8月, 2021年

遂に誕生『全身観相術の神秘』の妖しい中身⁉

2021-08-08

久しぶりで私の“新しい本”が誕生した。『全身観相術の神秘』(波木星龍著・八幡書店刊・B5判・458ページ・8800円)という大判で分厚く高額な本だ。実質的には今月後半に各書店に並ぶ予定の新刊だ。私がこれまで出した本の中で、いちばん価格が高い。それに、いちばん大きく分厚い。いちばん年数もかかっていて、いちばん写真や図解も多く、いちばん各種の占いを詰め込んだ本だ。私は貧しい家庭で育ったせいか、本には多数“詰め込まないと”気が済まないところを持っている。よく有名人などが“ユルユルの本”を出版しているが、“貧乏性”なのかそれが出来ない。本の中に、余白を作ることが根本的に“嫌い”なのだ。“活字のみ”で構成されている本も嫌いで、必ず、図解とか、写真とか、イラストとかを多数組み込む。そして雑誌的な構成にする。だいたいが“分厚い本”というのは活字の比重が多くなりがちである。占いの本で“分厚い本”のほとんどはそういうタイプの本だ。小説と違って、占いの本は夢中になって読めるような本ではない。そういう本なのに、文字ばかりで構成されていると、最初の段階で“読む気を無くす”ケースが多い。プロ占い師の方であったとしても、活字のみの本を何百ページも読むのは容易ではない。だから私は専門書として書く場合であっても、極力、図解や写真を多く使用するし、読んでいる人たちが理解しやすいよう心掛ける。占いの本の中には、特に古典の現代訳的な本はそうなのだが、難しい本を難しいまま“復刻”させようとする人たちが居る。さまざまな分野で“日進月歩”の時代に、古典を古典のまま“生で出す”ことが偉大なことであるかのよう勘違いをしている。現代に通用しないものを“生のまま”持ち込まれても活用できない。そうかと思うと、中学生から一歩も進歩していないような“50年前”の初歩的星座占いを、未だ喧伝して平気でいられる人たちが居る。こういう人たちは、自分たちが「中学生レベルの域」に留まって、読者が何も言わないから「それで良いんだ」とでも思っているのだろうか。そんなに一般の“占い好きな大衆”を教養のない人たちだとでも思っているのだろうか。私は、自分が“占い好きな読者”だったころ、自分がもし“本を書く立場”だったなら、こういう本は書かないな、という本を山ほど読んだ。だから、実際に自分が書く立場になった今、その点は常に意識している。必ず、新刊には、これまでどこにも発表していない知識や技法を盛り込む。どうせ、そのうち、死ぬのである。秘伝などともったいぶってもしょうがないではないか。

「腕相撲」「綱引き」「大喰い」も加えては⁉

2021-08-07

地元の札幌市内で行われているせいもあって「競歩」という競技を、TV中継で初めて視た。正直、これまでは“興味のない”競技だった。それでも、実際にTV中継でまともに見てみると、案外「面白い競技」なのだと気付く。今回の五輪は、似たような意味で“初めて視た競技”がいくつかあり、そのどれもが、それなりに面白かった。普段TV中継されない競技は、どうしても一般的な人気を集めにくい。そういう点、戸外が暑くて「外出自粛」を求められているせいもあり、何気なく五輪観戦をする機会が多い。そういう中で“未知のスポーツ”が広く知られることになるのは良いことかもしれない。というような感じで見ていたら、ふと、未知ではないが「五輪競技」に加わっていないスポーツがいくつも存在していることに気付いた。例えば「腕相撲」とか「綱引き」とか「騎馬戦」とか「大喰い」とか「玉入れ」とか……子供の運動会などで、主に出て来るような競技だ。これらはスポーツとは言えないのだろうか。TV番組でやっている「サスケ」的な競技もあるではないか。私は、各種競技の“階級別”というのは、もう少し“大まか”で良いと思うのだ。例えば“53㌔級”“57㌔級”“62㌔級”などという風に分かれているが、本来、一つの競技でそんなにたくさん“区分け”しなければならないものなのだろうか。もっと単純に“軽量級”“中量級”“重量級”の三階級くらいで良いと思うのだ。陸上にしても“短距離100m走”“中距離1000m走”“長距離10000m走”など単純化して走らせれば、ひとりの選手だけが5個も6個もメダルを独占することもなくなる。「腕相撲」とか「綱引き」とか「騎馬戦」のような単純な競技を加えれば、小国や、貧しい国でも、金メダルのチャンスが出て来る。それに、応援が盛り上がること間違いがない。最近のレスリングや柔道は、力が接近しているせいもあるかもしれないが、正直、視ていて大技が決まる“派手さ”や“華やかさ”に乏しい。せっかくTV中継して世界に放映するのであれば、もう少し“華やかに技が決まる”仕組みを導入しても良いのではないだろうか。そういう意味では、もっとも単純で、古くからある「マラソン競技」がスタートする。誰が見ても、解かりやすく、単純で“五輪競技”にふさわしい。これこそ“青年クラス20歳以下”と“壮年クラス20歳~50歳”と“老年クラス50歳以上”の三クラス別にしても面白いような気がするのだが…。

