7月, 2020年
2020-07-31
昨日、たまたまコンビニに行った。そこで、一冊の雑誌を買おうか買うまいか、ちょっと迷った。普段、買い物をするときに、私はそんなに迷う方ではない。ただ、その雑誌の時には迷った。そして結局、買わなかった。いつもは、大体、手に取ったら買ってしまうケースが多いのだが、その時には妙に迷った。一つには“袋とじ”のページが多くて、開いて見てがっかりするのが嫌がったせいかもしれない。多分、その雑誌の編集者は“袋とじ”にすることで「買ってもらえるはずだ」という意識で作成したのだろう。そうでなければ、三か所も四か所も“袋とじ”にしない。けれども、私は最近、そういうのを破いて視ること自体が面倒で、そのままになってしまうケースも多い。映画でもTV番組でもそうだが、あまりにも“予告”ばかりを見せつけられると、もう何だかその番組を見たような気分になって、本編を観ようと思わなくなる。天邪鬼的な性質だからだろうか。“予告”とか“宣伝”とかは、ちょっとなら良いのだが、何度も何度も繰り返し行われると、妙に冷めた気分になってしまう。書籍でもそうだが、何百万部も売れたような本を、私は読んだことがない。逆に、何の宣伝も予告もなくて、それなのに何気なしに観て感動すると、ものすごく得したような気分になる。その“出逢い”に感謝したいような気分になる。人生というのは、最終的に「何を択ぶか」「どう決断を下すか」の繰り返しである。私は、そういう時、みんなの意見とか噂とかよりも、自分の“直感”を重視する。よく、何でも「口コミ」重視でものを決める人がいるが、口コミというのは要するに「他人の感覚」でしかない。多くの人はそうなのかもしれないが、自分は違っているかもしれない。それは実際に体験してみなければわからない。そうだとすれば、私なら自分の“直感”の方を優先する。その方が後悔しない人生を歩めるからだ。最終的には誰もが「自分の人生」である。違っていても誰も責任を取ってはくれない。多くの人達の感覚と自分とが「同じ」と思うのなら「口コミ」に従って良いが、自分は“みんな一緒”に同意できないなら、最終決断は“直感”で下した方が、後悔の無い人生を歩めるのだ。
2020-07-30
「都市伝説」では「信じるか信じないかは、あなたしだい…」というのが定番だが、まさしく、そういう感じの「予見」をひとつ掲げておこう。北朝鮮で秘かに進行しているシナリオについてである。つまり、現在の「金正恩政権」から「金与正政権」へと来年5月に移行していくというニュースだ。と言っても、誰かが言っているわけではない。私が感じているだけの話だ。けれども、私は何も根拠なく言っているわけではない。今年4月に金正恩氏の“健康危機説”が駆け巡った。しばらくの間、金正恩氏は“表舞台”に出てこなかった。その後、一応は何でもなかったかのような格好で時折は姿を見せるようになったが、明らかにこれまでの状態とは何かが異なる。何かの“重大決定”は、金正恩氏ではなくて、妹の金与正氏が取り仕切っている。これまで、比較的“陰に隠れた存在”で居た妹が何故か“矢面”に立つようになった。どうして変わったのだろう。最近の一部報道によると、北朝鮮国内では現在「万事与通」という言葉が囁かれるようになったらしい。これは「すべては金与正を通さなければ始まらない」という意味だ。奇妙ではないか。実際、最近、国政に関する“決裁文書”へのサインが滞っているらしい。なぜなのか。一説には、金正恩氏が「国政に対する自信を失ったからだ」とも言われる。確かに、これまで頻繁に見られた「視察映像」がほとんどなくなった。その代りのように、頻繁に登場するようになったのが金与正氏なのだ。しかも、なぜか彼女の言葉は海外に対して“威圧的”である。一時期、彼女は「平和の天使」として、特に韓国では熱狂的な支持があった。ところが、その韓国のマスコミが最近は「毒舌姫」と書く。