの製作依頼でルートを持っていたのではないだろうか。或いは人脈を持っていたのかもしれない。とにかく、芸能人個人では不可能なことを関わりある企業に協力してもらうことで実現した。このような形で、さまざまな著名人が動けば、解決していく問題が数多くある。まさに、芸能人だから出来る「貢献」なのだ。
2020-04-23
今から25年くらい前、女性週刊誌などの誌面にひっきりなしに出て来たのが「復活愛」の文字だった。なぜ、あの言葉が流行ったのか、ほんとうのところはよくわからない。けれども、特に「電話占い」の広告誌面では、その言葉が“合言葉”のように踊っていた。それに伴って、一時期「電話占い」の会社が乱立し、激しい“引き抜き合戦”まで横行した。いつの間にか、使われることも少なくなったが、それでも未だ「復活愛」は、電話占いにおいてはもっとも“魅惑的なワード”として存続している。昨日、前澤友作氏と剛力彩芽氏との文字通り「復活愛」がニュースとして飛び込んできた。あれほど世間を“騒がせた恋愛”だが、その終わり方もユニークであった。月旅行に一緒に行く、行けないの果て…に“別れ”がやって来たのだ。かと思うとすぐに、前澤氏は「新たなる恋人」を募集した。そのこと自体も世間的には大いにひんしゅくを買った。その一方で、“女優”を捨てられなかったはずの剛力氏の方は、女優としての評価が失われたことを悟り、前澤氏への“未練”をさまざまな形で表現した。結局、すったもんだのあげく、元のさやに戻ったというのが今回の成り行きらしい。私は2年前の4月、つまり前澤氏と剛力氏とが「恋人宣言」した直後、次のように書いたのだ。《共に金星と木星とが0度&180度と“愛情観”が似ていて恋愛礼賛型。双方とも豊かな愛情を持て余し気味で同情心の強い性質。ただ水星が月と0度一体化し、土星とも180度の剛力さんは過敏な性質。なかなかに扱い辛い一面もあります》という風に書いていた。まだ、どうなるのか、本人同士にも分らない時点でのホロスコープ判断である。今回「復活愛」が成立したのは、やはり、その愛情観に共通性を持っていた、ということが大きいように私は思う。ホロスコープにおける金星のアスペクトは「愛情観」を左右する。したがって、金星アスペクトが共通している者同士は、その愛情表現や愛情生活に違和感を持たない。「恋人と宇宙に行く」という前澤氏にいったんは引き下がったのに、それが彼の“愛の証し”なら「宇宙の果てまでもついていく」と考えが変わったか。但し、水星と月、水星と土星がもたらす“過敏さ”と“憂鬱さ”は無くなったわけではない。ふたりは、どうやってそれを克服するのか、現実の生活は宇宙飛行以上に複雑なのだ。
2020-04-22
横浜市教育委員会は21日、昨年11月19日に市立の「特別支援学校」内で、全身不随で車椅子の生徒に対して暴力をふるった福田慎教諭(34歳)に「停職6ヵ月」の処分を与えた、と報道されている。福田教諭はトイレで車椅子の生徒の手が複数回当ったことに腹を立て、暴言を吐き、肩を殴ったり、胸ぐらをつかんで体をゆすったりした。その結果、生徒は頭をぶつけて2針縫うケガを負ったとされている。さらに、そのことを保護者から問われてウソを言い、上司に対しても虚偽の報告を出していた。今年2月に「暴行罪」で略式起訴により罰金30万円の判決が下された。この事実を踏まえての教育委員会の処分が「停職6ヵ月」だというのだ。私には、とても妥当な処分には思えない。私が問題視したいのは、これが通常の学校ではなく「特別支援学校」であるということだ。つまり、この生徒は“特殊な生徒”ではなく、この学校にとっては“同様な生徒たち”の仲間の一人であるということだ。つまり、この学校に“教諭”として勤めるということは、最初から“そういう子供達”を教えるということを前提として勤務しているはずだということである。そうだとすれば、健常者としての“普通の生徒”を教えるよりも、はるかに忍耐強さとか、理解力とかを持っていることが条件となる。