6月, 2024年

「水原一平」の“ワル”に相応しい「大仁田厚」

2024-06-06
わたしがTVドラマのプロデューサーなら、迷わず“水原一平役”には俳優ではないが大仁田厚氏を使う。もちろん大仁田厚氏はプロレスラーで政治家でもあるが、役者的な要素がいっぱいだし、怪しい部分ももって居るし、なんとなく“暗い情熱”というものを、その背中から感じさせる。もちろん水原一平は大谷翔平氏の元通訳で、許されざる犯罪を犯した。だが、その生き方には妙にドラマチックなところがあり、それがアメリカの敏腕プロデューサーを動かしたのだろう。アメリカのTVでドラマ化されることが早くも決定しているらしい。もちろん、ドラマ化には大金が動くはずで、とてつもない借金を抱えることになった水原一平は“それ”を拒否するはずがない。大谷氏の方はプライベートを晒されるのは好まないはずで、おそらく水原一平の物語だが、実名を伏せるような形で“完全ドラマ化”するならOKを出すのではないだろうか。さて、問題は誰を“水原一平役”とするか、誰を“大谷翔平役”とするか、それらの部分に絞られる。この場合、大リーグの選手としてしまうと、すぐ大谷翔平の名が思い浮かぶので、わたしなら今アメリカで活躍している“プロレスラーの通訳”という形にする。そうすれば或る程度時間も自由になり、一緒に行動して移動しても、不自然ではない。そして、そのアメリカで活躍しているプロレスラーという設定では現新日本プロレスの社長である棚橋弘至氏に出演してもらう。そうすれば違和感は少ない。棚橋氏はかつて“覆面プロレスラー役”での映画出演の実績がある。そして問題の“水原一平役”として適任なのは大仁田厚氏だ。彼は、まず何よりも、その風貌が水原一平に似ている。少し小柄で年齢も違いすぎるのが難点だが“暗い情熱”と眼光の鋭さはどうしても必要な役柄で、もう一つアメリカ在住経験がどうしても必要だ。大仁田厚氏は武者修行時代にも、それ以降にも、何度もアメリカにわたっていて、その在住経験者特有の雰囲気も身に付いている。それに、どこかに“人間的魅力”もある。このドラマは“どうしようもないワル”なのだが、それでいて人間性もあるというか、奇妙な魅力ももって居なければならない。そして何より“どす黒い野望の持ち主”であることも必要なのだ。もし、大仁田厚氏を「水原一平役」としてドラマ化することが出来れば、間違いなく世界に配信しても大ヒットするに違いない。

「一人娘への溺愛」が「首狩り殺人鬼」を生む

2024-06-05
昨年、世間を騒がせた「ススキノの首狩り殺人」の公判が始まった。容疑者・田村瑠奈の母親が証言台に立ち、さまざまな事実を語った。それらから推測するに、殺人ほう助の父親も含めて、この三人家族の在り方は、明らかに異様だった。或る意味で、父親は精神科医であったが故、自らの家庭を“実験現場”のような認識を持っていて、精神異常者(瑠奈容疑者)を“救う”には何が必要なのか、どうするのが正しいのか、試していたような節も窺われる。そうでなければ、引き篭もりの娘を「お嬢さん」と奉り、自分たちが“運転手”や“風俗嬢”など蔑まれた“奴隷的な扱い”を甘んじて受け入れるはずがない。父親は精神科医として、娘に“全幅の愛情”を捧げることで、いつか娘が“まともな状態”へと立ち直っていくか…の期待を抱いていたのではないだろうか。瑠奈容疑者は「多重人格的要素がある」とも言われているが、それも、もしかしたら、父親の方が“そういう方向”へと無意識に仕向けた可能性はないのか。そうすることで、或る意味では、甘やかしすぎて不登校から引き籠もりにいたり、さらにはわがまま放題となって“お姫様状態”の暮らしを助長させていったことへの言い訳にしていたような節も窺われる。これは、だから、或る意味では多くの“引き籠もり状態”を続けている子供を持つ親たちへの警告でもある。やはりというか、あまりの放置状態、加えて、あまりのわがまま状態を“世間から目隠し”してはならないのだ。なぜなら、そうすればするほど、本人は「ありのままで良い」という歌のような錯覚を持つ。あの歌は危険なのだ。ほんとうにありのままで良いのは、社会生活を健全に送っている人達のことだ。健全に社会生活を送れていない人たちが“ありのまま”で良いはずがない。幼少期とか、青春期とかの引き籠もりは、或る意味では仕方がない場合もある。また身体に欠陥がある場合にも、仕方がない場合もある。けれども、心身とも本来は“正常”である場合、社会に“居場所を見いだせない”のは、本人の方にも何らかの問題はある。そういう認識がなければ、いつまでたっても“引き籠もり”からは脱却できない。自分の子供を“異常者”にしないためにも、ありのままで居させてはならない。