不倫も借金も病気も「俳優演技」活かされる⁉

2021-08-06

7月に離婚したばかりの篠原涼子氏に“韓流アイドル”や“飲食店経営者”や“年上俳優”との恋愛報道が出てきた。もっとも、現在は「独身」に戻ったのだから、そんなにすぐ“追いかけ報道”をしなくても良いと思うのだが、結果的に「円満離婚」を強調しすぎたために“追われる身”となってしまった。70過ぎの夫側に“子育て”を任せた形の「離婚」はどう見ても不自然で「互いに納得した上での離婚」を強調しすぎたことで、かえって違和感を増し、私生活が“裸にされる”結果となった。ただ、それら一連の報道の中で、私が疑問に思ったのは、浮気三昧だった篠原氏に対しては「制裁としての意味も含め、もう女優としての需要はない」という意見が記されていたことだ。それは、おかしい。私は前から思っているのだが、こと「役者」に関しては、どのような体験であっても、それは“演技の幅を広げる”ことに役立ち、プラスに作用するだろうと思っている。浮気をしたから、不倫をしたから、もう「その俳優は終わっている」という捉え方は根本的におかしい。もちろん、私生活においての“過ち”は、償わなければならない。世間的なバッシングも仕方がない。けれども、役者という職業は「役柄の人物になりきること」で、それは想像力だけの演技より、体験に基づく演技が勝っていることは言うまでもない。したがって、浮気や不倫をしていたから「役者」として需要がないというのは、明らかにおかしい。借金や、病気や、喧嘩や、離別も……すべては体験していた方が、役柄になりきって演ずることが出来る。実体験と言うものに勝る“演技”はないのだ。その点、最近の役者には、実体験を知らず“想像力”だけで演技をしている人物も多い。だから、視る者を惹きつけられない。そういう意味では「バッシング」も「浮気」も「本気」も「円満じゃない離婚」も、女優・篠原涼子にはプラスに働くはずだ。最近の日本には「背中で演じられる俳優」や「横顔で演じられる俳優」が、あまりにも少ない。多くの体験は、そういう“奥行きのある演技”を与える。ただ単に、涙を機械的に流せるのが名優なのではない。

 

