7月, 2023年

辻仁成&渡辺謙「白馬にのった王子様」は幻⁉

2023-07-07
女優・南果歩氏のインタビュー記事を読んだ。その中で一番印象に残ったのは、彼女が「白馬にのった王子様なんて幻です」と言い切っていたことだ。この言葉は「南果歩」が言えば“重みをもつ言葉”となる。なぜなら、彼女はミュージシャンで芥川賞作家でもあった辻仁成氏を最初の夫とし、ハリウッドで活躍した世界的俳優である渡辺謙氏を二番目の夫としているからである。一般的に言えば、そのどちらもが“白馬にのった王子様”のような印象を受ける方達だからである。けれども、彼らの“妻”であった彼女は「王子様なんて幻」と言い切っている。辻氏との結婚生活は約5年間、渡辺氏との結婚生活は約13年間にも及ぶ。つまり、すぐに別れたわけではなく、十分に“二人だけの長い時間”を過ごして後、離婚しているのだ。だからこそ、彼女の言葉は重いのだ。しかも、初婚の夫も、再婚した夫も、共に才能ある外貌的にも恵まれた有名人ではあるが、タイプ的にはまったく違う。そのことも、彼女の言葉に真実味を持たせている。王子様は幻なのだ。しかも、彼女はただ単に“お姫様”に憧れていたわけではない。自分自身も映画の“ヒロイン募集”に応募して2200名の中から択ばれて“主役デビュー”を大学生の時に勝ち取ったシンデレラストーリーの持ち主なのだ。ただ人生とはよくしたもので、良いことばかりが続くわけではない。二度の離婚という“苦い経験”だけでなく、乳がんとの闘い、重度うつ病の克服、そして“在日コリアン三世”という負担と十字架を抱えながら生きてきた。そういうさまざまな体験の中で「幸せはみずから掴み取るもの」という考えに変っていったという。だから見染められ“与えられる”だけの形になってしまう「白馬にのった王子様は幻」なのだ。自らが掴み取りに行った“王子様”でなければ、どんなに世界的な活躍をする男性であっても、自分にとって王子様とはならない。もしも彼女が“三度目の結婚”をすることがあれば、それは誰もが驚くような“どこにでもいる男性”となるに違いない。

近日中に逮捕⁉「頭部なき」ススキノ殺人犯

2023-07-06
札幌ススキノのホテル浴室内で“頭部のない全裸遺体”が発見されて数日たった。その後の捜査で男性遺体の人物が特定され恵庭市に暮らす60代の会社員男性であることが判明した。どうして判明したのかというと、その家族から「行方不明届け」が提出されたからである。指紋などの照合結果により、その不明男性であったことが確認された。ただ、その男性を殺害し首から切断“頭部”を持ち去ったとみられる人物は未だ不明である。ホテルには“二人で入った”とみられている。その時、連れの人物は小柄でつばの広い帽子を被り、大きなスーツケースを引いていたという。ところが一人だけ先に「部屋を出る」ことをフロントに告げた声は女性のようだったと従業員が語っている。そして防犯カメラによれば、その人物はリックを背負って“来た時とは別な洋服姿”で一人出て行ったようだ。このような一連の行動は、その人物を特定するのに役立ちそうだ。一般的な推理として、ホテルに到着した時点で大きなスーツケースを引いていたことと、殺害後に“頭部”だけ持ち去っていて、それ以外にも被害者の身元につながるものはすべて持ち去っていることから考え、計画的な殺人、それも来る前から殺害道具などをスーツケースに入れていた可能性が強い。もし、家族が翌日に「行方不明届」を出していなかったら、被害者の身元はなかなか判別しないままであったことだろう。もしかすると、家族(妻)側にも何らかの直感が働いたのかもしれない。容疑者は多分、来る前から“殺意”を持っていたので、頭部から切り離して持ち運ぶことを意図してスーツケースにリュックサックや特別な刃物や“自分用の着替え”などを入れておいたに違いない。前もって、それらを用意して置き、待ち合わせてホテルに入ったというのは“双方の合意”があってのことだろう。被害者が抵抗したあとがないのは、睡眠中だったからか、自ら“死を求めた”からか、或いは“男女間の切羽詰まった事情”か、いずれにしても“そう遠くない日”に容疑者は捕まりそうな気が私にはする。もしも、あと一週間以上経っても逮捕されなければ、逆に迷宮入りとなるかもしれないが……。