海外暮らし「吉・凶」半々と分れる「孤独感」

2024-06-04
外務省に届け出がある海外居住者たちに対してのアンケート調査の結果が報告されている。今回、外務省が調査目的としたのは「孤独感の割合」だ。対象となっているのは129万人だが、そのうちの5万5千人から回答があった。それによると海外生活において孤独を感じている人達は全体では45%くらいで、このうちの7%が「常に感じている」と回答。特にアジアやアフリカより欧州に暮らす人にその割合が高い。ただ、そういう人たちよりも「孤独を感じていない」人の割合の方が52%とやや高い。海外であっても、ほとんど孤独など感じず暮らしている人が半数以上のようだ。この調査は外務省が実施した海外居住者を対象としたものだが、わたしには何となく、地方から東京など「都会に出てきた人たち」を対象として行っても、似たような数字になるのではないか、という気がした。地方から東京に出て行けば、完全な標準語でない限り、その言葉の違いというのは微妙に周りとの距離感を作る。もちろん性格的に“そういうこと”を気にしない人なら、スムーズに周囲に打ち解けていくことが出来る。結局、海外であっても、国内であっても、孤独を感じるかどうかは“言葉”よりも“性格”の方が大きく影響しているような気がする。なぜなら、同じ外国でも、欧州に暮らしている人達の方が、アフリカに暮らしている人達よりも“孤独”を強く感じているからだ。もし、言葉の問題だけなら、アフリカの方が壁が大きいはずなのだ。人は言葉や会話だけで、周囲に打ち解けていくのではない。何となくの“考え方の違い”や“暮らし方の違い”に孤独感を噛みしめることもある。仕事や勉強などで仕方なく海外での暮らしをしている方と、自ら「日本」を飛び出すような形で出て行った方とでも、おのずと違いはありそうだ。自ら飛び出していく場合には、それなりの覚悟も居るし、帰る場所を持たない場合も多い。そういう場合には、新たな場所や暮らしに溶け込んでいく以外にはない。自分を“そこ”に合わせて行く以外にないのだ。或る意味では、帰る場所を持っていて、いつでも帰ろうと思えば帰れる状態にある方が、より“そこ”に溶け込んでいくことの難しさを感じて、孤独な気持ちから抜けきれないのかもしれない。

95歳で「世界新が三つ」60歳から始めた平泳ぎ

2024-06-03
なんの分野でも“世界新記録”というのは、そうそう打ち建てられるものではない。しかも、この女性は“世界新”を打ち建てた水泳を60歳になってから開始しているのだ。そこがすごい。子供のころからやってきて、その結果として“世界新記録”まで辿り着いたというのではなく、60歳になってから開始して、国内記録はだいぶ前に達成していて、一応、そこで“終わり”のはずだったのだが、そのためいったん止めていたのだが、どういうものが5年のブランクを経過しているのに「こんどは世界記録に挑戦したい」となったらしい。そこで、改めて水泳を開始して、あっという間に「世界記録達成」ということとなった。時々、こういう“余生”ともいうべき頃になって、ぐんぐん力を発揮していく人たちがいる。木村悦子氏は95歳で一人暮らしだが、炊事も洗濯も掃除も、すべて一人でやっていて、人の助けを借りるということがない。だからこそ、自然に体力がつき、ブランクがあっても力が衰えなかったのだろう。そういう意味では基礎体力を保ち続ける意味では、家事全般というのは有効な手段と言えるのかもしれない。今回の記録は平泳ぎの部門で50m、100m、200mの三種目だ。まあ、考えてみれば、記録は関係なく95歳で200m泳ぎ切れるということ自体がすごい。若い頃から、経済的な理由で、毎日、仕事を掛け持ちで頑張り続けていたらしい。おそらく、そのことも、基礎体力が保ち続けて居られた理由かもしれない。だから、そういう意味では、子供時代も大人になってからも貧乏の中で育つというのは、或る意味で“基礎体力を高める環境”を与えられていた…ということで、人間、何がプラスになるかわからないものなのだ。おそらく、どんなに恵まれた環境でスポーツの王道を歩んだ人であっても、高齢になっていくと、基礎体力が落ちて記録を伸ばすことなどは出来ないだろう。彼女は環境に恵まれずに、90代まで来てしまったことが、結果的に体力を失わずにいられた一番の理由となった。だから、何ごとも“環境のせい”などという理由は“ごまかし”に過ぎない。どういう環境からだって、素質と根性のある人は伸びていくのだ。