真面目な男性ほど騙される「架空請求」被害

2021-08-05

滋賀県大津市で78歳の男性が「アダルトサイト」による「架空請求」詐欺被害に遭い、7月だけの一か月間で計6回、合計435万円を振り込んでしまった。あまりにも請求が続くので、男性はようやく「もしかして…」と気付き警察に被害を届け出たようだ。おそらく、そんなに何回も振り込んだのは、この男性が真面目で「自分の方に落ち度があったのだ」と考えていたからに違いない。一般的に考えれば、仮にどんなにアダルトサイトを見ていたとしても、一か月に何百万円もになるはずがない。常識的におかしいのだが、それに気付かなかったのは「見てはならないものを視てしまった」という“うしろめたさ”があるからである。逆な言い方をすれば、そういうことに対する“免疫性”が乏しかったからだ。もう一つは、身近に“相談する相手”が居なかったことである。日頃から真面目な男性は“その種のこと”に対して極端に「罪悪感」を持ちやすい。その結果として、そういうことは“自分の過ち”と考えるので、誰にも相談が出来ない、と言うことになる。もしも、ほとんどの人が一度はそういう「変なサイト」に誘導され、慌てふためいた過去がある…ということを知れば、もっと冷静に対処できたはずなのだが…。何でもそうだが「危ないモノ」と言うのは、本能的に感じ取るもので、普段はそういうものに近寄らないような人でも、ふとしたはずみで“引寄せられる”ことがある。俗にいう「魔が差した」と呼ばれるような状態で、何となく好奇心につられて覗いてしまうことがある。ところが、こういう「たまたま」の状態の時に「運の悪い人」というのは“詐欺サイト”に誘導されていってしまったりする。悪質な「架空請求」では“問い合わせ用”の電話番号が記されていたりする。ここに電話してはいけないのだ。ところが、真面目な男性は電話してしまいやすい。仮に自分自身が「変なサイト」を視てしまったとしても、きちんと自分から「登録」でもしない限り、勝手に“登録料”を請求されるようなことはない。ところが「架空請求」では、自分が登録したことになって居て、その“登録料”であったり、“利用料”であったりの請求が来る。それで味を占めると“未払い料”や“延滞料”など続いて来るのだ。つまり、ほんとうは何も視ていないのに、要求すれば出してくれる相手には、徹底的に食らいつく。請求された方は、早い段階で「おかしい」と思っても、つい「金で解決するなら…」と思ってしまう。高齢で真面目な男性は「無視する」と言うことが性格的に出来ないことが多いのだが、時には「無視」も必要なのだ。

豪サッカー・ラグビー選手達の「蛮行」許すな

2021-08-04

確かに気持ちとして、自分たちの試合が終わり「帰国便」に乗って「一杯やりたい」気分になるのが解からないではない。けれども、五輪競技と言うのは特殊で各選手が“国を代表し”やって来ている。自費で参加した競技大会ではない。帰国するまでは、各国の五輪委員会の管轄下にある。ところが今回、オーストラリアの男子サッカーとラグビー選手団が乗った日航機の機内では、信じられないような蛮行がまかり通っていた。しかも、それを伝えたのは自国の「ヘラルド」や「オーストラリアン」という代表的メディア記者たちだ。つまり、自国選手団の“眼に余る酒盛り騒ぎ”を告発した形での報道なのだ。実はこの選手たちは、選手村でも建物の壁を壊すなど問題を起こしていて、もしかすると選手村の中でも「酒盛り」を日常的にやっていた可能性がある。日航機内で乗務員たちがマスク着用と言ってもまったく聞く耳を持たず、大声で宴会状態をつづけ、機内に保管してあった酒類まで勝手に持ち出したという。さらには複数の選手たちが嘔吐物を撒き散らしたためにトイレが使用できない状態となってしまったらしい。日航ではこれをオーストラリアの五輪委員会の方に「抗議文」を送ったというが、強制着陸とか、途中から日本に引き返して、自国機によって帰国させるべきだったのだ。おそらくサッカー選手やラグビー選手は、日本での「夜遊び」が出来なかったことで、体力を持て余し、酒にはけ口を求めたのだろう。確かにアスリートたちにとって、観光も出来ずに、そのまま帰国しなければならないことは残念なのに違いない。けれども、土台が“遊びに来ている”わけではない。このような現象を聴くと、やはり「無観客で良かった」ということになる。海外から大勢のサッカーファンやラグビーファンがやって来たなら、とても日本国内のルールなど守ってくれそうにない。それにしても、選手たちはともかく、同乗していたはずの監督とかコーチとかの指導者たちはどうしていたのか。試合会場を一歩後にすれば「もう指導しません」ということだったのか。結局、自分たちの責任が問われることを感じてはいなかったのか。今後、他の国のケースも考え、日航機はもちろん、日本のJOCが十分に対策を練っておくべきだろう。