確かに、口汚くののしる言動が多い。4月に金正恩氏の“健康危機説”が伝えられた時、私はホロスコープから、その可能性は低いと述べた。けれども、同時に、運勢的には才能と財産とが奪われやすい時だとも記した。そういう観点から、改めて妹の金与正氏の四柱命式を観ると一国のトップとして十分に力量を発揮しそうな干支配合なのだ。そして、この生年月日を信じるなら、来年5月こそ、彼女が正式に「北朝鮮」を背負うのにふさわしい時なのである。そうなれば良くも悪くも「新たなる北朝鮮」が誕生するかもしれない。
2020-07-29
現代人は短絡的な人が多く、すぐに“結果”を求めたがる。けれども、世の中には、すぐには結果の出ないこともある。数年たって、或いは数十年たって、答えの出ることもある。昔「イエスの方舟」と呼ばれる“宗教団体”があった。厳密には“宗教サークル”なのだが、わかりやすいよう“団体”と言っておく。「千石イエス」と呼ばれる人物が創始した“聖書研究サークル”で、なぜか家出した女性たちが多く加わっていった。問題は、彼の住宅で女性達が“共同生活”を始めてしまったことで、教祖である男性一人に、若い女性達が十数人という構成で“怪しまれる”のは当然とも言えた。のちの「オウム事件」でもそうであるが、宗教と家出とが絡むと、どうしても事件に発展しやすい。「イエスの方舟事件」も週刊誌で大々的に取り上げられ、千石イエスと呼ばれる男が若い女性達を引き連れ「逃避行を続けている」と週刊誌は報道した。実際、親御さんたちが「娘を返せ」という場面も映像化された。けれども、娘たちのほとんどは、千石イエスと共に逃避行を続けた。そして、落ち着いた先が九州の福岡だった。そこで女性達は生活を支えるために、夜の街に「シオンの娘」というバーを開いた。1981年のことである。昨年12月、ビルの老齢化で一時的に閉店し、今年の春にリニューアルオープンの予定であったが“コロナ”の影響で、7月7日まで伸ばしてのオープンとなった。千石イエスと呼ばれた人物は2001年に亡くなっているが、その後19年を経た今も、彼に従った女性達は結束を守り、悩みある人たちの“心の支え”になろうとし続けている。もちろん、40年近く経っているのだからホステスたちは齢を取っている。最高齢は87歳の千石まさ子氏で、それでも現役の看板ホステスであるらしい。彼女たちの人生を、どう捉えるかは難しい。ただ売り上げの一部を慈善団体に寄付するなど、千石イエスの“教え”を今も忠実に実践していることだけは間違いない。結局、宗教の正邪を決めるのは、文字通り「神」のみなのかもしれない。
2020-07-28
人はだれでも間違いを犯す。近年、日本ではその“間違い”を簡単には許してくれない風潮が強い。昔は「仏の顔も三度」という感じで、許すケースが多かったように思うが、最近は一度であっても“許されない”ケースが多い。もちろん、悪いことをして“罪”を犯したなら、それは償わなければならない。問題は、その後だ。たまたま男子柔道で2大会連続で金メダルを勝ち取り、指導者としても順調だった人生が「セクハラ発覚」で人生の“どん底”を見たのが内柴正人氏である。最近の彼を取材した記事を読んだ。現在は熊本県八代市の温泉銭湯「つる乃湯八代店」においてマネージャーとして“雑用全般”を取り仕切っているらしい。元金メダリストは柔道とは無縁の職場で頑張っていた。けれども、落ちぶれた印象はない。それは、彼が現在の仕事に、それなりの“生きがい”を見出しているからだ。ここが重要なのだ。実は、昨年の12月まで彼はキルギスに居た。しかも、キルギスの柔道連盟総監督という重責を担っていた。ところが最初2年間の契約は更新されず、帰国の形となった。この辺の事情については語られていないが、おそらく、何かがあったからだろう。同じような形で、華やかな世界から“消えた人物”がいる。