「ホラー特番」なのに「霊映像」放映しない⁉

2023-07-05
放送関係者というのは、時に理解に苦しむような行動をとる。TBS系で6月30日に放映された番組内で、本来は放映するはずだった“ロケシーン”がカットされたという。その理由が「あまりにも幽霊が鮮明に写りすぎたため」というのだから、わからない。なぜなら、それは人気の“ホラー特番”で、ゲストとして番組内に霊能者や怪談師や心霊研究家などを招き、心霊スポットに芸人たちをロケに行かせておいて、映り過ぎた結果の処置だというのだから理解に苦しむ。何のためのロケ敢行なのか。大体、上層部の判断によって“お蔵入り”が決まったというのだが、上層部に判断をゆだねるほどの“映像”とはどんなものだったのか。この番組のMCを務めたお笑いコンビのニューヨークは最初“告知”を兼ねて「すごいものが撮れた」としていたのに、それを削除してしまった。そういう映像って何⁉ と誰でもなるだろう。大体が、そういうことをネタにした番組ではないのか。それなのに、いざ「ホンモノ」が写ると、それは“なし”にしてしまうというのはどういうことなのだろう。UFO番組とか、宇宙人番組とか、古代ミステリー番組とかでもそうだが、肝心の部分になると、それを“見せない”のでは、あまりにも視聴者をバカにしていないだろうか。「安心してください。ちゃんと穿いています」という番組ではないはずだ。フェイク映像なら流せるが、ホンモノ映像なら流せない、というのでは、そういう放送局が扱う“政治番組”や“思想事件”や“歴史番組”などでも、都合の悪いところはカットされているか、または差し替えられている可能性が高い。こういう放送局は、たとえば「本物の宇宙人」が映像で捉えた場合も“お蔵入り”にするに違いない。一体、何の権限があって、そういう“操作”を行うのだろう。ありのままを放映するのが“正しい報道の在り方”ではないのか。それとも、大衆を自在にコントロールし続けていくのが“日本のマスコミの在り方”ということなのだろうか。それなら、最初から専門家など呼ばずに、自分たちだけで番組を作ればいい。形だけの“心霊番組”など大衆を愚弄し続けるものでしかない。

麻原彰晃の説教に似て来た⁉「韓鶴子の説教」

2023-07-04
「麻原彰晃」といえば誰もが想い出す「オウム真理教」の教祖だった人物だ。その麻原の“宗教理論”の一つは「来るべき滅亡の時に備えよ」というものだった。オウム真理教が徐々に追い込まれていく中で、この主張は激しさを増していった。この時代のことを、わたしは想い出す。TBSの独自取材によって、旧統一教会の総裁を務める韓鶴子氏が、その聖地とされる清平で幹部1200名を集めて行ったとされる“説教内容”は、しばしば巨大化した宗教組織のトップに立つ人物が抱きがちな“思い上がり”が結実している。まず彼女は「日本は戦犯国だということ。原罪の国なのよ。ならば賠償すべきでしょう」と決めつける。実は旧統一教会というのは、基本的には「原始キリスト教」的な解釈を下敷きにした宗教だ。つまり“原罪を背負っている人間”は、その賠償を果たさなければならない、という捉え方だ。本来のキリスト教では、その原罪とは“快楽に溺れる”ことなどを指すが、旧統一教会の場合には「戦犯としての日本国」そのものを指す。したがって、日本人は韓国人に対して“原罪を背負っている”という発想なのだ。だから、日本の男性たちには多額の寄付を要求し、女性たちには“韓国人男性に対して尽くすこと”を要求する。これが韓国本部が他に国とは違って日本に対して“過激要求”を求めて来る一番の理由なのだ。その“身勝手な理論”をそのまま受け入れて来た日本の信者たちにも問題があるが、ここにきて“解散命令”が出そうな雲行きとなって、慌てたのが韓国本部なのだ。だから必死に日本の政治家を攻撃する。「今の日本の政治家たちは統一教会に対して何たる仕打ちなの。家庭連合を追い詰めてるじゃない。政治家たち、岸田をここに呼びつけて教育を受けさせなさい」という高飛車な発言をしている。そして日本は「滅びるしかない」と決めつける。明らかに昔、麻原彰晃が追い詰められて「滅亡する」と怒鳴っていたのと同様なのだ。滅亡するのは「日本」ではなく「旧統一教会」の方なのだ。それを予感しての過激発言だ。悔い改めた方が良い⁉

古典的な「円蓍(えんし)」で真瀬易が降りる⁉

2023-07-03
ときどき古典的な「占い」を、現代的にアレンジして“蘇らせる方法”はないか、と考える。古典的なままだと、ほとんどの占いは現代では通用しなくなっている。理由はさまざまだが、いちばんは面倒で手間暇のかかるものが多かったり、あまり実用的ではなかったりするからだ。だが、そういう感じで消えてしまいつつあるような“占い”の中に、ときどきキラリと光るものがある。そういう占いを見つけ出して、現代的にアレンジし、後世の研究者に引き継いでいくのも、わたしの仕事の一つだと思っている。新しい占いの生徒さんのために“占い用具”を探していく中で、占い師の方の中に“古典的な占術用具”を自ら制作している方を見つけた。四国で江戸時代に活躍した易占家・真勢中州氏が用いていた「円蓍」と呼ぶ筮具を復元販売されている方だ。通常、占い用具の販売と実占家とは別な場合が多く、そういう場合には実占的には“使い勝手の良くない製品”が多い。ところが、この方の場合、実占家でもあるので、そういう点の心配はない。価格に関しては“手作り製品”としては程度な価格帯だ。たぶん今日か明日に届く予定で、実際に届いて使ってみなければ本当のところはわからない。ただ江戸時代に一世を風靡した易占家・真勢中州氏が発案した易具で一度で“中筮法”としての結果を出すことが出来る“優れモノ”なのだ。もしかしたなら、これを用いることによって、真勢中州の霊が降りて来て、わたしに“素晴らしい占断”を授けるようになるのではないだろうか。なにしろ、江戸時代には新井白蛾や平澤随貞と並んで活躍した“易占の大家”だった。しかも“真勢流”という形で、さまざまな“新しい観方・判断の仕方”を後世に伝えた。新井白蛾氏の方も“独自の観方・判断の仕方”を伝えたが、真勢氏ほど後世には浸透していない。ただ江戸時代には易占だけでなく、観相や風水・遁甲なども含めて日本独自の観方・判断の仕方が各種誕生した時代で、そういう意味では運命学上でも大いに繁栄した時代だったと言えるような気がする。