「タロット」もう一つの「秘密」の愉しみ方

2021-08-03

最近、私は「ひとり占い」にハマっている。プロ占い師である私が「いまさら何を言い出すのか」と思う人が居るに違いない。けれども、違うのだ。多くの人が“考える”ような「ひとり占い」ではない。要するに“遊び”としての「ひとり占い」なのだ。それも、占う対象は“私自身”である。しかも、占い方はと言うと、きわめて“素人っぽい方法”なのだ。つまり、カードを一枚だけ開いて、そのカードの図柄によって“占う”と言うまことに単純明快で素人っぽい方法だ。“遊び”なのだから難しい方法を使う必要はない。占う内容は、ちょっと怪しい。例えばカードに「わたしは何歳まで生きられるか」と、いうふうな感じのことを問う。通常、占い師が自分の“寿命”を「占ってみる」という話はあまり聞かない。まあ、占う人もいるかもしれないのだが、正直、私はあまり人のことに関心がないので、他の人たちのことは、よく解からない。さて、そこまでは一応ご理解いただいたとして、果たして寿命など、一枚のカードで「何歳まで生きられるか」など解かるものだろうか。これが、解かるのだ。もっとも、あくまでも“遊び”であるから、本当にそうなっていくのかなんて保証の限りではない。では、どうやって一枚の図解から読み取るのか、単純に“佳い図柄”か、“悪い図柄”か、だけの話である。これを繰り返すのだ。例えば「70歳まで生きていますか?」とカードを開く。そうすると何となく“良い感じの図柄”が描かれている。そうであれば少なくとも「70歳」までは大丈夫だ、ということになる。次に「75歳までは生きられますか?」と問いかけて開く。そうすると、またまた“良い感じの図柄”が描かれている。ここまでも大丈夫だ。次「80歳までは生きられますか?」と問う。これもクリアできた。次「85歳までは生きられますか?」とやってみる。こういう時、遊びなのに妙にドキドキする。これこそ「ドキドキ占い」ではないか。この図柄もまあまあ大丈夫だ。次「90歳まで生きられますか?」ここでカードは“完全アウトの図柄”に変わる。一瞬、“遊び”なのか“本気”なのか、よく解からなくなる。そうして、なぜか、もう一度「90歳まで生きられますか」と、やってしまうのだ。そして無残にも、もっと“アウトな図柄”が登場する。そこで、私は、もっと細かく「85歳はどうか」「86歳はどうか」「87歳はどうか」と狂ったように開き始める。あなたには、この“遊び”のスリル、味わう勇気があるだろうか⁉

 

「さんま・有吉・マツコ」に吹き始めた“秋風”

2021-08-02

「さんま」「有吉」「マツコ」と言えば、近年のTV界を牽引してきたタレントたちだ。その三人に、何となく“人気の陰り”が出始めている。この三人の中で唯一「東京五輪」のキャスターとしても顔を出しているのは明石家さんま氏である。そのさんま氏の評判がどうも、よろしくない。女性雑誌が行った東京五輪の“キャスター評価”では、上手なキャスターとしては安住紳一郎氏が第一位だったのだが、下手なキャスターとしては明石家さんま氏が第一位だったからだ。両者とも、他を引き離しての“第一位”で、上手な方の安住氏はTBSが誇る看板アナウンサーであるから当然としても、第二位にはタレント・歌手でもある櫻井翔氏が入っているので、必ずしも「タレントだから…」ということでもない。もちろん、五輪競技のキャスターということで、バラエティー番組とは視聴者層が若干異なるせいもあるかもしれない。ただ、その理由として掲げられているのは「なんでも“笑い”に持っていこうとする」「自分が“主役”でありすぎる」というもので、確かにスポーツ番組の主役はアスリートの方でなければならない。明石家さんま氏とマツコ・デラックス氏とは共演して“新たな番組”をスタートさせたが、この番組の方も低視聴率で評判は芳しくない。だいたいが二人とも「主役型」タイプで個性が強く、相手に同調していくタイプではない。この番組ではマツコ氏がさんま氏を“持ち上げよう”と必死なのだが、それがあまりにも見苦しく“楽しめない番組”となって居る。マツコ氏は有吉弘行氏ともコンビを組んで別番組を持っているが、こちらの方も最近は“昔の勢い”が失われている。両者ともに“保身”が進み「無難なコメント」に終始するようになっているからだ。有吉氏は長らく低迷していて、その憂さを晴らすように「毒舌キャラ」としてブレイクした。その後も“気の利いたセリフ”と“庶民派の暮らしぶり”が多くの人たちから支持された。けれどもタレントの夏目三久氏と結婚し、微妙に生活スタイルを変えてきている。“庶民派”だった彼は、ブランドショップに行って買い物をする姿がニュースになった。つまり、もう「庶民派の代弁者」とは言えなくなったのだ。実際にはかなり前からそうだったのだが、独身でいる間は“そういう形”で通すことが出来た。けれども、数年間もの間、視聴者たちに「夏目三久氏とは付き合っていない」と見せかけて、いきなり結婚を決行したのだから、もはや“庶民派の味方”は通用しにくい。マツコ氏はこれまで“女装者”として、多くの“パワハラ発言”が容認されてきたところがある。相手によって、態度を大きく変える欠点も見逃されてきた。それらが最近の「コンプライアンス重視」の番組制作で、自由にものを“言いにくい状況”が出てきた。要するに三人とも「平成」の時代は良かったが「令和」の時代は“排除されやすい”要素を持っている。“おもしろさ”を棄ててでも“コンプライアンス”に従うか、それとも時代に逆らってでも“個性”で勝負していくか、秋風の中で“曲がり角”に来ている。