「惑星回帰」で、人は「自らの使命」想い出す

2024-06-02
「ひょうきん族」などで人気アナとなった寺田理恵子氏も、もう62歳となっていた。久しぶりのインタビュー記事で、現在は「朗読教室の講師」として活躍しているという。アナウンサーではないか、極めてアナウンサー寄りの仕事だ。その関係の本も出版されていて『日々の名作音読で人生の深みを知る』というエッセイ本も好評らしい。ところが、そんな彼女でも2012年に夫に他界され、いざ働かなければ……となった時、どんな仕事も採用されなかったという。人間の運命というのは、そういうもので、どんなに才能があろうと、過去の立派な履歴があろうと、運勢的に窮地にある時には、仕事を得られない。そこで、彼女はとりあえずつてに頼ってコールセンターのバイトを始めたらしい。それでも、思うような感じでちゃんとした仕事は出来なかったという。そういう中で偶然出逢った放送関係者から声を掛けられ、ラジオ番組に出られるようになった。それから現在につながる朗読教室の講師の仕事依頼もやって来たらしい。人生というのは解からないもので、どこから、どういうつながりで、何に関わるかわからない。ただ、その人に“相応しい役割や仕事”というのは必ずある。それは、本人が諦めることなく、自暴自棄にならず、いろいろ多方面に働きかけていれば、必ず、出逢うことが出来る。神様が与えてくれると言っても良い。これは、結婚相手にしても、そうである。本人が諦めてしまうと、そこで終わってしまうが、諦めなければ、よこしまな心を持たなければ、必ず“佳い出逢い”というものは生まれる。特に、わたしが「惑星回帰」と呼んでいるトランジット惑星が、出生時の同一惑星に対してアスペクトするとき、それも、ひとつの惑星だけでなく、いくつもの惑星がアスペクトするとき、そういう現象が生まれやすい。たとえば寺田氏の場合、現在トランジットの木星が木星に120度、天王星が天王星に90度、冥王星が冥王星に144度、ドラゴンヘッドがドラゴンヘッドに135度…と多数の惑星が同一惑星にアスペクトしている。正確に言えば「回帰」ではないが、同時に多数の惑星が自らの惑星にアスペクトするとき、人は自らの「使命」に目覚める。改めて目覚めると言った方が良い。そうして、自分が“生きている意味”を見出すのだ。

2024年6月の運勢

2024-06-01

「ファッション」で「人気奪還」佳子さま外交

2024-06-01
そう言えば若い頃の美智子妃も、そのファッションセンスの良さで、高度成長期の日本の女性たちの“お手本”的なところがあったような気がする。欧州の王室関係女性などのファッションを視ても感じるが「気品」&「清楚」&「華麗」が彼女たちの洋服択びの基本であるような印象なのだ。そこに行くと、最近の日本の皇室関係はいま一つ、そのどれもが“不足”している。せめて、そのうちの何か一つでも際立っていれば良いのだが、どうも、見栄えがしないというか、皇室意識が乏しいというか、そう感じさせる場合が多かった。その点、最近の佳子さまは何かが吹っ切れたようで、自分らしい“外交ファッション”を心掛けているような印象を与える。今回のギリシャ訪問も、いろいろな点で“自分らしさ”を出しているよう感じられるが、その訪問ファッションが日本国民にも久し振りで好評のようである。その証拠に、彼女が来ていた洋服が、あっという間に“品切れ状態”となっているらしい。今回、もっとも好評だったのは、ギリシャのイオニア海に浮かぶケルキラ島を訪問した時に来ていたマーメード型水色のワンピースだ。なんと今ではすぐ、その価格まで判明するらしく、日本のセルフォードから発売されている27500円のワンピースらしい。しかも、そのワンピースは昨年7月にパラグアイの高校生たちとの交流時にも着用していたもので、今回のために用意したものではないらしい。正直、わたしは今の皇室の経済状態を知らないが、海外旅行に出掛けるのに、しかも今回はギリシャと日本の外交樹立125周年の記念訪問で、私的訪問ではない。それなのに27500円のワンピースを再び着用するというのは、なかなかの経済観念ではないだろうか。それに、彼女の場合は、学生時代にダンスをやっていたせいもあってプロポーションが良く、その顔立ちも、どちらかと言えば“アイドル系”で若々しい。それゆえ、あまりかっちりした装いより「清楚」でありながらも“総レース仕立て”のマーメード型ワンピースが似合っていたということだろう。彼女の実姉はアメリカで、そのファッションがあまりに「場をわきまえていない」ということで、在米の日本女性たちから総スカンを食らった。それから学ぶことは多かったようで、今回のギリシャ訪問では「華麗」な部分は乏しいが、清楚さと気品は十分にアピールして、日本女性たちからの人気奪還が多少は叶ったのではないだろうか。 Newer Entries »