押尾学氏だ。彼もまたMDMAという薬物の使用で、ホテル内で一緒に居たホステスが亡くなって、その責任を問われた。結果的に人を殺めたのだから、芸能界復帰は絶望的となった。彼の記事も出ていて、今は一般人として普通の仕事に就いているらしい。私はいつも思うのだが、芸能界とかスポーツ界とか“華やかな世界”だけが人生ではない。特に、何らかの形で「罪」を犯した人は、やはり“その十字架”は背負って生きていかなければならない。それから背を向けることは許されることではない。けれども、その一方、新たなる世界も無数に存在することは知っておいた方が良い。人はともすれば“その世界”以外には、自分が生きる世界は存在していないのではないか、と思いがちである。けれども、気持ちさえ切り替え、新たなる仕事に心血を注ぐなら、必ず“新たなる世界”で能力を発揮するようになる。出直しの時間は必要だ。“新たなる世界”に心血を注げない場合は、転落の一途をたどる。
2020-07-27
どうして“政治家さん”というのは、現状を視ずにモノを言うのだろう。いまの日本では「在宅7割」なんて、事実上ムリに決まっている。それが出来るのはIT系企業のごく一部だけだ。あらゆる業種で考えると、中小・零細の企業が多い今の日本ではムリなのだ。けれども、昨日、西村康稔経済再生相は、テレワーク率を70%まで引き上げるよう経済界の方に要請するとの方針を明らかにした。多分、各地で“感染者数”が増えて来ていて、これを減らすには「それ以外にない」という手段の方から“結論”を持って来てしまったのだろう。だが、各方面から反発を受けること必至である。各企業に「飲み会」なども自粛するよう要請するらしい。一方で、観光地や飲食店を応援しようとしたり、矛盾だらけである。まあ、それだけ「政界」の方も“焦り”を隠せない、ということだろう。日本の場合、テレワークが普及しにくい根本問題の一つに住宅事情がある。欧米の住宅というのは、職場の構造とあまり変わらない場合も多い。ところが、日本の場合は、住宅はプライベート空間、職場は社会的な館、という具合に心身とも使い分けているケースも多い。例えば女性の場合、自宅内の服装・髪型・化粧と職場内の服装・髪型・化粧とでは、大きく違っていたりする。或る意味で、日本人は「公・私」の別がハッキリしている国民なのだ。だから、その区切りを取っ払ってしまうと、外見的にも、内面的にも、実力を十二分に発揮できなくなってしまったりしやすい。さらに、幼い子供とか、介護する親とか、いうことを訊かないペットとかがいるような家庭の場合、これらが仕事の邪魔をしがちだ。パソコンが使いにくい住宅構造もある。さらに、全ての情報を社外に持ち出せるわけでもない。企業や職種にもよるが、同じ職場内なら聞き出しやすい情報も、テレワークで離れてしまうと、その都度、訊き出すのが煩わしいこともある。小企業や零細企業の場合、一人、二人だけがパソコンに精通していて、他の社員は、ITそのものに無知という場合だってある。日本の場合、どちらかというと近年は「接触型企業」の方が人気を得て来ていた。情緒性の強い日本人は、元々、欧米人のように“非接触での完結”が苦手なのだ。だから、そういう意味では「在宅3割」の中で、いかに“感染を防いでいくか”を提案する方が、今の政府に求められていることのような気がする。
2020-07-26