 

 

2021年8月の運勢

2021-08-01

日本の「温泉ホテル」が“絶滅”しないうちに…

2021-08-01

日本の毎日の「コロナ感染者数」が“一万人”を超えるようになってきた。しかも、それをストップさせる手立てが、見当たらないままだ。数年前まで、ITやAIの進化で「未来は変わる」ということが盛んに言われていた。ところが“コロナ”がやって来て、改めて人類の“脆さ”“弱さ”に気付かされたかのように「夢のような未来」は語られなくなった。人類は何千年もの間「感染症」の前に、手も足も出ないままの状態であったことを気付かされたからだ。科学者たちは、やっとのことで「ワクチン」を開発したが、それは“予防薬”であって“治療薬”ではない。治療薬については、いまひとつ、決定的なものを開発出来ないでいる。「マスク」は大昔からある。それが唯一の接触手段だなんて、人類は何千年もの間、何をやって来たのか。便利な世の中には確かになったが、今やSNSはその“弊害”の方が大きくなりつつある。日本では「温泉文化」というものが早くから進化した。台湾とか、一部の欧州とか、温泉文化は存在しているが、日本のようにホテルと“完全に一体化”させているところはほとんどない。日本の温泉地には多くの人たちが同時に入る「大浴場」が備わっている。ところが、この「温泉文化」が“感染症”にとってはクラスターが発生しやすい“危険な場所”となりやすい。そういうことが世間に知れ渡って、一気に「人気の温泉宿」から客足が途絶えた。栃木・群馬・静岡の三県で12館の“温泉ホテル”を展開していた「おおるりグループ」が、12館のうちの10館を「閉館・売却する」と公表した。コロナの終息が見通せないからである。何とか維持可能な2館を残して、あとはすべて売却という“思い切った決断”を下したのだ。今後、このような“温泉ホテル企業”が続々と出てきそうで、怖い。外資に“買い占められる”ホテル街となってはならない。日本の「温泉文化」が一気に崩れ去る前兆とさせてはならない。近隣の“土産店”なども含めて、何らかの救済措置を施さないと、日本各地から「温泉ホテル」が消えて行ってしまう。団体客や訪日観光客で持っていたようなところが特に危ない。高級ホテルの場合には、家族風呂とか、個室風呂とかが付いていて、そういう点では「大浴場」に入れなくても、十分に家族単位で温泉を味わうことは可能だ。だから、高級なホテルはそれほどの打撃ではないかもしれないが、人数収容の大きなホテルは「大浴場」がメインだ。これがなくなると、温泉ホテルとして機能しなくなってしまうところが多いのだ。もう一つ、温泉街と言うのは、ひっそりとしすぎていると、妙に“寂れてしまった”印象を受ける。多数の温泉客でにぎわっていないと、街全体が“寂寞化”してしまいやすい。そういう“温泉街”を支えていく対策が早急に求められる。

Newer Entries »