終わりではなく始まり「西日本の豪雨災害⁉」

2023-07-02
わたしが気候変動現象から予感した「西日本の豪雨」について書いたのは6月10日だった。つまり、今年は西日本の日本海側の地域が特に“気象災害”を受けやすいこと、それもスコールのような感じで突然やって来る集中豪雨によって浸水するとか陥没するとか土砂崩れが起こるとか……気象予報士でもなかなか予測しがたい形での豪雨被害が起こりやすい。特に台風でもないのに強風を伴う形で突然やって来る集中豪雨は防ぎようがない。それゆえ前もって背後に山の斜面がある住宅などは要注意が必要な年なのだ。ここ数日、実際に西日本では“それに近い大雨”がやってきた。実際に予想が現象化したことで、お終いのように思う人がいるかもしれないが、実はこれからが本番とでもいうか、ここ数日の現象はまだまだその序曲に過ぎない。こういう、面白くもない現象を予感するのは気が重いが、今年の場合はエルニーニョ現象の変形が根本にあるので、日本ばかりではなく世界各地域において大規模な気象変動の作用を受ける。こういう年はだから一方で“熱波”が襲い、その一方では“大洪水”が襲う、というような対比的な現象が生じやすい。もしかすると日本列島の中でも、そういった“まばらな気象状態”としてほぼ同時にやって来るかも知れない。極端な現象として出て来るのが特徴なので、同じ一日のうちでも“真夏”と“真冬”を同時に体験するような強烈なスコールの後の熱波とか、雹や霰が降った後の熱波とか、気象予報士泣かせの天気が訪れる日が多いものと思われる。もっとも、その代わりというべきか“大きな地震”に襲われることは少ない気がする。近年の日本列島に対しての雨の降り方は、昔のように“通常梅雨”の振り方ではない。じとじとと長雨として続く降り方ではなく、場所や地域を限定し、集中して一気に襲ってくる降り方なのだ。したがってどうしても災害を引き起こしやすい。もう、穏やかな情緒豊かな「日本の夏」は消えて行ってしまったのだろうか。

仕事による「精神労災」急増から視えるのは

2023-07-01
厚生労働省が統計を取り始めた1983年の開始以来、昨年一年間の“労災申請”の数、及び、それが“精神労災”として認定を受けた数が、それぞれ最大の数になったという。つまり、仕事や職場でのストレスなどが原因で“うつ病”などの精神疾患に追い込まれていく人、或いは長時間労働によって脳や心臓に負担がかかり病を発症したとされる人の数が、どんどん増えているというデータの公表だ。職場環境を少しでも良くしていこうと努力している企業は多い。それなのに、精神面での労災申請と認定はどんどん増えていく。どうしてなのだろう。わたしはいちばんの原因は職場内のIT化、デジタル化、コミュニケーション不足にあると思う。もちろん、IT化やデジタル化が進んだことによって、仕事のスピードが速まったり、人手不足が解消されたり、さまざまな点で便利になったりする恩恵はある。けれども、人のココロというのはそういうものによって満たされたり癒されたりはしない。IT化が進めば進むほど、デジタル化が進めば進むほど、職場内における人としてのコミュニケーションは減る。黙ったまま仕事をしなければならない。昔の人はいろいろな言葉を遺した。「袖すり合うも他生の縁」とか「同じ釜の飯を食う」とか「遠くの親戚より近くの他人」とか……それらのいずれもが、身近に居る人達との交流を表す。特に毎日、顔を合わせるような人々との関係性を表す。つまり、電車内でいつも接近しあって、袖とかが触れ合うような距離にある二人は、過去世においても“何らかの縁”を持っていた可能性がある。或いは職場の同僚たちと一緒に“飲み食い”していれば自然に深い交友関係になる。さらには井戸が“生活用水”だった時代には黙っていても井戸端会議で話が弾み実家の家族より親しくなっていく。これらの現象が、近年はぱったりと消えた。袖は“摺り合わない”ように気を付けるし、職場の同僚との飲み食いは失われがちだし、隣にだれが住んでいるかさえもわからない。そういう時代になった。だからプライベートは守られるが、同時に人との距離感はどんどん大きくなって、孤独感が強まる社会構造になっている。特に仕事上の“悩み”や“苦しみ”や“疑問”をぶつける場所がない。もう少しだけ「昔に戻る」部分があった方が、人は活き活きと生きられるのではないだろうか。 Newer Entries »