顔を横から見た時に、鼻嶺の上部に“骨”が目立つ人がいる。比較的“高い鼻”に多く、女性は“美人顔”に多い。鼻嶺を横から見て、直線的に高いのは「美しくいきたい」意識の強い相で、高すぎる場合には“プライドが高すぎる相”となるが、芸術・美容・ファッションなどの“美的世界”を仕事とするなら良相となる。ところが、単に高いのではなくて、鼻嶺上部に“骨が突き出す”ような印象を与えながら高い人がいる。そういう女性の1人に、そんなに極端な方ではないが、タレントの小倉優子氏がいる。歯科医の再婚夫が自宅を飛び出したまま戻らなくなって、離婚問題に発展している「ユウコリン」である。彼女の場合、元々が“可愛らしい顔立ち”なので、鼻嶺の上部の骨の突き出しはパッと見では気にならない。実際、日本女性の場合は極端に飛び出す人は稀で、多くの場合は彼女のように“やや飛び出す”程度の場合が多い。したがって、もちろん、その美貌にマイナスにはならない。むしろ、真正面からだと“しっかりとした鼻柱”に見えて、顔全体としても美形でバランスがとれている。日本女性の場合、この鼻嶺の部分は、むしろ“低すぎる”ケースも多いので、そういう女性達からすれば「立派で美しい鼻」ということになる。けれども、こういう鼻の女性は、俗にいう「鼻っ柱が強い」タイプで、自分の考えを“引く”ということがない。或る意味では「頑固」に自己主張を繰り返す“気の強い女性”ということになる。元々この人は「ゆうこりん星からやって来た」ということで売り出し、可愛らしくマイペースな雰囲気で人気を集めた。物言いも穏やかなので、そんなに「鼻っ柱が強い」感じに見えない。その点が、どうしても結婚してから後にネックとなる。こういう女性は、口論になると相手を罵倒したり、侮蔑したりしやすい。これは、元々「負けたくない」気持ちの表れからである。謂わば“自己防御”からの攻撃なのだ。けれども、プライドの高い男性は、それに我慢が出来ない。最初は我慢していても、やがて我慢できなくなる。だから逃げ出すのだ。「離婚問題」は暗礁に乗り上げているらしいが、一時的に謝っても、元々の性格の部分だけに“元のさやに戻る”のは奇跡に近い。今度は「鬼嫁」として再婚すればうまくいくかも…。
2020-07-25
大昔「知りすぎたのね」という歌があった。もちろん、男女間のことを歌った歌で、米・中のことを歌った歌ではない。この歌の出だしは《知りすぎたのね あまりに私を 知りすぎたのね 私のすべて 恋は終わりね 秘密がないから…》という具合に歌われる。男女間の間でも、知りすぎない方が良い、と教えているのだ。どうも、中国はこの本質的な部分を誤ってしまったようで、何から何まで“秘密”をかき集めようとした。それに腹を据えかねたのが、気の短いトランプ大統領だった。「そんなに秘密ばかり探り出すなら、もう付き合わない」と、そそくさに帰り支度を始めたのだ。「冗談でしょ」習近平氏はあっけにとられた。「オレを誰だと思っているんだ」ベルトを締めるのもそこそこに、トランプ氏は荒々しく部屋を出ていってしまった。こうしてテキサス州ヒューストンの中国総領事館は閉鎖されてしまった。最初こそ、あっけに取られていた習近平氏だが、やがてめらめらと怒りの炎が燃上がってきた。「お互い様だろ」吐き捨てるように言うと、すぐに電話した。こうして四川省成都の米国総領事館は閉鎖されてしまった。元々この二人は相性が悪い。トランプ氏からすると、習近平氏は何を考えているのか全く分からない。それでいて、秘密ばかりを持ち出そうとする。一方の習近平氏からすると、どうしてすぐ、あんなにかっかするのかがわからない。そんなに大切な情報なら、もっと厳重に保管すべきなのだ。中国のハッカーは優秀な証拠ではないか。何が悪いのか。この二人は「関税問題」でも「コロナ騒動」でも、ぶつかり合ってきた。もはや限界に達したと言ってよいだろう。問題は、この二人の相性の悪さで、とばっちりを受ける国々だ。せっかく持ち直しつつあった世界の株価が暴落し、円高が進む。それでなくても、今年は「自然災害の年」であちこちに災害が発生し、経済が落ち込んでいる。中国など大雨による洪水被災者の数は4550万人とも言われている。倒壊した家屋も35000棟に及んでいる。喧嘩をしている場合ではないのだ。「喧嘩」ならまだ良いが「本格戦争」にまで進みそうな妖しい雰囲気。喧嘩両成敗する「正義のマスクマン」は登場しないのか。