ところが、彼は、彼らに対しての理解や温情が最初から窺われない。つまり、そういう学校に教師として勤めてはならない人物なのだ。したがって、教育委員会が「停職6ヵ月」として、また復帰できる余地を残したことが、私には理解できない。「犯罪としては重大ではないから…」「略式起訴で済んでいるから…」というのが委員会の理由なのかもしれない。けれども、彼には反省がない。もし反省があったのなら、保護者に嘘をつくはずがなく、上司に虚偽を言うはずがない。そういう人物が、再び半年後に「教壇」に立つ。果たして、それを認めることが教育委員会として妥当な処分と言えるのだろうか。しかも、昨年11月に起こった事件なのに、半年以上も放置してきている。どうして発覚して、すぐ処分できなかったのか。普通学校でさえ問題ありの人物を、特別支援学校でそのまま“教えさせた”こと自体が、問題ではないか。おそらく生徒たちは、その教師の言うことに逆らえなかったであろう。暴言や暴力を受けるからだ。
2020-04-21
世の中いろいろ騒がしくなってくると、今が田舎から都会へ出ていくチャンスと思う人もいれば、逆に、これを機会に都会から田舎や実家に戻ろう、と考え出す人も出てくる。本来なら3月か4月が移動の時期だが、今年の場合には“コロナ騒動”が一息ついた7月や8月が“大移動”の時期となるかもしれない。それに先んじるかのように、昨日、福岡市の住吉神社では“引っ越し”が行われていた。と言っても人間の“引っ越し”ではない。カルガモ親子の引っ越しだ。住吉神社内の「ひょうたん池」で生まれた11匹の小ガモたちは母ガモに導かれるように池を出て、よちよち歩きながらも横断歩道をわたり、150m先の那珂川へと引っ越していったのだ。めでたし。めでたし。さて、人間の場合には、必ずしも都会に出たから成功できるとか、田舎に戻ったから幸せを掴めるとは限らない。どちらの方が向いているのか、或いは住む所など関係ないのか、それらは個々によって異なるからだ。その一つの見出し方として、手相の生命線を観てみよう。実は、この“下部付近”こそが、我が居場所を暗示している部位なのだ。その生命線の下部がクッキリとした形状で親指付け根を取り巻いていれば、俗に「長命型」と言われる形状の生命線だが、こういう人は“一ヵ所に落ち着く”タイプで、いったん腰を落ち着けると、その所に長く定着するのを特徴とする。したがって、本来は“地元定住型”だが、もし都会に出て成功したいなら、若いうちに出て都会の方が“本拠地”の意識にならないと、なかなか都会の中で成功するとか定住するとかは難しい。出来れば21歳までに田舎や地元を離れることである。但し、或る程度、地元で名を成していて、地元だけに満足せず、都会にも“もう一つの場”を設ける意識で出るのなら良い。逆に、生命線の後半部分が失われている人、親指とは“逆方向”に流れている人、後半部分がいくつにも分かれている人は、基本的に田舎や地元に“落ち着く”ということが難しい人である。そういう人は、どんなに地元で頑張ろうと努力しても、いずれは地元を離れるような事情が生じてしまうケースが多い。地元に残って成功・活躍できるタイプではないのだ。特に、生命線の後半部分が消えてしまっている場合、地元や田舎生活そのものが合わないケースが多い。あちこち転々とする人物にもしばしば見受けられる。生命線の後半部分に何本もの枝線が下方に出ている人は線自体が細ければ体力に乏しいことを意味するが、線自体に力がある時には、あちこち飛び回るのにふさわしい手相となる。枝線が長く小指側に流れているのは、海外で成功していく人の相だ。
2020-04-20