2020-07-24
私は基本的に人に対してはあまり干渉する方ではない。けれども、こういうのは“占術界”にとってちょっと困るのだ。だから、あえて書くことにした。手相芸人・島田秀平氏が今年の「M-1グランプリ」に元コンビの赤岡典明氏と「号泣」を再結成して出場するというニュースだ。実は、私は島田秀平氏が“漫才コンビ”であるとは知らなかった。元々“ピン芸人”だと思っていたのだ。ところが実際には1996年から2008年までは「号泣」という漫才コンビで活動していたらしい。しかし、漫才コンビとしては売れなかった。だから辞めてしまおうとしていた時、和田アキ子氏の一言で、破れかぶれのように始めたのが「手相芸人」だった。いまでこそ“芸人”は何かしらの趣味を武器に“売り込み”を掛けることが当たり前になったが、当時としては珍しかった。だから島田氏が趣味としてかじっていた手相を前面に押し出し「手相芸人」の看板を掲げた時、それはTVに新鮮に映った。だから、あっという間に「手相家・島田秀平」が誕生したのだ。それまでとは違った線の名称。ユニークな線の解説。オーバーなリアクション。芸能人たちを題材としての手相講義。それらが、若い視聴者に受けた。彼が相次いで出した手相の本はベストセラーとなった。こうして「手相家・島田秀平」は時代の寵児となった。さまざまなTVに引っ張りだことなった。ところが“にわか仕込み”の手相術は意外に早く衰退が始まった。以前にも一度書いたが、島田氏の売り込みを担当していた女性が、私に対して「波木先生の占星術のアスペクト理論を島田のものとして売り出したい」という話が来た。私は驚いた。彼は「手相芸人」ではなかったのか。それに「島田のものとして売り出したい」とはどういうことか。私は「島田秀平氏が波木星龍の弟子」という形でなら、そうしても良い、という条件を付けた。結局、この話は流れた。確かに、知名度から言えば「島田秀平」は全国区であり、彼の発見などとして売り出せばあっという間に、私の“アスペクト判断法”は認知されるかもしれない。けれども、そこまでして私は自分の占星術を安売りしたくない。彼が、本業ともいうべき「漫才」で復活しようとするのは良い。けれども、もし「手相芸人」として人気復活のために「M-1」を目指すのだとしたら間違っている。「占いの世界」は“覗き見”で力を発揮できるほど、甘くはないのだ。
2020-07-23
俳優・三浦春馬氏の“自殺”から数日たったが、いまだその波紋は消えていかない。私は翌日にブログの中で、彼の生年月日からの分析を投稿した。その観覧数は、通常の観覧数の十倍くらいあって、一般の方々の関心度の高さが窺われる。おそらく、多くの方々は“死に繋がった直接原因”を知りたいのだと思うが、私には“運命学的な推理”があるが、それは証拠の無いことで、公表するわけにはいかない。おそらく、同じような勘の良い週刊誌記者がいるかもしれないが、確証は取れないはずで闇に包まれ終るだろう。彼は、一つの“重要な教訓”を「人気稼業」を志す人たちに与えた。それは「人気」を得たからといって、芸能界において「才能」を発揮したからといって、それによって“心が安らぐ”ことはないし、“孤独が埋まる”ものでもない。心の安定とか寂しさとかは、世間が与えてくれるものではない。実は、三浦春馬氏とは違った形で「人気稼業」の幕を閉じた人物がいる。元AKB48の渡辺麻友氏である。少し前に、彼女もまた、自ら「芸能界」を引退した。本来なら“休業”という形でも良いはずなのに、そういう形はとらずに「引退」をした。彼女もまた、誰もが認める“一流芸能人”であり“完璧主義者”であった。おそらく彼女の場合には、やがて「人気」とは関係のない“新たな世界”へと向かって歩みを初め、そこで“生きがい”を見出していくことであろう。