多くの人が「感染症」というものの“不気味さ”を改めて感じつつあるが、そこで同時に感じさせられているのが「宗教とは何か」「神とは何か」という永遠のテーマだ。昨日、長野市の善光寺で、触れると病や痛みが治る…とされてきた“びんずる尊者像”という彫像の“おさわり”が禁止になった。どうも“おさわり”と書くと卑猥な感じがするが、それ以外に書きようがない。とにかく、病や痛みが治る像は、病が“うつるかもしれない像”へと変わった。非力だったのだ。けれども、それは仏教だけではない。キリスト教でもイスラム教でも「神」関連の施設は、ことごとく“密集・密接”で集団感染を呼び起こしやすいということで、立ち入りが禁止されている。つまり、どの神であろうと、感染症には勝てない、ということだ。人類は早くから、このことに気付いていた。けれども、それでも“神に縋ろうとする”人々は後を絶たなかった。14世紀のヨーロッパでは人類史上最悪のペストが猛威を振るった。その時、失われた命は2000万人とも3000万人とも言われる。当時におけるヨーロッパの人口のほぼ三分の一を失ったとされている。ところが、この時期を境として、ヨーロッパでは何故か宗教的な絵画や彫像などが急速に増えて来る。或る意味では、それまでやや低下傾向にあった信仰心が急速に強まったのだ。ラファエロとか、ダビンチとか、ミケランジェロとか、誰でも知っている画家や彫刻家たちは、この時期を境に生まれたのだ。彼らは自分の好みで「神」を描いたのではない。信仰心が足りなくて、神をおろそかにして来たから「天罰」を受けたという想いが強くて、生き延びた人達には強くて、ごく自然に“神々への想い”が強まったのだ。本来であれば、ペストが流行して、どんなに熱心に信仰しても、奇跡を起こすことは出来なかったのだから、信仰心は薄れてしまいそうなものなのに、一途な人々は、決して「神」を裏切らなかった。まるで「塩対応」への片想いのように“偉大なる神”の姿がさまざまな形で描かれ、形作られたのだ。
2020-04-19
滋賀県に「高島市」という市があるそうだ。人口4万8千人の市だ。市長は福井正明氏である。好い名だ。このような時期に、市として独自の“良い救済法”はないか。市長は考えた。そして決断した。全市民に一万円の“地域通貨”を支給しよう。高校生以下の子供達には三千円の“図書券”を支給しよう。市の「財政調整基金」を取り崩せば、その費用5億2千万円は何とかなる。市の商工会が発行している「アイカ」という地域通貨には市内の1300店舗が協賛している。これを使わない手はない。こうして、高島市は市長による“英断”の下、全市民に一万円の「アイカ」と高校生以下には「図書券」とを郵送することになった。高島市には、実はこれまでのところ“新型コロナウイルス”の感染者は幸いなことに一人もいない。だから、このような方法を取らなくても良いと言えば良いのだが、経済的な“落ち込み”はほとんどの市民にあって、学校も休校せざるを得ない。そうであれば、多少なりとも商店街にもプラスに作用し、子供達にも自宅学習に役立つ方法として、今回の方法を発案・採用したという。どの市でも「財政調整基金」は存在する。そうであれば、それを今回のような「防ぎようのない自然災害」に活用するのはおかしなことではない。このようなニュースを、小さな街のユニークな出来事としてだけ見過ごして良いのだろうか。これこそ、正に各地域に、日本中の全国に“感染させていくべき”出来事ではないだろうか。個々の市や町によって、財政は異なる。したがって、それぞれの住むところによって「地域通貨」の額や「図書券」の額に違いは出て来るだろう。もしかしたら一人五万円まで支給できるところがあるかもしれないし、一人二千円しか支給できない町もあるだろう。それでも、それらは国からの「十万円」にプラスされるものなので、誰も文句は言えないのではないだろうか。これを高島市だけの“発生”とするのは、あまりにもったいない。感染症が巻き起こした事態なのだから、この“プラスアルファ”も感染症のごとくに人々が広めていけば、やがて全国津々浦々で見掛ける現象となって、日本全域に“小さな幸せ”をもたらすのに違いない。
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