「芸能界」のような一見“華やかに見える世界”には、当然のことながら「光」もあれば「影」の部分もある。人気稼業としての自覚が強いと、その「影」の部分を“視られる”ことを極端に嫌う人達が出てくる。虚像としての「芸能人」を自ら演じ続けようと、無意識に努力してしまうのだ。どこかで「裸になる部分」がないと、そうし続ける自分自身にも嫌悪感が強まっていく。これは必ずしも芸能界だけの話ではない。どのような世界においても、多少はそういう面がある。ただ「人気稼業」は嫌でも“多くの眼”にさらされているだけに、内面的葛藤が激しくなりやすい。自分を“曝け出せる人”は葛藤を持たなくて済むのだが、どうしても「虚像」を大切にしたい人には、それが出来ない。だから三浦氏や渡辺氏を教訓にした方が良いのだ。自分を“曝け出す”のが苦手な人は、決して「人気稼業」を選択してはならない。
2020-07-22
1973年11月、その後、日本中で論議を巻き起こした一冊の本を上梓する。五島勉氏による『ノストラダムスの大予言』の発売である。丁度、その頃、日本はなぜか“超能力ブーム”・“オカルトブーム”・“精神世界ブーム”の始まりに差し掛かっていた。高度成長期で、新しいものがどんどん生まれ、庶民の暮らしが豊かに変わり、繁栄を謳歌していたが、その一方で将来に対して“漠然たる不安”が頭をもたげて来ていた時期でもあった。そういう絶妙なタイミングの中で『ノストラダムスの大予言』は発売された。元々、女性週刊誌のライターであった五島勉氏は「1999年7の月…」で始まるノストラダムスの“予言詩”を女性達にも理解できるように、当時の世相とも絡めて、かみ砕いて解説した。その結果、この本の“人類滅亡説”は女性たちだけでなく、十代の若者の間であっという間に広まった。これに、飛びついたのがマスコミだった。まことしやかに、20数年後にやって来る“人類滅亡説”説が空前のブームを呼んだのだ。そして250万部ものベストセラーとなった。確かに「1999年7の月…」という“終わりそうな年号”も、妖しさを演出した。多くの人は知らないが、五島勉氏は“ロシア正教”の家庭で育った。そのことが後に「ノストラダムスの世界」を語る上で重要な役割を果たした。なぜなら、ノストラダムス自身も、キリスト教の信仰を背景として持っていて、どこか“信仰者の予言書”になっている部分が、彼の四行詩にはあるからだ。占星家として有名だったノストラダムスの“抽象的な難しい予言詩”は、16世紀にヨーロッパ各国で発売されたが、実際にはそれほど売れた書籍ではない。大体が、わざと抽象的に難しく書いてあって、或いは比喩的に書いてあって、文学や語学の素養の無い人が読んでも、よく解からない内容になっている。そういうものなのに、数百年にわたって、さまざまな研究者が解釈を試みている。日本では「1999年7の月…」で始まる四行詩だけが取り上げられがちだが、それ以外にも多数の“予言”が述べられている。ただ、わざと“順不同”にしてあって、そういうところも彼らしい。彼は自らの「死」についても予言してあり、実際、その通りの死に方で発見された。今年、90歳を迎えた五島勉氏は「防ぎようのない自然災害の年」の訪れを待っていたかのよう、ひっそりと6月に亡くなった。
2020-07-21
最近のTVは状況的に“昔のドラマ・映画”の再放送を行うケースが多くなっている。それ自体は良いことだと思うが、同じ作品が何度も取り上げられるケースが多い。確かに“誰もが知っている作品”ほど視聴率を取りやすいからだろう。だが、同じものを何度も流されると、さすがに「もう良いよ」という気持ちになる。例えば「松本清張作品」というのがある。確かに、彼の作品には見ごたえのあるものが多い。但し、これまでにも何度か既にリメイクされていて、さらに再放送もされていて、私のように記憶力が悪いものでも“何となく内容は解っている”作品が多い。ところが、TVや映画には、松本清張氏ほど有名でも人気でもなかったが、内容的には極めて面白く興味深い作品というのが多数存在している。例えば私は「黒岩重吾作品」が好きだった。松本清張氏とは違った角度から“歪んだ社会悪”に切り込んでいくタイプの作家だった。彼の作品を基にしたTVドラマや映画もいくつかあって、それはそれで好評だったと記憶する。ただ、その当時、私は忙しくて小説の方は読んでいても、TVドラマとか映画とかは見ていないのだ。当時はまだビデオ録画という方法もなかった。一度だけNHKでドラマ化された作品を偶然に観たが、大変に面白かった。ところが彼の死後、彼に関しては小説にしてもそうなのだが、TVドラマや映画などは特に観る機会を持たない。最近のTVドラマは“個々の人間の違い”を明確に描き切れていない。誰もが“同じ環境”で育ったかのような反応、或いは誰もが“同じ時代”を歩んだかのような反応をしすぎるのだ。それぞれの人生には、それぞれの反応がある。その違いを描き切れていない。だから、どうしても“薄っぺらい感動作”にしかなり得ない。その点、松本清張の作品や黒岩重吾の作品には、個々の人生が詰まっていて、それが言葉のリアリティ、反応の違いとなって現れる。もちろん、松本清張氏の作品は優れているが、黒岩重吾氏の作品はより“底辺の人達”のうごめきがあって素晴らしいのだ。何んとか、TVに再現できないものだろうか。
2020-07-20
ときどき私の“観察眼”に引っ掛かる「額」というものがある。もちろん“普通の額”は引っ掛からない。特別に“眼を引く額”というのがニュース報道などで出て来るのだ。特に最近は、誰もかれもがマスクをしているので、嫌でも「額」に眼が行く。そこで私の眼に引っ掛かったのが国土交通大臣の赤羽一嘉氏の「額」だ。この人、経済再生大臣の西村康稔氏と共に「GoToキャンペーン」を受け持っているようで、最近、よくTV等で見掛けるようになった。もちろん、このキャンペーン自体が種々な問題を含んでいるので、文字通り額に汗をかきながら“苦渋の答弁”をしている姿が多い。そのせいなのかどうかは知らないが、この赤羽国土交通大臣の「額」は爽やかではない。まず、額の形そのものが中々珍しい形なのだ。通常、額が禿げ上がっていく場合には、額の隅から抜けていくか、又は額の中心部から抜け上がっていくか、大体どちらかなのだ。この人の場合には、そのどちらからでもない。丁度、眼球のある位置をそのまま縦に髪際まで伸ばした部分、そこが抜け上がっている。したがって額の形状が特殊な形となっている。さらに、もっとも目立つのは額の凹凸である。元々額の肉付きが普通の人より厚いせいもあるが、相当な凸凹な額で、しかも、その凸凹なところに“波打つような横ジワ”が刻まれている。これも中々珍しい形状で、特に額中央部のシワが深く凹んでいる。観相学的な立場から言うと、安倍総理のような“単純な三本線”も味気ないが、この人のような“波打つ線”も不安定で、日本の国土を走る主要道や鉄道のような安心感は乏しい。この人の「額」だけ見ていると、すんなりと目的地にまで辿り着けないような不安を覚えるのだ。もっとも観相学的には、このような額は「苦労人」を意味するもので、窮地に強い相と観ることも出来る。また肉付きが凸凹なのも「波乱の人生」を表しているが、総じて財運は強いものである。そういえば昔、ブッチャーというプロレスラーがいた。額が常に傷つけられてガタガタになっていた。極悪非道のレスラーだったのに、いつの間にか日本では“キャラクターのような人気者”になり、子供達から声援されるようになっていった。そういう意味では、世間から殴られても、蹴られても、決してひるむことなく、しくしくと大臣を続けていくことだ。
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